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より人間らしく生きるための10の鉄則

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【序章】

【より高い人間性を求めて】(1)

++++++++++++++++++

古今東西、実に多くの哲学者たちが、
「どうすればより人間として、
人間らしく生きることができるか」という
テーマについて考えている。

ここでは、マズローの「欲求段階説」を
中心に、それを考えてみたい。

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 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、「生きることのすばらしさ」というか、それが、鮮明にわかるようにな
る。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。


【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう


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●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、遊離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マズ
ロー A・H・マズロー 欲求段階説 人間らしい生き方



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*    【人間らしく生きるための、10の鉄則】
*    (マズローの「欲求段階説」を参考にして)

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A・H・マズローは、「欲求段階説」を唱え、
最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。
人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、
より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようになる、と。

マズローの欲求段階説をもとに、私は、
人間らしく生きるための10か条として、
つぎのように考えた。

AHマズローは、アメリカ心理学会の会長を
務めたこともある人物である。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

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 ここにあげた10の鉄則は、どれも、きわめて常識的なものと考えてよい。だれもが、「そうだ」
と納得できることを、10の鉄則にまとめたにすぎない。

 しかしその常識的であるという点が、むずかしい。

 たまたま昨日(9月15日)、あの忌まわしい地下鉄サリン事件の首謀者である、A被告の死
刑判決が確定した。それについて、教団内部では、(1)A死刑囚の奪還計画、(2)死刑執行と
ともに、信者たちの後追い自殺などの動きが見られるという(Yahoo・news)。

 (常識)をはずれた人たちは、そこまで狂う。

 そこでどうすれば、その(常識)をみがくことができるかということになる。マズローは、そのヒ
ントを私たちに与えてくれた。心理学者として、数多くの、人間の(心)をみつめてきた人であ
る。その意見は、傾聴に値する。

 で、マズローの欲求段階説によれば、人間は、最終的には、「自己実現」をめざすという。わ
かりやすく言えば、「私の確立」ということか? 崇高で気高い自己概念(=こうでありたいと描く
自分像)をもち、その自己概念に、現実自己(=現実の自分)を完全に一致させる。そのとき
「私」は、完成する。

 この10の鉄則の中で、最大のポイントは、「いかにすれば、現実的に生きられるか」である。

 以前、こんな原稿を書いた。少し話が脱線するかもしれないが、「現実的に生きるためのヒン
ト」になれば、うれしい。

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子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪が
ある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だ
けをよくしようとしても、無理。

子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンし
んちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ
ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数
のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくし
てしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間
になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を
見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の
人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。

「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、
こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が
悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。そ
れが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)
 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)

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神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。

仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。

ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中に
ある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100
万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった25年前には、
「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらの
ほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小5男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

たとえば親鸞の『回向論(えこうろん)』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。

もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そ
ういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。

いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障
害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろ
うか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。

神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい
で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということ
が地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまで
わかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら
努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそ
う考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。

+++++++++++++++++

第2の鉄則と、第3の鉄則は、
「あるがままに、世界を受けいれよう」
「自然で、自由に生きよう」である。
それについても、以前、こんな原稿を
書いたことがある。
なお私がいう「自由」とは、「自らに由(よ)る」
という意味である。
好き勝手なことを、気ままにすることを
自由とは言わない。

+++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。

「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなく
なる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えてい
る。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。

あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無
駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。

だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子ど
もたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども
時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくても
いいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観
の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味
がわからないのではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こ
そが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自
分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由(よ)る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育て
の基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。

いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な
子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは
精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出す
と、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最
後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に
居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手が
つけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

+++++++++++++++++

 自分を客観的に見るということと、
他者との共鳴性については、一見、
正反対の位置にあるように思う人が
いるかもしれないが、この両者は、
紙にたとえて言うなら、(表)と(裏)
の関係にある。

 つまり自分の視点を、他人の目の中に
置いてみる。その他人の目を通して、自分を見る。
その人自身の心の中を見る。

 方法は簡単である。

 たとえば通勤電車の中に座ったとしてみよう。
通路をはさんで、その向こうには、
ほかの客たちが座っている。

 そのとき、それぞれの客の中に、
自分を置いてみればよい。
最初は、「相手から見ると、自分はどんなふうに見えるだろう」
と想像するだけでよい。
あなたが相手を見るように、相手から見る自分を想像する。

 これを繰りかえしていると、自分の姿が、
より客観的に見えるようになると同時に、
その人の心の中に、入りこむことができる。
それがここでいう「共鳴性」ということになる。

 その「共鳴性」は、人格の完成度を知るための、
ひとつのバロメーターにもなっている。

 以前、子どもの人格論について、こんな原稿を
書いた。

++++++++++++++++

【子どもの人格】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)

【付録】*******************************

 最後に、では、あなたの子どもはどうか、
(あなた自身でもよいが)、
その診断テストを考えてみたので、ここにあげる。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
人格の完成度 自己実現 人間性の確立)





●「おしん」と「マトリックス」

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。九七年に約二〇〇〇億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさんがモデルだとされている。それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでたいというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーができ、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。それはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来」母体(マトリックス)であるはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと錯覚してしまう。一つの例が単身赴任という制度だ。もう三〇年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当時の副学部長だったブレナン教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という制度があるそうだが、法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外ではない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。私が「何も死んでいないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そのときもそうだ。そのときも子ども(小三女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまった。いや、子どもだけではない。当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女性(二〇歳くらい)もいた(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。しかし本当にそうか? その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信者は、どこが違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが違うというのか。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はいくらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得たとしても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値というのは、もっと別のことである。地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこなくてもかまわない。そういうものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかった。その息子のW氏にしても、全盛期には世界一六カ国、グループで年商五〇〇〇億円もの売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に気をつかったためである。しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさにめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザーで地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は二、三日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断することのほうが、まちがっている。父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣ることは何もない。おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者というのは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例だが、二〇〇二年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校である。その説明会には、定員の約六〇倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は約六倍という狭き門になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステリー状態になる親も続出した。で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そのための特別講座の説明会を開いた(二〇〇二年二月)。入試が終わってから一か月もたっていなかった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。

 私も進学塾の世界はかいま見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講座を開くようになったかがよくわかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きるために働く」というレベルを超えている。あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの成功者というのは、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら「成功」とは何かということになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネをあげた周囲の商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあった。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたことか。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家が土建業者から一〇〇〇万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人に対してではなく、B氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮想現実の世界に住んでいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。たぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはいくらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこう言った。「そうは言っても現実ですから……」と。つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはない、と。しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらのほうを「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたときのこと。私が中学一年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車という意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだったの? これではA高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親すらいる。こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さらには親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまっている。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来のために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生をムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、二週間という休暇を与えられたとする。そのとき、@休暇は休暇として。そのときを楽しむことができる。A休みが数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことばかり考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。あなたの子どもの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、@子どもは子どもで、休みは思う存分、遊べばよい。A子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またしっかり勉強するためだ。

 @のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。実際に、「死に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。この結果主義もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日本人が仏教を取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくない。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターンに入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がいる。何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八か所を巡礼して回ることだそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「ならば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大きい。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるのは、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生きることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。

