社会
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社会


●男女の性差別(ジェンダー)


男の子は、男のらしく、女の子は
女の子らしくあるべき。

そんな時代錯誤的、逆行的な意見
が、またまた、台頭してきた。

男と女を差別することは、基本的
に、まちがっている。

もちろん生理的な違いというのは
ある。父親と母親との役割の違い
もある。

しかし「男」と「女」を区別する
必要は、まったくない。また、し
てはならない。

男女は、100%、同権であるべ
きである。どうして同権であって
はいけないのか?

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●仕事を失う女性たち

 女性は、子どもを産んで、みな、母親になる。が、母親になったとたん、女性は、それまでの「顔」を失う。

 たとえば私の教室へ連れてくる母親たちを見てみよう。教室の横ですわっている母親を見れば、ごくふつうの母親たちである。しかしそのうち、そのうちの何割かは、たいへんな経歴の持ち主であることがわかる。

 国際線の元スチュワーデス。
 国体の元選手。
 元商品デザイナー。
 バイクの元女性テストライダー。
 女子短大の元講師、などなど。
 現時点において、そういう人たちが、「母親」をしている。

 話を聞いて、「ハア?」と、私のほうが、驚くほどである。そういう女性たちが、結婚し、子どもをもうけることで、「仕事」から離れる。しかしそれから受ける、挫折感というか、中断感には、相当なものがある。

 そう、それまでキャリアを生かして仕事をしていた女性が、結婚と同時に、その仕事をやめ、家庭に入る。いくら納得した結婚であっても、だ。しかも職種の華々しさだけが、問題ではない。看護婦や幼稚園の教師をしていた人でも、その挫折感というか、中断感は、同じである。

 今、家庭に入り、それなりに幸福そうに見える女性でも、不完全燃焼のまま、悶々としている女性は、多い。

 こうした女性も、ある意味で、役割混乱を起こしているのではないか。あるいはその心理状態に近いのではないか。今、ふと、そう思った。

 私は、そういう母親たちに出会うたびに、「どうして?」と思ってしまう。「どうして、仕事をやめたのか?」ではなく、「どうして仕事をやめなければならないのか?」と。

●ジャンダー

肉体的な性差を「セックス」。社会的、文化的、伝統的な性差を「ジェンダー」という。もちろん男女の間には、越えがたいセックスがある。それはそれとして、問題はジェンダー。

このジェンダーについては、それ自体、意味がなく、それから生まれる偏見と誤解をなくすのが、今、世界の常識にもなっている。

 ただ生理学的に、男らしさ、女らしさを決めるのが、アンドロゲンというホルモンであることは、よく知られている。

男性はこのアンドロゲンが多く分泌され、女性には少ない。さらに脳の構造そのものにも、ある程度の性差があることも知られている。そのため男は、より男性的な遊びを求め、女はより女性的な遊びを求めるということはある。(ここでどういう遊びが男性的で、どういう遊びが男性的でないとは書けない。それ自体が、偏見を生む。)

 ただ子どものばあい、こうした性差が明確でなく、時期的に、男児が女児の遊びを求めたり、女児が男児の遊びを求めたりすることは、よくある。

私も小学3年生くらいのとき、人形がほしくてたまらなかったことがある。そこで伯母に内緒で作ってもらい、毎晩抱いて寝たことがある。だからといって、今、どうこうということはない。こうした現象は半年単位で、様子をみるのがよい。また同性愛者になるかならないかは、もっと本質的な理由によるという。

 しかし現実には、男児の女児化は、著しい。世の中の人たちは、どういうところを見て、「男らしく……」「女らしく……」という言葉を使うのか、よくわからない。今では、幼稚園や小学校(低学年児)でも、いじめられて泣くのは男の子。いじめて泣かすのは、女の子という図式が定着している。

 腕白(わんぱく)で、昔風にたくましい男児となると、10人に1人とから2人しかいない。とくに最近の男の子は、どこかナヨナヨしていて、ハキがない。

 「男の子らしく」ということになれば、皮肉なことに、最近の女児のほうが、よっぽど(男のらしい)。

●なぜ女性は、家庭に入るのか?

いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助(=夫の不随物)」程度にしか考えていない男性が多いのは、驚きでしかない。

いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている人が、2割近くもいる。

たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000)によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、77%いる。が、その反面、「(男女の同権には)反対だ」と答えた女性も23%もいる!

