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●八幡宮
前から予定していたように、4月16日(土)、私とワイフは、鎌倉へ向った。田丸謙二先生に会うためである。
車は、教室の駐車場にとめた。そしてそのあと駅まで。でかけるとき、服装のことで、ワイフともめた。ワイフは、「セーターを着ていけ」とがんばった。私は「薄着で行く」とがんばった。
私「ほら、みろ、この暖かさだ!」
ワ「帰りは、寒いわよ」と。
どこまでもがんばるのが、ワイフの悪いクセ。
私はどこへ行くにも、2リットル入りのペットボトルをもっていく。水分を多量に補給しないと、体の調子がすぐ悪くなる。血圧が低いせいだと、自分では、そう思っている。
浜松からは、新幹線。小田原まで行って、そこで在来線に。40分ほどで、藤沢に着いた。昔、仕事で世話になった、G社のTさんが長く住んでいた町である。そのTさんが住んでいたマンションの方角を指でさしながら、「Tさんは、あちらに住んでいたよ」と。
藤沢からは、江ノ電という電車に乗って、鎌倉へ。35分ほどで、着いた。とたん、ものすごい人ごみ。春の行楽季節を重なった。構内のアナウンスが、さかんに、「スリに注意してください」を繰りかえしていた。
私とワイフは、カバンをもちなおした。
ワ「約束の時間まで、ちょうど2時間、あるわね」
私「鶴岡八幡宮まで行こう」
ワ「そうね」と。
途中、以前泊まったことがあるホテルがある。そのホテルを見たとたん、どっと、なつかさしさがこみあげてきた。
二男はそのとき、3歳。その二男が、そのあたりで、迷子になった。さがしまわったあげく、警察へ行くと、二男は、警察のイスに座っていた。そして私たちを見ると、とたんに大声をあげて、泣いた。
おかしなもので、そういう思い出のほうが、強烈に印象に残る。私たちはそのホテルを見ながら、八幡宮へ。
●扇が谷
地元の人たちは、「泉(いずみ)やつ」とか何とかと呼んでいる。八幡宮からは、何度も行ったことがある道なので、田丸先生の家までは、迷わず、行くことができた。が、まだ、時間は、1時間ほど、あった。
私とワイフは、近くを散策した。
そのあたりは、昔から、著名な文豪がたくさん住んでいたところである。先生の家の前には、中村光夫が住んでいた。1度だけ、通りを歩いているとき、すれちがったことがある。もう1人は、里見ク(さとみとん)。有島武郎の実の弟にあたる。
その里見クは、明治43年に、「白樺」の創刊に加わり、武者小路実篤、志賀直哉とともに、そののちの文学界で活躍した人物である。
最後は、その扇が谷で過ごしている。1983年に、94歳でなくなったということだから、私が田丸先生の家に遊びに行き始めたころには、まだ生きていたことになる。
が、今は、白い工事用の幕に囲まれて、中が見えなかった。
私「今とちがって、昔の文豪たちは、豪勢な生活ができたみたいだね。この家も、もとは、愛人との密会の場所として使っていた家だったそうだ」
ワ「どうして?」
私「昔は、ほかに、娯楽がなかっただろ。映画もないし、テレビもない。だからすべての娯楽が、小説に集中したというわけさ。ちょっと本が売れただけでも、大金持ちになったそうだ」と。
田丸先生の家は、その里見クの家から、歩いて1分足らずのところにある。
●田丸先生
私は「先生」と、畏敬の念をこめてそう呼んでいるが、先生は、私のことを、弟子とも、学生とも思っていない。またそういう関係でもない。
私がオーストラリアのメルボルンで学生だったとき、3か月間、寝食をともにした。先生は、東大紛争の余波を受け、メルボルン大学へ、半ば避難するような形でやってきた。先生のいた研究室は、あの安田講堂のすぐ裏手にあった。
私は私で、先生と、「師」としてではなく、「長年の友」として、尊敬している。もともと実力でも、立場でも、田丸先生には、かなわない。肩書きを並べただけでも、何十にもなる。
二度目に先生の家の前の門の前に立つと、ワイフがこう言った。「先生、帰ってきているわよ」と。「洗濯物が、片づけてあるから……」と。
鋳物でできた門を開け始めていると、家の玄関があいて、そこに田丸先生が立っていた。時刻は約束きっかり、2時15分。先生は、近くのテニスクラブの会長をしているということだった。天皇陛下も、ときどき、テニスを楽しむためにそのクラブへやってくるという。そのクラブの会合が、2時に終わるということで、2時15分にした。
門を入って、すぐ、左手の畑が、目に入った。おかしなもので、それまでにも、何度か来たことがあるが、畑には気がつかなかった。先生も、私の視線を見て、畑へ案内してくれた。
毎日1万歩を歩いているとかで、先生の体が、少しスリムになっているのを感じた。
●戦前からの家
先生の家は、トトロに出てくる、サツキとメイの家と、色は、ちがうが、そっくりの家である。サツキとメイの家は、屋根は赤、壁はシロだが、田丸先生の家は、壁は、タール色。「色を白にしたら、そのまま、サツキとメイの家だ」と内心で、そう思った。
その田丸先生の家の前にある、中村光夫が住んでいた家は、さらによく似ている。私は、何枚かの写真を、デジタルカメラに収めた。