●再起をかけるW氏

 聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これまたおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。いや、実際にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きている人はいくらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。「君は幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかったのだろう」と。彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断する。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

 マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャードマクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、一九五五年にレストランの権利を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド氏は、九八年の七月に満八九歳で他界。)そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れなかった人ということになる。

●残る職業による身分制度

 私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、母が言ったことは、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけではない。私は自分のしたいこと、自分の本分とすることをした。一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでもありがたがる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を必要以上にあがめる。今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最下位。さらに幼稚園の教師は番外、と。

 こうした派序列は、何かの会議に出てみるとわかる。一度、ある出版社の主宰する座談会に出たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横に座った教授とでは、まるで違ったのには驚いた。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペコペコする。こうした風潮は、出版界や報道関係では、とくに強い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・二〇〇五)の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口をすべらせた新聞社の記者(四〇歳くらい)がいた。私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や肩書きのない人間を、いつもそういう目で見ている。自分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だからそう言った。が、このタイプの人たちは、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自分の人生をムダにしながら、ムダにしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地域の中高一貫校、約六〇校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進学大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それが実に偽善ぽい。それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですらある。子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押し込めようとしているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく

 ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のまわりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれないが、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたちのためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。
 先日、六〇歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のような人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。




●生きる

●生きることを考える

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食べなければ、損なのか?
食べたら、損なのか?
食べ放題の店で、料理を食べながら、
私は、そんなことを考えた。

しかしこの問題は、「生きる」ことにも
関連している。

残り少ない人生を、どう生きるか。
私はそんなことまで考えた。

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●貪欲さ

 今日(4・21)、東名高速道路のインター近くにできた、「ED」というレストランへ行った。食べ放題の店である。平日のランチは、999円(税込み)!

 大きな店で、座席数は、数百はある。私とワイフは、店員さんに案内されて、奥のほうの禁煙席についた。そして、内心で「食べるぞ!」と思いながら、料理の並ぶカウンターに向った。

 料理は、寿司、焼肉のほか、中華料理、サラダ、ケーキなど。スパゲッティも、ラーメンも、カレーライスもある。それにイカ、ホタテなどの海鮮料理。どれも食べ放題。料理の前に立ったとたん、私は、「安い!」と、感じた。「料金が安い」という意味である。

 私は、寿司を、5〜6個。それにサラダと、小さなケーキを選んだ。ふだんの昼食なら、この程度で、満腹になる。回転寿司屋の寿司を食べることもあるが、たいてい5皿で、腹はいっぱいになる。

 先にテーブルについて待っていると、ワイフも、同じようなものを選んでもってきた。

私「999円なんて、安いね」
ワイフ「ホント。そんな値段でやっていかれるのかしら」
私「ぼくたちは量が少ないけど、高校生たちがやってきたら、赤字だよ」
ワイフ「そうねえ……。高校生は、たくさん食べるからね」と。

 土日でも、1450円という。ふつう食べ放題の店というのは、料理の質は、あまりよくない。しかしそのEDという店は、そうでない。私たちは食べなかったが、肉も、ちゃんとした肉を使っている。

 私が、「20年前のぼくだったら、むしゃむしゃと、肉を食べただろうね」と言うと、ワイフも、「あのころのあなたは、たくさん食べたからね」と。

 が、こうした食べ放題の店に入ると、心のどこかに、「たくさん食べなければ損」という、いやしい根性が生まれる。しかし考えてみれば、これはおかしな根性だ。

 「たくさん食べなければ損」というのは、金銭上の問題である。しかし健康上の問題を考えるなら、ほどほどのところで、やめたほうがよい。たくさん食べたところで、よいことは何もない。コレステロール値があがるだけ。病気になるだけ。

 しかし人間というのは、おかしなものだ。ふつうなら、つまりふだんの昼食なら、ある程度のところでやめるのだが、やはり、「もっと食べておこう」という心理が、どうしても働いてしまう。「まだ、999円分も食べていないぞ」とか、そんなふうに考えてしまう。

 そこで私は席を立って、今度は、サラダをどっさりともってきた。「サラダなら、太らないから……」と。多分、ワイフも同じように思ったらしい。私が席にもどると、自分でも、何かを取りに行った。

 いろいろなことを考えた。

 「世界には、食べるものがなくて困っている国もあるのに……」とか、「この飽食は何か!」とか。

 そんなとき、一人、丸々と太った女性が、目についた。私のななめうしろの席に、すわっていた。あごと胸がそのままつながり、腹に、大きな袋をぶらさげているような感じの女性だった。年齢は、30歳くらいだった。黒いTシャツを着ていたが、そのTシャツが今にもはじけて、破れそうな感じがした。

 その女性は、わき目もふらず、いや、ときどき、チラチラと周囲の人たちに視線をなげかけながら、まさに一心不乱に食べつづけていた。

 ものすごい食欲である。「食欲」というよりは、胃の中に、食べ物を押しこんでいるといったふう。かきこんでいるといったふう。私が見ていたとき、ちょうどショートケーキ、3、4個を食べていたが、一個を丸ごと口に入れ、パクパクとそのままのみこんでいた。

 再び、私は、同じことを考えた。「食べなければ損なのか。それとも食べれば損なのか」と。

 食べ物は、モノとはちがう。いくら安いからといっても、たくさん食べれば、体をこわす。しかしその女性は、明かに、「食べなければ損」と考えている様子だった。

 一度、ワイフに、「あの女性を見ろ」と、目で合図を送った。同時に、あきれた表情をしてみせた。ワイフも、同じように感じたらしい。フーッとため息をついたあと、視線を下に落した。

●おしん

 人は生きるために、食べる。それはわかる。そして食べるために、働く。それもわかる。が、ここで大きな問題にぶつかる。

 生きるために働く人間が、いつの間にか、働くために生きるようになる。一つの例をあげて、考えてみよう。

 今から20年ほど前、NHKの朝の連続ドラマに、『おしん』という番組があった。たいへんな人気で、ほぼ日本中の人たちが、その番組を見た。決して、大げさな言い方ではない。まさに国民的番組と言ってよいほどの番組だった。

(おしん……1983〜4年にかけて、NHKの朝の連続ドラマとして、放映された。平均視聴率は、52・6%。最高視聴率は、62・9%。テレビ視聴率調べサイト調査)

 そのおしんは、最初、生きるために働く。懸命に働く。が、いつしか、そのまま今度は、働くために生きるようになる。自分の店をどんどん大きくする。あちこちに支店を出す。さらに商売を大きく、広げる。

 そのおしんは、5年ほど前に倒産した、Yジャパンの社長の、W氏の母親のKさんが、モデルだったという。

 もしおしんが、生きるために働くのであれば、ああまで商売を広げる必要はなかった。一度、近所の商店主たちが、おしんの店に抗議に押し寄せるシーンがあった。大量仕入れによる、安売り攻勢。おしんの店の周辺の商店は、つぎつぎとつぶれていった。ドラマ『おしん』は、貧しい女性の物語から、いつしかサクセス・ストリーへと変貌していった。

 私が、当時、その番組を見ていて、不思議に思ったのは、その番組のことではない。私の実家も、近くに大型のショッピングセンターができてからというもの、斜陽の一途。いつ店を閉めてもおかしくないという状態に追いこまれた。

