鎌倉の思い出(050416)
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05年4月16日(土曜日)
恩師の田丸謙二先生に会うため、鎌倉へ行ってきました。

鎌倉・散策
こんにちは、田丸先生!

朝、8時ごろ、浜松を出発

(浜松)→【新幹線】→(小田原)→【東海道線】→(藤沢)→【江ノ電】→(鎌倉)

途中、白内障がまたまた20%は進んだか(?)と思えるほどの、
春がすみ。のどかな相模湾を楽しみながら、一路、鎌倉へ


田丸先生は、お元気でした! よかった!


先生の部屋で……
アインシュタイン博士からの手紙などを、見せてもらいました。

裏庭の畑を見せてもらいました。
足元には、カリフラワーの芽が……
近く何十人も人が集まって、
バーベキューをするということでした。


ワイフも、久しぶりの再開で、うれしそう。


1日、1万歩を目標に歩いているということでした。
私も、先生に負けないで、1万歩、歩くことにしました。


携帯電話を万歩計に使っているとか……。



先生の家の玄関前で……
電車の通過をまっているところ。
おみやげまで買ってもらいました。
ワイフは、帰りの電車の中で、
もう食べていました。


鎌倉駅で別れるとき、思わず、涙ポロリ!
私がめったに見せない、泣き顔です。ハイ!

以下、鎌倉のおみやげ

鎌倉へは、予定より、早く着いたため、ワイフと、2時間ほど、
鎌倉の町の中を散策しました。
以下は、そのときとった、写真です。

桜は、ほとんど散っていました
八幡宮では、結婚式を
していました。
先生の家の近くの寺


田丸先生の前の家が、故中村光男の家でした。
今は、その家を買い受けた別の人が住んでいます。
先生の家も、この家も、トトロに出てくる、サツキとメイの家に
そっくりだとは、思いませんか?



先生、今日は、ありがとうございました!!

また会いましょう!
今度は、浜松へ、おいでください!


鎌倉旅行

●八幡宮

 前から予定していたように、4月16日(土)、私とワイフは、鎌倉へ向った。田丸謙二先生に会うためである。

 車は、教室の駐車場にとめた。そしてそのあと駅まで。でかけるとき、服装のことで、ワイフともめた。ワイフは、「セーターを着ていけ」とがんばった。私は「薄着で行く」とがんばった。

 私「ほら、みろ、この暖かさだ!」
 ワ「帰りは、寒いわよ」と。

 どこまでもがんばるのが、ワイフの悪いクセ。

 私はどこへ行くにも、2リットル入りのペットボトルをもっていく。水分を多量に補給しないと、体の調子がすぐ悪くなる。血圧が低いせいだと、自分では、そう思っている。

 浜松からは、新幹線。小田原まで行って、そこで在来線に。40分ほどで、藤沢に着いた。昔、仕事で世話になった、G社のTさんが長く住んでいた町である。そのTさんが住んでいたマンションの方角を指でさしながら、「Tさんは、あちらに住んでいたよ」と。

 藤沢からは、江ノ電という電車に乗って、鎌倉へ。35分ほどで、着いた。とたん、ものすごい人ごみ。春の行楽季節を重なった。構内のアナウンスが、さかんに、「スリに注意してください」を繰りかえしていた。

 私とワイフは、カバンをもちなおした。

ワ「約束の時間まで、ちょうど2時間、あるわね」
私「鶴岡八幡宮まで行こう」
ワ「そうね」と。

 途中、以前泊まったことがあるホテルがある。そのホテルを見たとたん、どっと、なつかさしさがこみあげてきた。

 二男はそのとき、3歳。その二男が、そのあたりで、迷子になった。さがしまわったあげく、警察へ行くと、二男は、警察のイスに座っていた。そして私たちを見ると、とたんに大声をあげて、泣いた。

 おかしなもので、そういう思い出のほうが、強烈に印象に残る。私たちはそのホテルを見ながら、八幡宮へ。

●扇が谷

 地元の人たちは、「泉(いずみ)やつ」とか何とかと呼んでいる。八幡宮からは、何度も行ったことがある道なので、田丸先生の家までは、迷わず、行くことができた。が、まだ、時間は、1時間ほど、あった。

 私とワイフは、近くを散策した。

 そのあたりは、昔から、著名な文豪がたくさん住んでいたところである。先生の家の前には、中村光夫が住んでいた。1度だけ、通りを歩いているとき、すれちがったことがある。もう1人は、里見ク(さとみとん)。有島武郎の実の弟にあたる。

