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平和教育について
静岡県教職員組合・静岡支部「フリ−セミナー」教育研究集会にて講演

セミナー2 「平和教育セミナー」

演題「平和教育はどうあるべきか」

                   浜松市 教育評論  はやし浩司

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「平和教育について、話してほしい」という依頼をいただきました。

つきまして、セミナー開催日の8月7日まで、この問題について、以下の原稿を、たたき台にして、より掘り下げて考えていきたいと思っています。

 よろしくご指導ください。

                            2004年7月20日


レジュメ

●子どもの人格と、その完成度
●国の人格と、その完成度
●そして平和教育

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まず、はじめに……。少しショッキングなエッセーですが……・

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子どもに平和を語るとき (中日新聞投稿済み記事より)

●私の伯父は七三一部隊の教授だった 

平和教育について一言……。

私の伯父は関東軍第七三一部隊の教授だった。残虐非道な生体実験をした、あの細菌兵器研究部隊である。そのことがある本で暴露されたとき、伯母はその本を私に見せながら、人目もはばからず、大声で泣いた。「父ちゃん(伯父)が死んでいて、よかったア〜」と。伯父はその少し前、脳内出血で死んでいた。

●「貴様ア! 何抜かすかア!」

 ドイツのナチスは、一一〇〇万人のユダヤ人絶滅計画をたて、あのアウシュビッツの強制収容所だけで、四〇〇万人のユダヤ人を殺した。そういう事実を見て、多くの日本人は、「私たち日本人はそういうことをしない」と言う。しかし本当にそうか? ゲーテやシラー、さらにはベートーベンまで生んだドイツですら狂った。この日本も狂った。狂って、同じようなことをした。それがあの七三一部隊である。

が、伯父は私が知る限り、どこまでも穏やかでやさしい人だった。囲碁のし方を教えてくれた。漁業組合の長もしていたので、よく鵜飼の舟にも乗せてくれた。いや、一度だけ、こんなことがあった。

ある夜、伯父と一緒に夕食をとっていたときのこと。伯父が新聞の切り抜きを見せてくれた。見ると、伯父がたった一人で中国軍と戦い、三〇名の満州兵を殺したという記事だった。当時としてもたいへんな武勲で、そのため伯父は国から勲章をもらった。記事はそのときのものだった。

が、私が「おじさん、人を殺した話など自慢してはダメだ」と言うと、伯父は突然激怒して、「貴様ア! 何抜かすかア!」と叫んで、私を殴った。その夜私は、泣きながら家に帰った。

●敵は私たち自身の中に

 もしどこかの国と戦争をすることになっても、敵はその国ではない。その国の人たちでもない。敵は、戦争そのものである。あの伯父にしても、私にとっては父のような存在だった。家も近かった。いつだったか私は私の血の中に伯父の血が流れているのを知り、自分の胸をかきむしったことがある。時代が少し違えば、私がその教授になっていたかもしれない。

いや、戦争が伯父のような人間を作った。伯父を変えた。繰り返すが伯父は、どこまでも穏やかでやさしい人だった。倒れたときも、中学校で剣道の指導をしていた。伯父だって、戦争の犠牲者なのだ。戦争という魔物に狂わされた被害者なのだ。つまり戦争には、そういう魔性がある。その魔性を知ること。その魔性を教えること。そしてその魔性と戦うこと。敵は私たちの中にいる。それを忘れて、平和教育は語れない。

(付記)

●戦争の責任論

 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪い。

そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押しつけた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本はますます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総理大臣)。

さらにそこで、二〇〇一年の八月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第五六回全国戦没者追悼式)と述べ、「わが国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、戦後はじめて認めた。が、しかし戦後、六〇年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎるのではないだろうか。

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●平和教育

 広く発達心理学の世界では、人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まるとされる。「利己」と「利他」を比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 わかりやすく言えば、他人の立場で、他人の心境になって、いかに同調、協調、同情、調和できるかで、その人の人格の完成度が決まるということ。それが自然な形でできる人を、人格の完成度が高い人といい、そうでない、たとえば自己中心的な人を、低い人という。

宗教的概念としては、たとえばキリスト教で説く「愛」、仏教で説く「慈悲」がある。これらの概念は、究極的な「利他」、つまりは最高度の人格的完成をめざしたものと考えてよい。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで決まる。政治しかし、経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかにすれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの無責任体質は、いったい、どこからくるのか。