 しかし、である。私の母も、『おしん』の大ファン。その時刻になると、テレビの前にすわって、おしんの活躍ぶりに、一喜一憂していた。ときに、涙までこぼしていた。で、ある日、私は母にこう言ったのを覚えている。

 「どうしてあんな、おしんを応援するのか? うちも、ああいう人の食いものになって、苦労しているんだろ?」と。すると母は、こう言った。「あのショッピングセンターと、おしんは、関係ない」と。

 こうしたオメデタサは、日本人独得のものと言ってもよい。長くつづいた封建時代、そしてそれにつづく官僚政治の中で、骨のズイまで、魂を抜かれている。自分の置かれた世界を、上から客観的に見ることができない。心のどこかで「おかしい」と思っても、自ら、それを否定してしまう。そして別の心で、「あわよくば、自分も……」と思ってしまう。

 話をもどすが、おしんは、あるときまでは、生きるために働いた。しかしそのあるとき、自分にブレーキをかけなかった。かけないまま、さらにその先まで、突っ走ってしまった。つまり、貪欲(どんよく)になった。

●貪欲(どんよく)

 食べ放題のレストランで見たあの女性と、『おしん』の中のおしんは、よく似ている。

 生きるために食べる。それが原点であるにもかかわらず、食べなければ損とばかり、食べ物を口の中にかきこむ女性。

生きるために働く。それが原点であるにもかかわらず、稼がなければ損とばかり、どんどんと稼ぎつづけるおしん。

 共通点は、その貪欲さである。が、この問題は、そのまま私自身の問題といってもよい。「私は貪欲でないか?」と問われたとき、自信をもって、「ノー」と言うことは、私にはできない。現に、そのレストランでは、いつもの二倍程度の量の食事を食べてしまった。

 さらに、私は今、ただわけもわからず、こうして毎日、原稿を書きつづけている。「懸命に生きている」といえば、まだ聞こえはよいが、その中身といえば、「貪欲さ」そのものといってもよい。それに今、こうしておしんを批判したが、もし私にも、そういうチャンスがあれば、おしんと同じことをしていたかもしれない。お金は、嫌いではない。

 となると、人間の貪欲さとは何か? それがよいことなのか、悪いことなのかという判断はさておき、そもそも貪欲さとは、何なのか?


●再び、貪欲(どんよく)

 ここにも書いたように、私だって、お金は嫌いではない。あれば、あるほど、よい。お金がなければ、幸福にはなれない。そういう現実を、いやというほど思い知らされている。

 しかしあまりあるお金が、その人を幸福にするかといえば、それはない。くりかえすと、『お金がなければ、人は不幸になる。しかしお金があっても、幸福になれるとは、かぎらない』ということになる。

 そのお金と、食事を、ここで並べて考えてみた。

 食べるものがなければ、人は、死ぬ。しかしたくさん食べれば、長生きできるということはない。かえって病気になる。早く死ぬ。おいしいものを食べれば、それなりに楽しい。一つ口に入れながら、別の心で、「もう一つ、食べたい」と思う。そういうことは、よくある。

 性欲もそうだ。私だって、いつも、いろいろな女性とのセックスを、夢想する。「教育にたずさわっている者だから、そういうことは考えないはず」と思ってもらっては困る。教師は、決して、聖人ではない。そのため教職は、決して、聖職ではない。

 今まで、無数の教師をみてきたが、これは確たる結論である。

 が、こうした欲望というのは、溺れてよいことは、何もない。むさぼることによって、自分を見失ってしまう。が、どこからどこまでが、「適切な世界」で、その先が、「貪欲の世界」なのかということになると、その判断がむずかしい。

 たとえその限界がわかったとしても、今度は、自分にブレーキをかけなければならない。それもまたむずかしい。おいしいものを見れば、つい食べたくなる。その上、いくら食べても、値段は同じということになれば、なおさらだ。

 お金だってそうだ。あればあるほど、よい生活ができる。大きな車に乗って、大きな家に住むことができる。それこそ人間の欲望には、際限がない。

 が、やはり、どこかで自分にブレーキをかける。かけながら、ほどほどのところで、納得し、あきらめる。そして自分なりの、充足感というか、幸福感を求める。

 それについても、以前、こんな原稿を書いた。これは私の持論の一つである、「家族主義」について書いたもの。少しここでのテーマからは、脱線するが、許してほしい。

私は「私たちが求める究極の幸福というのは、そんなに遠くにあるのではない。私たちの身のまわりで、私たちに見つけてもらうのを、静かに待っている」ということを訴えたくて、この原稿を書いた(小生の本『子育てストレスが、子どもをつぶす』で、発表済み

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家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。

あるいは自分の子どもの学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。

が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな相談があった。

何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカでは、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。

オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当しているケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。

その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、それを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。

言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というのがある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあるという「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているのではないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきことばかりではない。

九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だという(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意してほしい。

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●終わりに……

 こうした人間が、「性(さが)」としてもつ貪欲さ。それと戦うためには、いくつかの方法がある。

 一つは、自分なりの健康論をもつ。自分なりの価値観や幸福観を確立する。健康論はともかくも、価値観や幸福観は、こうした貪欲さと戦うための、強力な武器となる。「本当に大切なものは何か」「どうすれば本当の幸福を自分のものにすることができるか」と。

 それをいつも考えながら、追求していく。その結果として、自分の貪欲さに、ブレーキをかけることができる。

……しかし、ここで私は、ハタと、こんなことに気づいた。同じようなテーマを最前面にかかげて活動している、宗教教団がある。10年ほど前には、いろいろ問題を起こし、話題になった。名前も、ズバリ『幸福のK』。つまりここから先のことを書くと、私も、彼らと同じことをすることになる?

 だいたいにおいて、自分でさえ、本当に大切なものが何かわかっていないのに、それを他人に向って、とやかく言うほうがおかしい。幸福も同じ。

 だからここから先は、私たちそれぞれ、一人ひとりの問題ということになる。私は私で、自分の欲望と戦う。あなたはあなたで、自分の欲望と戦う。そして私は私で、自分なりの価値観や幸福観を確立する。あなたはあなたで、自分なりの価値観や幸福観を確立する。どこまでいっても、これは個人的な問題ということになる。

 で、最後に一言。

 私は、その「ED」という食べ放題の店から出るとき、ワイフに、こう言った。「もう、この店には、ニ度と来たくないね」と。

 私はその店の中で食事をしている間、ずっと、自分の中に隠れていた醜悪な「私」を、見せつけられているように感じた。「食べなければ損」と考えて食べる。それはまさに醜悪な私そのものだった。それにもう一つ。

 あの黒いTシャツの女性だが、とても食事を楽しんでいるようには見えなかった。欲望に命令されるまま、その人自身の意思というよりは、別の意思によって、動かされているように感じた。