 その里見クは、明治43年に、「白樺」の創刊に加わり、武者小路実篤、志賀直哉とともに、そののちの文学界で活躍した人物である。

 最後は、その扇が谷で過ごしている。1983年に、94歳でなくなったということだから、私が田丸先生の家に遊びに行き始めたころには、まだ生きていたことになる。

 が、今は、白い工事用の幕に囲まれて、中が見えなかった。

私「今とちがって、昔の文豪たちは、豪勢な生活ができたみたいだね。この家も、もとは、愛人との密会の場所として使っていた家だったそうだ」
ワ「どうして?」
私「昔は、ほかに、娯楽がなかっただろ。映画もないし、テレビもない。だからすべての娯楽が、小説に集中したというわけさ。ちょっと本が売れただけでも、大金持ちになったそうだ」と。

 田丸先生の家は、その里見クの家から、歩いて1分足らずのところにある。

●田丸先生

 私は「先生」と、畏敬の念をこめてそう呼んでいるが、先生は、私のことを、弟子とも、学生とも思っていない。またそういう関係でもない。

 私がオーストラリアのメルボルンで学生だったとき、3か月間、寝食をともにした。先生は、東大紛争の余波を受け、メルボルン大学へ、半ば避難するような形でやってきた。先生のいた研究室は、あの安田講堂のすぐ裏手にあった。

 私は私で、先生と、「師」としてではなく、「長年の友」として、尊敬している。もともと実力でも、立場でも、田丸先生には、かなわない。肩書きを並べただけでも、何十にもなる。

 二度目に先生の家の前の門の前に立つと、ワイフがこう言った。「先生、帰ってきているわよ」と。「洗濯物が、片づけてあるから……」と。

 鋳物でできた門を開け始めていると、家の玄関があいて、そこに田丸先生が立っていた。時刻は約束きっかり、2時15分。先生は、近くのテニスクラブの会長をしているということだった。天皇陛下も、ときどき、テニスを楽しむためにそのクラブへやってくるという。そのクラブの会合が、2時に終わるということで、2時15分にした。

 門を入って、すぐ、左手の畑が、目に入った。おかしなもので、それまでにも、何度か来たことがあるが、畑には気がつかなかった。先生も、私の視線を見て、畑へ案内してくれた。

 毎日1万歩を歩いているとかで、先生の体が、少しスリムになっているのを感じた。

●戦前からの家

 先生の家は、トトロに出てくる、サツキとメイの家と、色は、ちがうが、そっくりの家である。サツキとメイの家は、屋根は赤、壁はシロだが、田丸先生の家は、壁は、タール色。「色を白にしたら、そのまま、サツキとメイの家だ」と内心で、そう思った。

 その田丸先生の家の前にある、中村光夫が住んでいた家は、さらによく似ている。私は、何枚かの写真を、デジタルカメラに収めた。


 
裏庭から、表庭へ。以前来たときは、雑草におおわれていたが、意外と、きれいだった。「よくここでパーティをします」とのこと。野外用のバーベキューコンロも、つくってあった。

 のどかかな陽(ひ)だまり。新緑が美しかった。足元には、よく見ると、小さな野草が無数の花を咲かせていた。私とワイフは、それを踏みつけないように、慎重に歩いた。

 「ここが、ハーバー博士と写真をとったところですね」と私が言うと、先生は、うれしそうに笑った。アンモニアの合成化学で、ノーベル賞をとった博士である。

 「当時は窓でしたが、今は、下まで吐き出しになっています」と。

 先生のHPには、そのときの写真が載っている。先生は、まだ1歳前後。母親の腕に抱かれていた。
  
 先生の家系は、まさに科学者の家系。先生の父親も、著名な化学者。2人のお嬢さんたちも、その道を進んでいる。先生は、孫の話になると、とたんに目を輝かせる。その話もしてくれた。

●部屋で……

 学生のころは、毎晩のように徹夜で、話をした。静かな語り口だが、先生は、一度話しだすと、とまらない。

 話を聞いているうちに、そのまま35年前に、タイムスリップ。ふと途中で、「35年前みたいですね」ともらす。

 政治の話、教育の話、日本人論や民族論まで。「日本人も、自分で考える民族にならないと、これからの未来は、ないでしょう」とのこと。「何かにつけて、横並び意識が強すぎます」とも。