 たまたま先週と今週(04年6月中旬)、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、いっさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、どうなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろうか」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタさは、いったい、どこからくるのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そういう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わないことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点ということになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」「日本は、強ければ強いほど、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもない。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そして何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をすべきか。そして何をしてはいけないかを、考える。それが平和教育である。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和というか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがっている。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、そうした安定の陰で、しいたげられた別のだれかによって、つぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、周辺の国の人の立場になって考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和教育である。

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 今回の講演で、私は、個人としての人格論、
およびその完成度と、国家としての人格論、
およびその完成度を対比して、平和論を考え
てみたいと思っています。

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●人格の完成度

 個人の人格論、つまり人格の完成度は、いかに、どの程度、その人が「利他的であるか」によって、決まる。そう断言するのは危険なことかもしれないが、重要なバロメーターであることには、ちがいない。

 教育をテーマに、それについて、まず、考えてみる。

●人格の完成とは……

 子どもの人格の完成度は、つぎの五つをみて、判断する。

(1) 協調性……ほかの子どもたちと協調して、いっしょに行動できる。
(2) 同調性……ほかの子どもの苦しみや悲しみが理解できる。
(3) 和合性……集団の中で、なごんだ雰囲気をつくることができる。
(4) 独自性……誘惑に強く、「私は私」という信念を感ずることができる。
(5) 自尊性……自分を大切にしている。将来に対して展望をもっている。
(6) 自立性……単独で行動ができる。
(7) 自律性……道徳規範や倫理規範がしっかりとしている。

 人格の完成度の高い子どもは、年齢に比して、どこかどっしりとした落ちつきがある。
おとなびて見える。そうでない子どもは、そうでない。どこかセカセカとしていて、幼い
感じがする。(ただし子どもによっては、仮面をかぶるケースもあるので、必ずしも外見だ
けでは、判断できない。)

 しかし、つまり人格の完成度は、子どもだけの問題ではない。「では、私はどうだったの
か?」「今の私はどうなのか?」という問題と、からんでくる。

(1) 協調性……私は若いころから、あまり協調性がない。人から、「君はイノシシみたい
だ」と、よく言われた。たまたま私がイノシシ年(昭和22年生まれ)だったから、
そう言われたのかもしれない。何でもやりだしたら、とことんする。また私は、昔
から、団体旅行が、あまり好きではなかった。数人もしくは、一、二人の友人とブ
ラブラと旅をするのは、好きだった。

(2) 同調性……他人の苦しみや悲しみが、理解できるようになったのは、最近のことで
はないか。たとえば友人の父親や母親が死んだときも、わりとクールだった。「ああ、
そう」という感じだった。その友人の気持ちになって、いっしょに泣くというよう
なことは、しなかった。できなかった。

(3) 和合性……笑わせ名人で、ひょうきんなところはあったが、みんなと仲よくやろう
という気持ちは、あまりなかった。正義感だけは、やたらと強く、そのためよく敵
をつくった。殴り合いの喧嘩をしたことも、ときどきある。


(4) 独自性……私はもともと、誘惑に弱い。その場で、すぐ相手に迎合してしまうよう
なところがある。そのため、あとで、後悔することも多い。たとえば私は、政治家
にはなれないと思う。目の前にワイロを積まれたら、それを断る勇気はない。……
と思う。

(5) 自尊性……自分を大切にするという意味では、たしかに大切にしている。とくに「は
やし浩司」の名前は、大切にしている。当たり前のことだが、一度だって、他人の
文章や、内容を盗用したことはない。だれかがどこかで同じようなことを言ってい
るときには、私のほうから、自分の意見を取りさげる。そういうことはよくある。


(6) 自立性……今、私は見た目には、単独行動を繰りかえしている。しかしだからとい
って、自立性があるわけではない。もし今、ワイフがいなくなったら、私はガタガ
タになると思う。病気になったりしても、同じ。

(7) 自律性……自分を律する力は、弱い。いつもそういう弱い自分と戦っている。ふと
油断すると、悪いことばかりを考えている。だから自分で、いくつかの教条をつく
り、それに従って行動している。あとで、あれこれ悩んだり、後悔したくないから
である。