 その姿は、まさに、畜舎でエサを一心不乱に食べる、あの家畜そのものだった。だから私は、ワイフに再びこう言った。

 「値段は安いけど、もうここへは来たくないね。一度で、こりごり」と。ワイフも、同じような印象をもったらしい。どこか暗い表情をしながら、「私も、いやだわ」と。

 料金は安ければ安いほどよい。しかし、私も、あと何年生きられるかわからない。平均寿命で計算すると、あと26年。日数にすると、26x365=9490日。

 その中でも、病気の心配をしなくて、食事をとれる日は、どれだけだろうか。9490日というが、私には、貴重な9490日だ。「まだ、9490日もある」と考える人もいるかもしれないが、私には、そうは思えない。

その一日一日を、見苦しい生き方で、ムダにしたくない。食事だって、そうだ。家畜がエサをむさぼるような食事だけは、もうたくさん。ごめん。したくない。
(040422)


希望論

【希望論】

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希望があれば、生きていくことができる。
たとえ貧しくても、たとえ今は不幸でも……。

しかしその希望をなくしたら……。

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●近くのホームで……

 近くのグループ・ホームでヘルパーをしている女性から、こんな話を聞いた。「グループ・ホーム」というのは、ひとりでは生活できない老齢者たちが、グループになって共同生活をするという施設をいう。個室をあてがわれ、三食つき。有料。

 1人の老人がいる。老人といっても、まだ70歳前。幼いころから、母親に虐待され、精神をゆがめている。その老人が、毎日、決まった時刻になると、帰りじたくを始めるという。小さなカバンに、衣服や電気カミソリなどをつめ、服装を整えて、玄関に近い居間の椅子(いす)に座る。そして毎日、同じセリフを言う。

 「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 じいちゃんというのは、その男性の祖父のことをいう。もう30年以上も前に他界し、この世にはいない。そこでヘルパーが、「来るといいですね」「でも、今日も来ないかもね」と答えることにしているという。
 
 不幸な男性である。母親に虐待され、精神は萎縮し、内閉した。そのままの状態で、つまり半ば母親に監禁されたような状態で、70年近く、その母親と生活をともにした。

 2人、妹がいるが、1人は、東京に住んでいる。もう1人は、近くに住んでいるが、その母親のめんどうをみている。「2人もめんどうをみれない」ということで、その男性をグループ・ホームに入居させた。

 で、その男性は、日が暮れて、あたりが真っ暗になるまで、そのままの状態で、そこに座っているという。毎日のことなので、ヘルパーたちは、そのままにさせておくという。つまり、それがその男性の希望ということになる。「いつか、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 人は、希望があれば、たとえ衣食住に不足があっても、生きていくことができる。しかしその希望がなければ、生きていくことはできない。あのルーマニアの作家のゲオルギウは、こう書いている。

「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 ゲルニオウという人は、生涯のほとんどを、収容所や監獄で過ごした人である。

 もしその男性が、「じいちゃんが、もう来ない」ということを、本当に知ったとしたら、そのとき、その男性は、最後に残された自分の希望を失うことになる。だからときどき、不用意な人が、「あなたのじいちゃんは、死んでしまって、もうこの世にはいませんよ」と言っても、その男性はそれを信じない。

「もうすぐ、じいちゃんが、迎えにくる」と。

 その男性にやさしかったのは、祖父だけだったようだ。父親は、若くして、交通事故でなくなっている。祖母もいたが、祖母は、家庭的な人とは、とても言えないような人だったようだ。毎日、化粧ばかりしていたという。エプロンの上に、それが汚れるといけないからという理由で、もう一枚、エプロンをかけるような人だったという。

で、その男性は、折につけ、「じいちゃんが、風呂で、体を洗ってくれた」「じいちゃんが、祭につれていってくれた」「じいちゃんが、ぜんざいを食べさせてくれた」と、そんなことを繰りかえし、繰りかえし、口にした。

 かわいそうな男性だが、しかしその男性を不幸な男性と決めてかかってはいけない。その男性は、まだ恵まれているほう。グループ・ホームといっても、毎月、11〜12万円前後の費用がかかる。ほかに雑費や病気の治療代として、2〜5万円がかかる。そうした費用は、東京に住んでいる妹夫婦が、負担している。

 その男性は、快適な老後生活を送っている。自由はないが、それは認知症という病気のせいであって、だれのせいでもない。

 で、私はこの話を聞いて、こう思った。人は、どんなに年をとっても、またどんな境遇に置かれても、希望を自らつくりながら生きていく。それがたとえかなわぬ希望であっても、その希望を捨てることはできない。たとえ他人が、バカだアホだといっても、その希望を捨てることはできない。

 希望を捨てるということは、どんな人にとっても、死を意味する。たとえ体は生きていても、心は死んでいることになる。その男性は、ひょっとしたら、祖父が死んで、もうこの世にいないことを、知っているのかもしれない。しかしそれを認めることはできない。認めたとき、その男性の心は死ぬ。

 たぶん今日も、その男性は、その時刻になると、その場所で、来るはずもない(じいちゃん)を待っているのだろう。そのさみしそうな姿が、私には、目に見える。
(はやし浩司 希望論 希望)


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ゲオルギウについて書いた原稿を、
いくつか、集めてみます。

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●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの八年間、症状は、ほとんど消えた。最初の一週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったことのない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいことはない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、二月のはじめから、五月になるまでつづく。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。二月になると、気分まで憂うつになった。しかし今は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわかるようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっきり吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることもない。それを自分でたしかめながら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。このたとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではないような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うようになったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、八〇年。その八〇年を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるようなもの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるためだ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)のほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからだ。自分の人生が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからだ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのように、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうなの?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもならなかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいのか!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死んでもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジがおとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通っていない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これからは楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取りかえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるものか! 今は、春だ。人生の春だ! 
(03年03月07日)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、もうしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしまう。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!

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先の原稿を書いたら、読者の方から
メールをもらいました。SZさんという
方です。

それに対する返事が、つぎの原稿です。

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●SZさんへ、

今日、リンゴの木を植えることだ!

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもりが、逆に私が励まされている? 今朝(三月一六日)も、SZさんから、そういうメールをもらった。「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。三月一五日号のマガジンで、つぎのように書いたことについて、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。一九〇一年生まれというから、今、生きていれば、一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいことがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じたであろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これからも、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家ですから、また耳にされることもあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような気持ちでいます。(ただし左翼作家ですから、少し、ご注意くださいね。)
(030316)


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もう1作、「希望論」について書いた原稿を
ここに添付します。

みなさん、元気で、がんばりましょう!