裏庭から、表庭へ。以前来たときは、雑草におおわれていたが、意外と、きれいだった。「よくここでパーティをします」とのこと。野外用のバーベキューコンロも、つくってあった。
のどかかな陽(ひ)だまり。新緑が美しかった。足元には、よく見ると、小さな野草が無数の花を咲かせていた。私とワイフは、それを踏みつけないように、慎重に歩いた。
「ここが、ハーバー博士と写真をとったところですね」と私が言うと、先生は、うれしそうに笑った。アンモニアの合成化学で、ノーベル賞をとった博士である。
「当時は窓でしたが、今は、下まで吐き出しになっています」と。
先生のHPには、そのときの写真が載っている。先生は、まだ1歳前後。母親の腕に抱かれていた。
先生の家系は、まさに科学者の家系。先生の父親も、著名な化学者。2人のお嬢さんたちも、その道を進んでいる。先生は、孫の話になると、とたんに目を輝かせる。その話もしてくれた。
●部屋で……
学生のころは、毎晩のように徹夜で、話をした。静かな語り口だが、先生は、一度話しだすと、とまらない。
話を聞いているうちに、そのまま35年前に、タイムスリップ。ふと途中で、「35年前みたいですね」ともらす。
政治の話、教育の話、日本人論や民族論まで。「日本人も、自分で考える民族にならないと、これからの未来は、ないでしょう」とのこと。「何かにつけて、横並び意識が強すぎます」とも。
アインシュタイン博士からの手紙も、見せてもらった。その中に「誇張された民族主義こそが、世界の平和にとって危険である」と書いてあった。
「自分の国がすばらしいと思うのは、その人の勝手でも、その返す刀で、相手に向って、君は、劣っていると考えるのは、危険」と。私はアインシュタイン博士の手紙を、そう解釈したと話すと、先生も、「そうです」と言って笑ってくれた。
あとは、介護の問題。
「親子の問題は、それぞれの家庭でみなちがいます」とのこと。私も、まったく同感であった。「見た目には同じに見える親子でも、その関係は、それぞれによって、みな、ちがう。だから介護という一つのワクの中で、ものを考えることはできない」と。これは先生の意見。
予定では、30分〜1時間ほどで、帰る予定だった。何しろ、いまだに(?)多忙な先生である。もともと私のような人間が、会うことすら許されない先生である。若いころは、怖いもの知らずで、生意気なことばかり言っていたが、今は、そうではない。
その「怖いもの」がどういうものであるか、それがじゅうぶん、理解できる年齢になった。
時計を見ると、5時を回っていた。そこで別れるつもりだったが、先生は、私とワイフまで、駅まで見送ってくれるという。何度も固辞したが、「今日は、1万歩も歩いていないから」と。
鎌倉駅までは、歩いて、15分くらいか。せっかくの申し出だったが、夕食も、遠慮した。先生が入ろうとした割烹(かっぽう)は、一食、9000〜1万3000円もするような割烹だった。戸口の品書きを見て、びっくり。そんな割烹へ入るわけには、いかない。
先生には言わなかったが、値段を見て、おじけついてしまった。そんな料理など、ここ10年、食べたことがない!
駅で、Hサブレーをみやげに買ってもらった。とたん、大粒の涙が、ホロリと落ちてしまった。
「先生、35年前と同じですね」と。また同じセリフをもらしてしまった。
時の流れは、風のようなもの。どこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
家に帰ってインターネットを開くと、さっそく先生から、メール。掲載の許可は、もらっていないが、そのまま、ここに転載。
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林様:
メールを打ってお礼を書いていましたら。丁度ご帰宅のお電話を頂き
いろいろとお喋りしましたので、書き直しになります。 何か大変な頂き物
をしてしまい、こちらは折角用意していたもの(大したものではなかったの
ですが)お持ちしていただくことをすっかり忘れてしまい、本当に申し訳な
く、恐縮しております。
後で考えれば、もっといろいろと教えて頂ければよかったと、悔いが
残ります。
これからもメール通してでもよろしくお願いします。
でもとても楽しい一時でした。 遠いところを有難うございました。
取り敢えず厚く御礼申し上げます。
くれぐれもお元気で。
田丸謙二
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そうそう、その電話では、私の白髪のことを言っていた。「林君も白髪がふえましたね」と。そのとき、私も「先生だって、真っ白けのくせに」と思ったが、それは言わなかった。学生時代の私なら、そう言っていただろうが……。
帰りの電車の中で、ワイフは、さっそくHサブレーを食べていた。それを食べながら、ワイフは、こう言った。「あなたは、いい友だちをもっていて、幸せね」と。それを聞きながら、私もHサブレーを口に入れた。
(050416記)
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