 以上のようなことを並べて考えてみると、私の人格は、きわめて軟弱なことがわかる。
とても人に誇れるようなものではない。原因と理由は、いろいろあるが、それについては、
またの機会に考えるとして、こうした人格は、かなりはやい時期に、その方向性が決まる
と考えてよい。

 私の経験では、小学校に入学するまでには、ほとんどその形が決まるのではないかと思
っている。つまりそのころまでの家庭教育が、人格の形成には、きわめて重要な意味をも
つということ。決して、安易に考えてはいけない。


【付記】

 ついでながら、各方面で、人格論についての考察がなされている。よくしられているのに、EQがある。

EQとは、つまり(Emotional Quality、人格指数)をいう。

●EQとは……

 IQ(Intelligence Quality、知能指数)に対して、EQ(人格指数)という言葉がある。

 IQは、

 IQ=((精神年齢)÷(生活年齢))×100で、計算される。

 精神年齢というのは、知能テストの結果など。生活年齢というのは、その人(子ども)が、生まれてから、テストを受けるまでの年齢をいう。

 要するに、IQで、頭のよしあしがわかるということ。しかしここで誤解してはいけないことは、IQが高いから、その人(子ども)の人格の完成度が高いということにはならないということ。えてして、この日本では、(頭のよい人)イコール、(すぐれた人)イコール、(人格の完成度が高い)とみる。しかしこれは誤解というより、幻想。幻想というより、ウソ!

 しかしその人(子ども)の人格の完成度は、もっと、別の方向からみなければならない。それが、EQである。

●EQ

*EQを最初に提唱したのは、D・ゴールマンである。彼は、ハーバード大学を出たあと、ジャーナリストとして活躍しているうちに、「EQ、こころの知能指数」を発表。この本は、たちまちベストセラーになり、日本でも翻訳出版された。一九九〇年代の中ごろのことだった。

 一般論として、以前から、IQの高い人(子ども)ほど、心が冷たいとよく言われる。それは、(頭がよい人間)の特有の症状と考えてよい。

 ある子ども(小五男児)は、こう言った。「みんなバカに見える」と。「算数の授業でも、ほかのヤツら、どうしてこんな問題が解けないのかと、不思議に思うことが多い」と。

 彼は進学塾でも、飛び級をして、学習をしていた。

 こうした優越感が、ほかの子どもとの間に、カベをつくる。そして結果として、その子どもだけが、遊離してしまう。そしてさらにその結果、他人から見ると、「心の冷たい子ども」ということになる。

 しかしこれは、多分に誤解による部分もないとは言えない。

●IQの高い子どもは、誤解されやすい 

 私の印象に残っている子どもに、N君という子どもがいた。私は、彼を、幼稚園の年中児のときから、小五まで教えた。

 そのN君が、年中児のときのこと。ふと見ると、彼が、箱の立体図を描いているのがわかった。この時期、箱の立体図を、ほぼ正確に描ける子どもは、数百人に一人もいない。(あるいは、もっと少ない。)

 それまでは、私は、N君は、どこか得体の知れない子どもとばかり思っていた。しかし彼がそう見えたのは、彼にしてみれば、まわりが、あまりにも幼稚すぎたからである。

 以後、N君は、天才的ともいうべき能力を発揮した。が、N君の母親はいつも、こう悩んでいた。

 「いつも先生や、友だちに、生意気だと言って、嫌われます」と。

 たしかにN君は、一見、生意気に見えた。中学生が方程式を使って解くような問題でも、N君は、独自の方法で、解いてしまったりした。彼が小学四、五年生のころのことである。

●しかしEQも大切

が、だからといって、私は、(IQの高い子ども)イコール、(人格者)と言っているのではない。事実は、その逆のことが多い。

 一般的に、IQの高い子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(1)自分の優秀性を信ずるあまり、ほかの人(子ども)を、見くだす。
(2)そのため、仲間から遊離しやすく、孤独になりやすい。
(3)協調性がなく、人間関係をうまく調整できず、がり勉になりやすい。
(4)結果的に友人が少なくなる。心を開けなくなる。独善、独断に陥りやすい。

 そこでIQの高い人(子ども)は、同時に、EQを高めなければならない。そのEQは、つぎのような視点から、判断される。

(1)感情のコントロールは、できるか。
(2)統率力、判断力、指導力はあるか。
(3)弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか。
(4)決断力、行動力、性格の一貫性はあるか。