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【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

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 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが
あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

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ついでにもう1作……

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●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということになる。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことがある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとるといっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされないのか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっしょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。
(はやし浩司 希望 希望論 孤独 孤独論 希望とは 生きる希望とは 絶望 絶望論 ゲオルギウ はやし浩司 林檎の木 りんごの木 リンゴの木)


【注】ゲオルギウについて、読者の方から、まちがいを指摘されました。
   それについて書いた記事を、ここに掲載します。(07年6月)


●ゲオルギウの「二十五時」について

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ゲオルギウの「二十五時」について、
STさんという方から、掲示板のほうに
こんな指摘があった。

私のまちがいと、不勉強を、許してほし
い。

私のほうの出典は、明治書院「世界名言
事典」です。

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 ゲオルギウの「二十五時」について、掲示板のほうに、つぎのような書き込みがあった。それをそのままここに紹介する。

 『何カ所かで、ゲオルギウについてのコメントを拝見しました。

梶山健編『世界名言事典 新版』(明治書院、1988年)の102頁に、「いかなるときでも、人間のなさねばならないことは、世界の終焉が明白であっても、自分は今日、リンゴの樹を植えることだ。」の出典が、ゲオルギウ「二十五時」になっていますが、実は、この「二十五時」に、この言葉はありません。

私は、『二十五時』の訳書(筑摩書房、1950年)を入手して、全部通読したので、間違いありません。梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院、1997年)は前者の改訂版ですが、この239頁には、同じ言葉の出典が、ゲオルギウ「第二のチャンス」に訂正されていました。

ルーマニア生まれの作家、コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウ(1916〜92年)の第二作、『第二のチャンス』(1952年原著)(訳書:筑摩書房、1953年)の361頁には「たとえ世界の終末が明白であっても、自分は今日リンゴの木を植える……」とあり、訳書の文中のドイツ語の原文に「Morgen(明日)」とあるので、「明白」は「明日」が本来の訳文と思われます。

梶山氏の編著の巻末索引には、両書ともに、ゲオルギウGheorgiu(1901-)とありますが、これはルーマニアの政治家(革命家)ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ(1901−65年)と混同したものであり、また、綴りには「h」が脱落していて、正しくはGheorghiu,Constantin Virgil(1916-92)です。原典にあたらないで孫引きする場合には、細心の注意が必要だと感じました。二人のゲオルギウの混同は寺山修司もやっていました(ポケットに名言を)。

二人のデータは、インターネットでは、Wikipediaで調べることができます。ゲオルギウの言葉の出典の探求については、私のHP「ものがたり通信」の「8.真実を求めて」で詳しく報告しています。確認された上で、正しい情報を発信されることを希望します。

出典の情報が間違っていると混乱が起きやすいので、扱いは慎重にして欲しいと思います(実際、「ミニマルキッチンBlog」で『二十五時』が出典と推定されていて混乱をもたらしていました)。よろしくお願いいたします』と。

【はやし浩司よりST様へ】

 まちがいを指摘してくれた、ST様、ありがとうございました。今後、気をつけます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「たとえ世界の終末が明日(あす)であっても、自分は今日リンゴの木を植える……」

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ゲオルギウという作家が、「第二の
チャンス」という本の中で、
「たとえ世界の終末が明日であっても、
自分は今日リンゴの木を植える……」と
書いている。

すばらしい言葉である。私も、何度か、
この言葉に励まされた。とくに最近は、
なにごとにつけ、年齢を理由に、消極的
になる傾向が出てきた。

自分をふるいたたせる言葉として、この
言葉をよく思いだす。

この言葉について、最初に書いた原稿が
つぎの原稿。日付が、03年となってい
るから、4年前の原稿ということになる。

そのままここに掲載する。

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●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの8年間、症状は、ほとんど消えた。最初の1週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったことのない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいことはない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、2月のはじめから、5月になるまでつづく。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。2月になると、気分まで憂うつになった。しかし今は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわかるようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっきり吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることもない。それを自分でたしかめながら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。このたとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではないような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うようになったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、80年。その80年を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるようなもの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるためだ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)のほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからだ。自分の人生が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからだ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのように、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうなの?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもならなかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいのか!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死んでもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジがおとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、102歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」(実際には、『第二のチャンス』、ST様指摘)という本の中で、こう書いているという。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通っていない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これからは楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取りかえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるものか! 今は、春だ。人生の春だ! 
(030307)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、もうしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしまう。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●SZさんへ、

「今日、リンゴの木を植えることだ!」

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもりが、逆に私が励まされている? 今朝(3月16日)も、SZさんから、そういうメールをもらった。「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。3月15日号のマガジンで、つぎのように書いたことについて、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、102歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」(実際には、『第二のチャンス』、ST様指摘)という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいことがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じたであろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これからも、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家と聞いていますから、また耳にされることもあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような気持ちでいます。
(030316)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

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つぎの原稿は、2年間に書いた
原稿です。

この中でも、ゲオルギウについて
触れています。

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●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だって、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的になることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的になることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えたように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』という名言を残している。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そう書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

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【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あって、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということになる。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことがある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとるといっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされないのか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっしょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』という名言を残している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

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●私の夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわからないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづけること。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えていない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともあるのか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いていると、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとしてくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしまうのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)

++++++++++++++++++

改めて、ST様、まちがいのご指摘
ありがとうございました。

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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ゲオルギウ 二十五時 第二のチャンス)





老後の問題

【老後の統合性】

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(何をしたいか)ではなく、(何をすべきか)。

その(何をすべきか)を見出し、
現実の自分を、それに一致させて
いく。

それが老後を豊かに生きるための
秘訣ではないか。

そんなわけで、ここでもう一度、
老後の統合性を考えてみたい。

ただ、この老後の統合性を考える
上で、ひとつだけ条件があるとするなら、
それは大前提として、無私、無欲でなければ
ならないということ。

そこに功利、打算が入ったとたん、
統合性は、霧散する。

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●青年時代の同一性

 若いときは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)を一致させれば、それですんだ。(と言っても、それとて簡単なことではないが……。)

 よく「私、さがし」とか、「自分、さがし」という言葉を使う人がいる。そういう人たちは、結局は、(自分のしたいこと)がわからない。(自分はこうあるべき)という「像」がつかめない人とみてよい。あるいは(自分のしたいこと)と、(していること)を一致させることができない人とみてよい。

 だから、迷う。悩む。苦しむ。

 もう少し心理学的に説明すると、(自分はこうあるべき)という像を、「自己概念」という。そしてそこには、(現実の自分)がいる。その現実の自分を、「現実自己」という。この両者が一致した状態を、「自己の同一性」という。

 自己の同一性を確立した若者は、(何も若者にかぎらないが)、それなりに強い。ひとつの目標に向かって、自分を燃焼させることができる。そうでない若者は、そうでない。

 私も、実は、高校2年の終わりまで、工学部の建築学科をめざして、勉強していた。さらにその前はといえば、大工になりたかった。しかし高校2年から3年にかけて、半ば無理やりに進路を変えられてしまった。

 それはたとえて言うなら、好きでもない男性と、不本意な結婚をした女性の気持に似ている。顔を見るのもいや、においをかぐのもいや。肌に触れられるのは、もっといや。そういう男性と結婚した、女性の気持ちに似ている。

 私は生涯において、そのとき、もっとも息苦しく、精神的にも不安定な時期を迎えた。

 つまりここで私は、いわゆる「同一性の危機」を迎えたことになる。わかりやすく言えば、リカちゃん人形のコスチュームを着せられ、踊りたくもないのに、舞台の上で踊らされたようなもの。そのとき私は、私でなくなってしまった。

 が、やがて水が低いところを求めて流れていくように、私は私なりの道を見つけ、今の私になった。しかしそれとて、10年単位の時間がかかった。今でも悔やまれるのは、あのとき、どうして私はもっと自分を主張できなかったかということ。「そんな有名な大学でなくてもいい」「私は工学部へ進みたい」と。

