自分
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自分

私論

●自己嫌悪→自己否定→自暴自棄

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ときどき、私は、自分がいやになることがある。
いやになって、何もかも破壊したくなることがある。

死にたいと思うことさえある。しかしその勇気も
度胸もない。だから生きているだけ……?
そんなふうに感じることもある。

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 私は、ちょっとしたきっかけで、よく自己嫌悪に陥(おちい)る。が、そこで止まるわけではない。それが瞬間的に増幅されて、自己否定へとつながり、しばらくすると、今度は、何もかもいやになる。何もかも、破壊したくなる。

 ただ幸いなことに、そうした状態になるのは、家の中だけ。外の世界や、仕事の世界では、ならない。かろうじてだが、そういう意味では、自己管理能力が、まだしっかりしている。しかし私のワイフこそ、えらい迷惑。そのため、離婚騒動など、毎年恒例。今では、「離婚」を考えるのも、めんどうになった。

 こういう私のゆがんだ性格は、私が幼児のときに、心の中に作られた。今なら確信をもって、そう断言することができる。私は、4、5歳のころから、両親の夫婦げんかを、数日おきに見て育った。それが私の心のキズ(トラウマ)となった。

 そこで私は、多分、現実の世界から逃れるために、心の中にもうひとつ別の私をつくった。冒頭に「破壊したくなる」と書いたが、それは、自暴自棄に近い状態をいう。たとえて言うなら、将棋をさしていて、途中で、何かヘマをすると、駒を投げて投了するようなもの。まだ負けたと決まっているわけでもないのに、先を悲観して、そうなってしまう。

 そういうときの私は、生きていることさえ、いやになる。が、自分で死ぬほどの勇気も度胸もない。だから家を飛び出したようなときには、内心では、「だれかが、車で自分をハネてくれればいい」などと思う。そう思いながら、道をトボトボと歩く。

 あえて言うなら、私のワイフは、私のことを愛してはいないと思う。ただ、今、いっしょに住んでいるのは、心理学でいう、「共依存」のようなもの。ワイフにすれば、見るに見かねて、しかたないからいっしょに、いる、といった感じ。ワイフは、「そうでない」とよく言ってくれるが、私は、どうしても自分の心を開くことができない。だから、そういう精神状態になると、ワイフも含めて、他人を信ずることができない。

 さみしい男だと、自分でもわかっている。が、そういう私が、同時に、ワイフをも、さみしい思いにさせている。それもわかっている。夫婦なのだから、たがいの心を全部開いて、ウソ隠しなく、自分をさらけだす。その大切さはわかっているが、どうしても私には、できない。

 これはたとえて言うなら、過去の不倫や浮気を、どこまでさらけ出せるかという問題に似ている。過去に不倫や浮気をしたことがある夫や、妻は、それを今の妻や夫に、話すことができるだろうか。許しを乞うためでもでも、よい。それを話すことができるだろうか。たがいに心を開くということには、そういうところまで、ウソ隠しなく話す……という意味まで含まれる。

 が、ここで重要なことは、こうした心理状態は、私という、どこか特殊な人間のことであって、そのままそれが、みなに、当てはまるということではない。私はそういう点では、不幸にして不幸な家庭に育った。親類の人たちは、子どものころの私を思い出して、こう言う。「浩ちゃんは、いつも明るく、ニコニコ笑っていた」「愛想のいい子どもだった」と。

 しかしそれこそ、まさに捨て犬の根性。私はだれにでもシッポを振る、そんな子どもだった。忠誠心は、ゼロ。いつも損得の計算ばかりしていた。そして結局は、だれにも心を開かなかったし、開けなかった。本当の自分をさらけ出したくても、本当の自分がどこにいるかさえ、わからなかった。

 私の中に、もう1人の「私」ができたのは、そのころである。

 明るく人づきあいのよい私。が、それは仮面。人に好かれるための仮面。が、そうした生きザマは、猛烈なストレスを内へ内へとためこむ。それがあるとき、臨界点に達したとき、爆発する。それが冒頭に書いた、自己嫌悪である。

 ワイフはこう言う。「私たちは、いろいろなことをしてきたわ。ふつうの夫婦たちよりも、何倍も、何倍も、濃密な思い出をもっているわ。どうしてあなたは、そういう思い出まで、否定してしまうのよ」と。

 が、自暴自棄になった私には、それが理解できない。幸福だった日々のほうこそ、幻想のように思ってしまう。無価値で、無意味、と。だからそれらが破壊されてしまったとしても、おしいとは思わない。そういう心境になる。つまり、その時点で、自ら死ぬことで、命を断ったとしても、おしいとは思わない。自暴自棄という状態が極限まで進んだとき、そこにあるのは、自殺ということになる。

 が、おかしなことに、そういう状態になっても、もう1人の自分が消えるわけではない。もう1人の自分、それを「正常な私」とするなら、その正常な私が、自暴自棄になった私に、ブレーキをかける。「よせよせ、そんなことをして、何になるのだ」「もうやめろ」「お前はバカなことをしている」と。

 しかしこの問題は、脳のCPU(中央演算装置)にかかわっている。だから、どちらが本当の私で、どちらがニセの私なのか、わからなくなる。どちらも、本当の私ということになる。

 が、夫婦や家庭は、円満であるほうが、よい。けんかするより、仲がよいほうがよい。だから結局は、もとのサヤに収まることになる。時間にすれば、半日か、1日程度か。たいてい私のほうが、「悪かった」「ごめんね」で終わる。

 で、こうして私の心のキズは、今日もつづく。明日も、つづく。このまま一生、つづく。心のキズというのは、そういうもの。そしてこうした心のキズをもっている人は、いくらでもいる。ほとんどの人が、もっていると言っても過言ではない。だれしも、何らかのキズをもっている。

 そこで大切なことは、こうした心のキズがあることが問題ではなく、心のキズがあることに気づかないまま、同じ失敗を繰りかえすこと。それが問題。それに気づいたら、あとは、そのキズとうまくつきあって生きていく。仲よく、つきあって生きていく。

 消そうとしたところで、心のキズなど、簡単に消えるものではない。

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私はあるとき、自分が、捨て犬と同じ
根性をもっていることを知った。

それについて書いたのが、つぎの原稿
です。(中日新聞掲載済み)

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教育を通して自分を発見するとき 

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。

A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。

同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。

私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。





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