 この中で、とくに重要なのは、(3)の、弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるかという点である。わかりやすく言えば、より相手の立場になって、ものを考えられるかということ。

●EQは、思春期までに完成される

 このEQは、思春期までに完成され、それ以後、そのEQが、大きく変化するということは、ない。つまりこの時期までの、人格の完成度が、その後の、子どもの人格のあり方に、大きく影響する。

 しかしこの日本では、ちょうどこのころ、子どもたちは、受験勉強を経験する。この受験勉強の弊害をあげたら、キリがないが、その一つが、ここでいうEQへの悪影響である。

 私は幼児から高校三年生まで、一貫して子どもを教えているが、この受験期にさしかかると、子どもの心が、大きく変化するのを知っている。この時期を境に、ものの考え方が、どこか非人間的(ドライ)になり、かつ合理的、打算的になる。

 親は、成績がよくなることだけを考えて子どもに勉強を強いる。あるいは、進学塾へ、入れる。が、こうした一方的な教育姿勢が、心の冷たい子どもを作る。そしてその結果、回りまわって、今度は、親自身が、さみしい思いをすることになる。

 「おかげで、いい大学へと、喜んでみせる、そのうしろ。そこには、かわいた秋の空っ風」と。

 受験勉強は、この日本では、避けては通れない道かもしれないが、子育ては、それだけではない。そういう視点から、もう一度、EQを考えてみてほしい。

子育ては、失敗してみて、それが失敗だったと、はじめてわかる。だれも、「うちの子は、だいじょうぶ」「うちにかぎって……」と思って、無理をする。そして失敗する。あああ。私の知ったことか!

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同じような内容ですが、国家としての完成度
を知るために、個人、なかんずく子どもの人
格の完成度について考えてみます。

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●子どもの完成度

 人格の完成度、つまり内面化の完成度は、いかに相手の立場で、いかに相手の心情になって考えられるかで、決まる。

 同調性……相手の悲しみや苦しみに、どの程度まで、理解し、同調できるか。

 協調性……相手と、どの程度まで、仕事や作業を、仲よく、強調してできるか。

 調和性……周囲の人たちと、いかになごやかな雰囲気をつくることができるか。

 利他性……いかに自分の利益より、他人の利益を優先させることができるか。

 客観性……自分の姿や、置かれた立場を、どの程度まで、客観的にみることができるか。

 言うなれば、自己本位とその人の人格の完成度は、反比例の関係にある。つまり自己本位の人は、それだけ人格の完成度が低いことになる。

 このことは満1〜2歳の子どもを見ればわかる。たとえば私の孫。

 息子夫婦が、今、孫の歯磨きの習慣づけに苦労している。歯を磨こうとすると、いやがって逃げてしまうという。そのときのこと、孫(1歳6か月)は、自分で自分の両目を押さえて、見えないフリをするという。

 つまり「自分が見えなければ、相手も自分を見えないはず」イコール、どこかへ隠れたつもりでいるらしい。

 あるいはある幼児(年長男児)は、こう言った。

 「ぼくのうしろは、まっくらだ。だから何もない。ぼくがうしろを振り向いたときだけ、そこにうしろの世界が現れる」と。

 これらは幼児の自己中心性を表す、典型的な例と言える。しかし同じようなことを、おとなたちもしている。

 世界のどこかで、飢餓に苦しみ人たちがいたとする。そういうニュースを新聞で見かけたとき、そのまま目をそらしてしまう人がいる。テレビのニュースそのものを見ない人もいる。

 先日も、ある小さなラーメン屋に入ったときのこと。ちょうど午後7時になったので、私が店の主人に、「NHKのニュースを見せていただけませんか」と言ったときのこと。「うちは、ニュースは見ないから……」と、断られてしまった。

 結局は、世界の狭い人ということになるが、それだけ世界への同調性が、低いということになる。つまり世界のニュースに目を閉じることによって、そういった事件は、ないものとして片づけてしまう。


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ついでに、受験競争の弊害について。

 受験競争というのは、どこまでも利己的なものであ
るがゆえに、その弊害も大きい。利己と利他を対比さ
せて考えるなら、子どもの内面世界の完成という意味
では、決して、無視できない問題である。