●何をすべきか

 話が脱線したが、今でも、心のどこかに不完全燃焼感がないわけではない。「何か、やり残した」という思いである。しかし年齢とともに、私はもっと大きな問題をかかえるようになった。

 が、ここで誤解しないでほしいのは、(年齢)という数字が、問題ではないということ。「40歳」「50歳」という、(数字)には、ほとんど意味がない。問題なのは、(命の限界)である。加齢とともに、その(命の限界)を強く感ずるようになる。

 もっと端的に言えば、「死」である。「死」をそこに感ずるようになる。とたん、今まで見てきた風景が一転する。つまりそれまでは、(自分のしたいこと)をすること、で、自分を満足させることができる。しかしそういう自分に対して、「……だから、それがどうしたの?」と、問いかけるようになる。

 おいしい料理を食べた……だから、それがどうしたの?
 すてきな旅館に泊まった……だから、それがどうしたの?
 性能のよい新車を買った……だから、それがどうしたの?、と。

 そこで心理学者たちは、「統合性」という言葉を生み出した。同一性の問題が、(自分のしたいこと)と(現実にしていること)を一致させることだとするなら、統合性の問題は、(自分のすべきこと)と(現実にしていること)を、一致させること、ということになる。

 (したいこと)と(すべきこと)は、基本的な部分で、大きくちがう。自分の欲望のおもむくまま、享楽的に何かをすることを(したいこと)という。(したいこと)をしているときは、だれしも、楽しい。時の流れることさえ、忘れることができる。

 しかし(すべきこと)には、多くのばあい、苦痛や苦労がともなう。さらにほとんどのばあい、(すべきこと)は、(したいこと)ではない。(できればしたくないこと)であることのほうが、多い。

 しかも(すべきこと)というのは、無私、無欲でしなければ意味がない。功利、打算を考えたとたん、(すべきこと)は、そのまま霧散してしまう。

●「死」という限界状況の中で

 が、「死」をそこに感ずるようになると、(したいこと)の魅力が急速に薄れ、それにかわって、「私は、最後に何をなすべきか」を考えるようになる。もっと言えば、(自分という人間の存在の意味)を考えるようになる。

 それがわからなければ、仮に私やあなたが、何かの大病を患ったばあいを想像してみればよい。医師から、「あなたの命は、あと1年です」と宣告されたようなばあいでもよい。

 たった1年だぞ!

 そうなったとき、あなたはどういう心理的反応を示すだろうか。たった1年しかないことを嘆き悲しみ、取り乱して、ワーワーとわめきつづけるだろうか。それとも(自分のすべきこと)を自覚して、それに向かって、つき進むだろうか。もちろん、その中間もあるだろう。

 少なくとも、(したいこと)をしたからといって、ポッカリとあいた心のすき間を、それで埋めることはできない。さらに言えば、(死という限界)を感じるようになると、名誉、地位、肩書きのむなしさを、思い知る。山のように積まれた札束とて、ただの紙くずになる。

 そこで改めて、私やあなたは、こう考える。「私は、なぜ、ここにいるのか?」と。

 ここで寿命を1年と書いたが、それが20年でもかまわない。30年でもかまわない。もうすぐ私は満60歳になるが、どうがんばっても、あと30年前後しか生きられない。しかも「健康寿命」というのもある。平均寿命から10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。

 言いかえると、晩年の10年は、(不健康との戦い)ということになる。脳梗塞、認知症、持病の悪化などなど。家庭医学書に書いてある、無数の病気が、そこで私やあなたを待ちかまえている。してみると、私の命などというものは、長くみて、あと20年。20年もあれば、御(おん)の字ということになる。

 1年でも寿命なら、20年でも寿命である。

 しかしここでおかしな錯覚にとらわれる。「1年だと短いが、20年だと長い」という錯覚である。1年と宣告されると、あわてる人は多い。が、そんな人でも、20年と宣告されれば、あわてない。「ひょっとしたら、100歳を超えても、自分だけは健康で生きられるかもしれない」という、ばくぜんとした期待感が、自分から死の恐怖を遠ざけてくれる。

 そういうことはある。

 しかしそれが、「私は、なぜ、ここにいるか?」という問題の答になるわけではない。わかりやすく言えば、今、そこにある問題を、先延ばしにしているだけ。

●真の自由

 ところで(自由)には、2つの意味がある。行動の自由と、魂の自由である。行動の自由はともかくも、魂の自由は、ハイデッガー流に考えるなら、死の恐怖から解放されてはじめて、自分のものとすることができる。

 死は、私やあなたから、すべてのものを奪う。そういう意味で、「死は不条理なり」という。つまりいくら「私は自由だ」と叫んでも、「死」を前にしたら、「私」など、空中に浮かぶ、かげろうほどの意味もない。事実、死ねば、私やあなたは煙のごとく、この世界から消える。

 そこで実存主義を信奉する哲学者たちは、「無私」という言葉に行きついた。「私」があるからこそ、死は恐怖となる。が、もし「私」がなければ、失うものは、何もない。つまり死の恐怖から、解放される。無一文の人は、泥棒を恐れない。無肩書きの人は、地位を失うことを恐れない。それと同じに考えてよい。

 (すべきこと)には条件があると書いた理由は、ここにある。私やあなたは、(すべきこと)をすることによって、真の自由を手に入れることができる。またそれが(すべきこと)の最終目標ということになる。

●あるべき老後とは

 話がこみいってきたので、結論を急ぐ。

 老後を心豊かに生きるためには、(自分のしたいこと)だけをしても、意味はない。よく、「老後は孫の世話と庭の手入れ、それに旅行三昧(ざんまい)の生活をしたい」と言う人がいる。しかしそうした生活は、けっして老後のあるべき姿ではない。またそれをしたところで、心のすき間を埋めることはできない。
 
 私やあなたは、(自分がすべきこと)をする。個人によってテーマはちがうかもしれない。が、(自分がすべきこと)を知り、それに向かって、前に進む。

 が、ここで重大な問題にぶつかる。(自分がすべきこと)というのは、そうは簡単には見つからない。またそれを見つけるにしても、下準備というものが、必要。その下準備が熟成されて、それが(すべきこと)につながる。

 ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年期、さらには老年期へと向かうとされる。その年齢を、40歳とした。なお「自己の同一性(アイデンティティ)」という概念は、エリクソンという学者が考えたものである。

ユングの説によれば、つまり発達段階論によれば、そのころから、(自分のすべきこと)の下準備をしなければならないことになる。しかし40歳でも、早すぎるということはない。30歳でも、早すぎるということはない。

 先に書いた統合性の問題は、何も、老人たちの問題ではないということ。むしろ、「死の限界」を感ずるようになってからでは、遅いということ。そのことは定年退職していく人たちを見れば、わかる。

 私の友人、知人たちは、今、いっせいに、その定年退職を迎えつつある。それぞれ老後の夢をもっている。「日本中を車で一周する」「農地を買って、百姓をする」「本を1冊、書く」とかなど。中には、どうしてそういうジジ臭いことを考えるのかよくわからないが、「四国八十八か所めぐりをする」と言う人もいる。

 しかしみな、それまでのキャリアを、その時点でへし折られることになる。私も、その1人だが、「今までの私は何だったのか」と、それを思い知らされる。あるいは「今まで私は、何をしてきたのか」でもよい。

 老後という乾いた道には、何もない。恐ろしいほど、何もない。しかもその道は、先へ行けば行くほど、細くなる。左右は、断崖絶壁。その下では、「死」が、「おいで、おいで」と手招きしている。で、せいぜい私たちができることと言えば、その道を、ただ黙って、静かに歩くこと。

 ……というのでは、あまりにも悲観的すぎる。そこで再々度、「統合性」の問題ということになる。

 私やあなたは、何をすべきなのか? またその(自分がすべきこと)を、どうすれば、現実の自分と一致させることができるのか? あるいは私やあなたには、その下地があるのか? どうすれば、その下地を発展させることができるのか?