 アインシュタイン博士からの手紙も、見せてもらった。その中に「誇張された民族主義こそが、世界の平和にとって危険である」と書いてあった。

 「自分の国がすばらしいと思うのは、その人の勝手でも、その返す刀で、相手に向って、君は、劣っていると考えるのは、危険」と。私はアインシュタイン博士の手紙を、そう解釈したと話すと、先生も、「そうです」と言って笑ってくれた。

 あとは、介護の問題。

 「親子の問題は、それぞれの家庭でみなちがいます」とのこと。私も、まったく同感であった。「見た目には同じに見える親子でも、その関係は、それぞれによって、みな、ちがう。だから介護という一つのワクの中で、ものを考えることはできない」と。これは先生の意見。

 予定では、30分〜1時間ほどで、帰る予定だった。何しろ、いまだに(?)多忙な先生である。もともと私のような人間が、会うことすら許されない先生である。若いころは、怖いもの知らずで、生意気なことばかり言っていたが、今は、そうではない。

 その「怖いもの」がどういうものであるか、それがじゅうぶん、理解できる年齢になった。

 時計を見ると、5時を回っていた。そこで別れるつもりだったが、先生は、私とワイフまで、駅まで見送ってくれるという。何度も固辞したが、「今日は、1万歩も歩いていないから」と。

 鎌倉駅までは、歩いて、15分くらいか。せっかくの申し出だったが、夕食も、遠慮した。先生が入ろうとした割烹(かっぽう)は、一食、9000〜1万3000円もするような割烹だった。戸口の品書きを見て、びっくり。そんな割烹へ入るわけには、いかない。

 先生には言わなかったが、値段を見て、おじけついてしまった。そんな料理など、ここ10年、食べたことがない!

 駅で、Hサブレーをみやげに買ってもらった。とたん、大粒の涙が、ホロリと落ちてしまった。

 「先生、35年前と同じですね」と。また同じセリフをもらしてしまった。

 時の流れは、風のようなもの。どこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。

 家に帰ってインターネットを開くと、さっそく先生から、メール。掲載の許可は、もらっていないが、そのまま、ここに転載。

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林様:

メールを打ってお礼を書いていましたら。丁度ご帰宅のお電話を頂き
いろいろとお喋りしましたので、書き直しになります。 何か大変な頂き物
をしてしまい、こちらは折角用意していたもの(大したものではなかったの
ですが)お持ちしていただくことをすっかり忘れてしまい、本当に申し訳な
く、恐縮しております。

後で考えれば、もっといろいろと教えて頂ければよかったと、悔いが
残ります。 

これからもメール通してでもよろしくお願いします。

でもとても楽しい一時でした。 遠いところを有難うございました。
取り敢えず厚く御礼申し上げます。

くれぐれもお元気で。

田丸謙二

++++++++++++++++++++

 そうそう、その電話では、私の白髪のことを言っていた。「林君も白髪がふえましたね」と。そのとき、私も「先生だって、真っ白けのくせに」と思ったが、それは言わなかった。学生時代の私なら、そう言っていただろうが……。

 帰りの電車の中で、ワイフは、さっそくHサブレーを食べていた。それを食べながら、ワイフは、こう言った。「あなたは、いい友だちをもっていて、幸せね」と。それを聞きながら、私もHサブレーを口に入れた。
(050416記)

先生からのメール

鎌倉から帰るとき、先生が、「食事をご馳走します」と言ってくれた。そして鎌倉駅に向かった。途中、「ここです」と言って案内された料亭を見て、びっくり! 一食、1万5000円とか、そんな値段だった。

あわてて、私は、先生の申し出を断った。とんでもない! 先生に、そんな無駄遣いをさせてはいけない。そう思った。

それについて先生から、メールが届いた。



林様:

  昨日の日記拝見しました。 夕食をご馳走しようというのに、
半ば暴力的に拒絶されましたが、もしかして初めから「夕飯なしで帰
る」と言っておられたので、何処かで素晴らしいものを予定しておら
れるのではないか、と勘ぐりました。 そうしたら何とメニュウの値
段を見て頑張ったとは、思わず噴き出してしまいました。 何と言う
他人行儀なことだったのでしょうか。 あのレストランでもピンから
キリまでありますし、もしも口に合いそうになかったら、「もっと一
般的なところに行きましょうよ」で何がおかしいことがあったのでし
ょうか。可愛そうに奥さん途中お腹がすいたのでしょうが、本当に申
し訳ない気がしてなりません。折角来ていただいた珍客を遠くまで帰
るのを空腹のままで帰すなど何とお詫びしたらよいのか、本当にすみ
ませんでした。 あの素晴らしい奥さんにクレグレモ謝って下さい。

  田丸謙二







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