 その弊害について……。

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●受験競争の弊害

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それだけ精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることにより、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこれは遺伝子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。が、ここでいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでしまう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的なものであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であればあるほど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そういう側面がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をする子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化しているだけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。親自身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれている。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができない。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。迎合的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。いや、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。今でも、農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつのは、私だけではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとおれないこと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほしい。

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異論、反論など、噴出すると思いますが、
お手やわらかに、お願いします。

以上です。

はやし浩司




イマジン(Imagine)


●イマジン

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イタリアのトリノで
冬期オリンピックが始まった。

開会式をテレビで見た。
よかった。感動した。

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 イタリアのトリノで、第20回、冬季オリンピック大会が、開かれた。その開会式の模様を、テレビで見た。よかった。

 さすがイタリア。ローマ時代からの歴史の重みと、自信を感じた。何といっても、深みがちがう。スケールがちがう。よかった。感動した。

 聖火が登場する直前、オノ・ヨーコが、詩を読みあげた。つづいて、イタリア人の歌手が、英語で、「♪IMAGINE」を歌った。よかった、感動した。涙が出た。

 ひとつの国家的行事の中で、国として、「♪IMAGINE」を歌うというのは、それ自体、勇気のいること。世界中のほとんどの国々が、おかしな民族主義に毒されて、「我が民族は……」と、自分勝手なことばかり言っている。そういう中での、「♪IMAGINE」である。

 「イタリアって、おとなだなあ」というのが、私の第一印象。「EUという形で、ヨーロッパを1つにまとめたという自信の表れかなあ」というのが、私の第二印象。「アジアでオリンピックがあったとしても、どこも、こんな歌は、歌わないだろうな」というのが、私の第三印象。「日本なら、どうか?」……オノ・ヨーコが、日本人だったとは言いたくない。彼女自身も、そう思っていないだろう。

 日本とか、日本人とかいう感覚を、彼女に求めるのは、失礼というもの。だいたい、アメリカには、アメリカ人というのは、いない。東京に、東京人というのは、いない。それと同じ。みな、移民。移住者。いるとすれば、アメリカインディアンということになるが、アメリカインディアン、イコール、アメリカ人と思う人は少ない。

 一方、この日本は、どうか。……と考えていくと、少し憂うつになる。日本はともかくも、まわりの国々は、そのおかしな民族主義に毒された国ばかり。韓国にせよ、K国せよ、中国にせよ、不幸なことに、極東アジア全体が、そういうおかしな民族主義に侵されている。

 「日本だけはちがう」と思いたいが、それが、どうも自信がもてない。日本の中にも、結構、おかしな民族主義に毒されている人は、多い。「我が民族は、すぐれている」と思うのは、その人の勝手だが、「だから他民族は、劣っている」と考えるのが、ここでいう「おかしな民族主義」ということになる。

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「♪IMGINE」について以前書いた
原稿を、添付します。

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●プロローグ

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。
それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。
みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。
ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

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イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近いのでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、そのニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

+++++++++++

●愛国心について考える

……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年八月一五日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新聞(八月一六日)を見ると、こんな記事があった。「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・田中英道・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教科書」が、愛媛県で公立中学校でも採択されることになったという。採択(全会一致)を決めた愛媛県教育委員会の井関和彦委員長は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば中国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オーストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。この単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。この戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。ここに日本人と欧米人の、大きなズレがある。つまり体制あっての国と考える日本、民あっての体制と考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを知ってか知らずか、あるいはそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国心は世界の常識だ」などと言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定するのか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くらい)がいた。このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃木希典(のぎまれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さえも、「国を支えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要に美化したり、歪曲してはいけない。先の大戦にしても、三〇〇万人もの日本人が死んだが、日本人は、同じく三〇〇万人もの外国人を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされたわけでもない。日本人が日本国内で、ただ一人殺されたわけでもない。しかし日本人は、進駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき三〇〇万人の外国人を殺した。日本の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英霊たちによって殺された外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であり、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えることもなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりか、数十万人の日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するものは、容赦なく投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。しかしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから五〇年。いまだにK国は日本にわびることもなく、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなくなってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの非を謝罪した。(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たちの非を認め、謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中でさえ、EU(ヨーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがたい事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればするほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえたらどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私たちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子どもに向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょう! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16記)



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