 私はあと数か月で、満60歳になる。まさに正念場を迎えることになる。

++++++++++++++

少し前に書いた原稿を、少し
手直しして添付します。

++++++++++++++

【老齢期の絶望】

++++++++++++++++

老齢期は老齢期で、
自分のアイデンティティを
確立しなければならない。

自分を真剣の見つめなおさなければ
ならない。

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●自分を受け入れる

 老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯定すること。エリクソンは、それを「(人生の)統合性」と呼んだ。

「老齢」といっても、50代、60代のことではない。ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年期、さらには老年期へと向かうとされる。

 この時期までに、その人のアイデンティティ(=自己同一性)は、おおかた決まってくる。が、中には、そのアイデンティティをかなぐり捨ててまで、別の人生を歩もうとする人がいる。

 こんな話を耳にした人は多いと思う。

 「第二の人生」と踊らされて、退職後、田舎暮らしを始める人たちの話である。私が知るかぎり、こうしたもくろみは、たいてい失敗する。たとえば浜名湖の北に、Aという村があった。退職者たちが集まってつくった村である。

 当初はマスコミにも騒がれ、それなりに注目されたが、それから15〜20年。今は見る影もない。荒れ果てた原野に逆戻り。地元の小学校で校長をしている男性に理由を聞くと、こう話してくれた。

 「周囲の村の人たちと、うまく溶けこめなかったからです」と。

 それも理由のひとつかもしれないが、心理学的に言えば、アイデンティティの崩壊が起きたからと考えるのが、正しい。つまり、それまでに自分がつくりあげてきたアイデンティティを放棄し、別のアイデンティティを求めても、うまくいかないということ。生命力にあふれた成人前期(ユング)でも、アイデンティティの確立はむずかしい。いわんや、中年期においてをや。

 人生の正午を過ぎると、精神力、体力は急速に衰えてくる。それ以上に、「死」をそこに感ずるようになる。時間の限界を覚えるようになる。言うなれば、断崖絶壁の上に立たされたような状態になる。

 そういう状態で、それまでの自分を否定する。それまでの自分とはまったく別の人生を歩もうとする。が、それはそのまま、想像を絶するストレッサーとなって、その人にはねかえってくる。

 たいていの人は、この段階で、もがき、あがき、そして苦しむ。自己否定から、絶望する人も少なくない。

 もっとも、だからといって、たとえばここに書いたような田舎暮らしに、みながみな、失敗するというわけではない。中には、それなりにうまく、田舎に溶けこんでいく人もいる。

●屋久島に移り住んだ知人

 たとえば私の姉の義理の叔父は、50歳を過ぎるころまで、名古屋市内で事業を営んでいた。が、そのころ会社を他人に売り払い、そのまま、屋久島に移り住んだ。九州の南にある、あの屋久島である。5、6年前に80数歳の歳で亡くなったが、その人のばあい、30年以上、その屋久島で、田舎暮らしをしたことになる。

 それには理由がある。

 姉の義理の叔父は、それまでも、つまり若いときから、年に数回は屋久島に旅をつづけていた。屋久島に心底、惚れこんでいた。そういう下地があった。だからうまくいった。うまくいったというよりは、移住した時点で、(自分がしたいこと)と、(現実の自分)を一致させることができた。

 そういう例なら、私にも理解できる。しかしそれまで都会でサラリーマンをしていた人が、突然、田舎へ移り住んで、それでうまくいくということは、心理学的に考えても、ありえない。いくらそれが(自分がしたいこと)であっても、それに合わせて、(現実の自分)をつくることは、たいへんなこと。並大抵の努力ではできない。遊んでいても暮らせるならまだしも、農業を職業とするとなると、なおさらである。

 では、どうするか?

●生の縮小

 大切なことは、冒頭にも書いたように、老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯定すること。あるいはそれまでの人生の延長線上に、自分を置くこと。ユングは、「生の縮小」という言葉を使った。が、だからといって、それは敗北を意味するのではない。「生の縮小」とは、自分の限界を認めること。「ああ、私はこんなものだ」「私の人生は、こんなものだ」と。

 そしてその範囲の中で、自分ができることを模索する。そういう意味では、ユングも言っているように、この時期こそ、自分を真剣に見つめなければならない。またその努力を怠ってはいけない。

 私も、もうすぐ満60歳になる。定年退職ということはないにしても、心の中では、すでに老齢期の過ごし方を準備している。しかしその過ごし方は、今の私とまったく別のものではない。「60歳を過ぎて、何をすべきか」「70歳になったら、何をすべきか」という視点で、ものを考える。

 でないと、自分がバラバラになってしまう。へたをすれば、先にも書いたように、自己否定から、絶望へと進んでしまう。が、何としても、それだけは避けなければならない。そのためにも、今こそ、私は、自分を真剣に見つめなおさなければならない。

 ついでに一言。

 私はときどき、ふと、こう思う。もし神様か何かが、私にこう言ったとする。「お前を、奇跡によって、もう一度、青春時代に戻してやろうか?」と。

 しかし多分、私は、こう答えるだろうと思う。「これからも健康でいたい。長生きをしたい。そのために努力はする。しかし同じ人生をもう一度歩めと言われるなら、それは断る。人生は、一度でたくさん」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢期の統合性 アイデンティティ アイデンティティの確立 人生の正午 生の縮小)

【補記】

この恐ろしいほどのニヒリズムは、
どこから来るのか?

地球温暖化の問題にしても、ふと、
「私には関係ない」と思ってしまう。

「少なくとも、私が死ぬまでは、
だいじょうぶ」と。

あるいは政治の問題にしても、
「勝手にしろ」と思ってしまう。

「どうせ、なるようにしかならない」と。

私のワイフですら、ときどき、
こう言う。

「あなた、1人くらいが悩んだところで、
どうにもならないのよ」と。

が、その一方で、その私を、急(せ)きたてる
ものがある。

「急げ、急げ、急がないと、間に合わないぞ」と。

それが今、こうしてものを書く原動力に
なっている。

そこに何があるか、私にもわからない。
なぜ、こうして毎日ものを書いているのかさえ、
私にもわからない。

しかし今の私が、今までの私の結果であると
するなら、今の私は、今の私をそのまま
受け入れるしかない。

今さら、ゴビの砂漠で、ヤナギの木の苗を
植えろと言われても、できるものではない。

老人介護センターで、ヘルパーのボランティア
活動をしろと言われても、できるものではない。

またしたところで、満足感を得られるもの
ではない。私は、その下準備をしてこなかった。

つまり私は私で、今の私を、貫くしかない。

「そのうちいいこともあるだろう」という程度の
淡い期待感でしかないが、悪いことばかりではない。

昨日も、1通の礼状が届いた。私はそれを
ポケットに入れたまま、そのつど、何度も
読み返した。うれしかった。励まされた。

私がしていることが、どこか知らないところで、
知らない人に、小さな感動を与えている!

私のすべきことは、こんなところにあるのかも
しれない。

あとは、それに向かって、前に進むだけ。
もう迷っている暇はない。

だれが何と言おうとも、私の知ったことではない。
私は、私の道を進む。

それが私にとっての、(統合性の一致)という
ことになる。

【補記】

●無私、無欲の老後生活

++++++++++++++++

老後を、いかに美しく生きるか?
そのヒントとなるのが、統合性の
問題である。

死の限界を感じたら、(すべきこと)を
(現実にする)。この両者を一致させる。

そういうひたむきな姿から、老後の
美しさが生まれる。もちろん、その
人自身の生きがいも、そこから生まれる。

ヒントは、無私、無欲。功利、打算が
入ったとたん、統合性は、霧散する。

++++++++++++++++

●ある男性

 たとえばここに1人の男性がいる。年齢は80歳。55歳で、官職を退任してからというもの、ほとんど毎日、庭いじり三昧(ざんまい)。1人、娘がいるが、東北のある都市に嫁いでからというもの、数年に1度、あるいは、5、6年に1度くらいしか、帰ってこない。帰ってきても、子ども(その男性にとっては孫)もつれてこない。その男性とは、会話らしい会話もしない。

 妻はいるが、数年前に腰を痛めてからというもの、籍を、近くの老人養護施設に移している。ときどき男性のもとに帰ってきて、洗濯や部屋の掃除をする。しかしやはり妻も、その男性との間では、会話らしい会話をしない。

 ここに書いた男性というのは、架空の男性である。ひとつの例として、私が考えた。

●軽蔑すべき自己愛者たち

 自己中心性が強いということは、EQ論(人格完成論)に従えば、それだけ人格の完成度が低いということになる。その自己中心性が肥大化した状態を、「自己愛」という。

 自己愛というのは、軽蔑されるべきものであって、けっして、賞賛されるべきものではない。その男性について言うなら、その男性は、自分のしたいことをしているだけ。一見、優雅な老後生活に見えるが、心の中は、からっぽ。乾いた秋の風が、その中でカラカラと吹いている。

 そういう男性のことを「自己愛者」という。

 そこで統合性の問題。このところ、この問題についてばかり書いているので、うんざりしている人も多いかと思う。そこでここでは、さらにその先について考えてみたい。

●心豊かな老後生活

 統合性の問題は、いかにして老後を、心豊かに生きるべきかという問題と直結している。統合性を確立した人は、老後になっても、前向きに生き生きと、自分の人生を過ごすことができる。ただしそれには、条件がある。

 無私、無欲。

 ほとんどのばあい、(自分がすべきこと)には、苦労や苦痛がともなう。(できればしたくないこと)のほうが、多い。ボランティア活動を例にあげるまでもない。

 ボランティア活動にしても、そこに功利、打算が入ったとたん、ボランティア活動は、ボランティア活動としての意味を失う。無私、無欲でするから、ボランティア活動なのである。

 では、趣味は、どうか?

 先の男性は、毎日、庭いじり三昧の生活をしている。自宅の裏には、100坪程度の畑ももっている。しかし先にも書いたような人だから、訪れる人もいない。その季節になると、庭中に、美しい花が咲き誇る。が、それを愛(め)でる人もいない。近所の人でさえ、その男性の家には、近寄らない。遠回りをして歩く。視線を合わせるのが、いやだからである。

 先にも書いたように、ここに書いた男性というのは、架空の男性である。話の内容をわかりやすくするため、人物像を極端化してみた。しかしこういうタイプの老人は、少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にも、1人や2人、いるかもしれない。要するに、自分の老後を、自分のためだけに生きているような老人である。自己満足のためだけに生きているような老人である。

 つまり趣味に生きるというのは、あるべき老後の姿ではないということが、これでわかる。またそういう老後を送っているからといって、その老人が充実した毎日を送っていると考えるのは、正しくない。

 そればかりか、そういう生活からは何も生まれない。もっと言えば、1年を1日にして生きているだけ。10年を1年にして生きているだけ。さらにもっと言えば、「ただ生きているだけ」。

●一方、こんな女性も

 一方、私の近所には、こんな女性がいた。「いた」というのは、現在、体をこわし、もう1年近く入院したままの生活を送っているからである。実在の女性である。年齢は、今年、98歳になると聞いている。

 その女性の近くに中学校がある。その女性は、毎日、ハサミをもって、中学校のまわりの草を刈っていた。(あの小さなハサミで、だぞ!)もちろんゴミも拾っていた。そのためその中学校のまわりは、いつも清潔だった。雑草、1本、生えていなかった。

 そういう女性を見かけると、自然と頭がさがる。実際、私はその女性だけには、あいさつを欠かしたことがない。エンジン付の草刈り機を使えば、半日ですむかもしれない。しかしその女性は、毎日、少しずつ、ハサミで雑草を刈っていた!

 つまり統合性を確立した人の生き様は、それだけで、それを見る人に感動を与える。その感動が、人からまた別の人へと伝わっていく。そしてその「輪」が広がるたびに、それぞれの人に、生きる喜びを与える。

 けっしておおげさなことを言っているのではない。その喜びがまた、その女性の生きがいとなって、はねかえってくる。統合性の問題には、そういう意味も含まれる。つまり統合性の問題は、個人の問題ではないということ。個人というワクを超えて、他人を感化する力をもっている。

●私なりの結論

 さて自分の老後を、どう組み立てるべきか。長い間、私は、この問題について考えてきたが、ここに書いたことが、そろそろ、その結論ということになる。

 私たちは、40歳を過ぎたら、(私は何をすべきか)を考える。(したいこと)ではない。(すべきこと)を考える。そしてその基礎を作り始める。こうした基礎は、一朝一夕にはできない。10年単位の熟成期間が必要である。

 そして老後を迎えたとき、その基礎があってはじめて、私たちは、その上に、統合性を確立することができる。何度も繰りかえすが、(すべきこと)には、苦労や苦痛がともなう。しかも無私、無欲でなければならない。

 それが心豊かな老後生活を送るための、必要条件ということになる。もちろん基礎となるテーマは、みな、ちがう。ちがって当然。それぞれがそれぞれの道で、自分の統合性を確立すればよい。

 ある女性は、80歳を過ぎてから、乳幼児の医療費無料化の問題に取り組んでいた。
 べつの女性は、今、スイスに住み着いて、着物の着付けの普及活動に取り組んでいる。
 さらに別の女性は、大通りに、手作りの店を開いている。身体障害者の人たちが作った作品などを、積極的に並べ、販売に協力している。

 ……この問題を考えるようになって、もう1年近くになる。とくに年老いた母が私の家にやってきてからは、真剣に考えるようになった。母を介護しながら、私は、毎日、そんなことばかりを考えていた。

 あとは、自分の定めた目標に向かって進だけ。道は見えた! がんばろう。





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