 ある農村地域でこのジェンダーについて話したら、担当者(教育委員会課長)が、「そういう話はまずいです。そうでなくても、どの家も、嫁の問題で頭をかかえているのだから」と。「夫が家事をするというのも、現実的な話ではない」とも。この話に私は驚いた。

 それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ妻もふえている。「第2回、全国家庭動向調査」(厚生省・98年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、52%しかいない。

この数値は、前回93年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93年度は、61%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、53%もいた。なお、アメリカでは裁判闘争が多いのは事実だが、これは裁判制度の違いによるもの。(正解?)

 で、こうした(違い)は、外国の夫婦と比較してみると、すぐわかる。

 先月も、オーストラリア夫婦が、2組、我が家に、ホームステイをした。ちょうど1か月あまり滞在していった。

 その夫婦。家事については、たがいに見事なほど、分担しているのがわかった。掃除や洗濯はもちろんのこと、食後のあと片づけなどなど。日本の男性諸君のように、食後、デ〜ンと、テーブルの前に座っている夫は、いない。

 食事が終わると、さっと立って、食器を洗い、それを拭いて、戸棚へしまう。しかも2人とも、夫は、その地方では、著名なドクターたちである。

 そういう現実を見せつけられると、日本の男たちがもつ、基本的なおかしさというか、女性に対する偏見を、強く感ずる。これは別のオーストラリア人男性の話だが、やはり我が家にホームステイしたとき、洗濯をいつもしていたのは、夫のほうだった。

 で、私のワイフが見るに見かねて、それを手伝ったほどだが、その夫いわく、「オーストラリアでは、50%くらいの夫は、自分で洗濯をする」とのこと。「50%」という数字を聞いて、私は、心のどこかで、ほっとしたのを覚えている。

 そうそう 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。

私はいつもその前を通って仕事に行くが、いまだかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

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少しむずかしい話がつづきました
ので、以前、息子の一人に書いた
手紙を、そのままここに転載しま
す。

ジャンダーを考える、一つのヒン
トになれば、うれしいです。

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●ジェンダーは、文化か?

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約束ごこと)が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」という意味で、文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾しているからといって、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ども用に分かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、使用していないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通路を歩くと、みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。平安時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていたというよ。女性たちは、部屋の中に置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を便器のほうに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなかった。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれがときには、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体的なちがいをさす言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれたちがいを意味する言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、意味がない。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」と思うのは、その人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに複雑に、かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る文化というものをつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たとえば、「公衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとすると、どうなるか。その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、銃で射殺されるかもしれない……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、人間の種族保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこまで否定してしまうと、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」などと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(=もちあげる)ことができるようになるまでには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるまでには、まだまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからのことだろうと、ぼくは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずるようになってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろい映画になった。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、ただの、本当にただの、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆トイレがあるというわけ。

 高校生が、アメリカでは、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしいと思う。ぼくも、同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くことはできない。しかしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテルの中を歩くことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対的なものではない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかしくない。国によっても、ちがう。お前が言うように、「用足し・プライベートという二つの機能を分けた空間」にしてもよい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大衆に任せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、K大学で学生だったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子用トイレに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。トイレの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮したのだと思う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリブー、グシャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼくのボックスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いのをするのは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていくところだった。

 で、なぜ唖然としたかって……?ハハハ。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもっていた、文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、寸前の女性だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をもってしまった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクションを起こすことができなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。お前は、同じでも構わないと言うけど、ぼくは、そうは、思わない。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメントをつけてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見えるかもしれないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そういう気持は、今のお前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画事業

話が、少し脱線してきたが、もう少し、深刻な問題もある。

 男と女を区別するのは、その人の勝手だし、「男は、仕事、女は家事」と考えるのも、その人の勝手。

 しかし、これからの日本では、現実問題として、そんなことを言っていることはできなくなる。

 言うまでもなく、少子化による労働力の不足である。そういう深刻な問題がある一方で、家事、子育てを押しつけられた女性たちの悲鳴も、これまた大きい。

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約80〜85%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひんぱんにある」と答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親にとっては、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少なくない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベを破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担させる。その意識をもってもらう。その一方で、女性たちにも、仕事をしてもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目標とする」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、育児を負担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性にも、家事や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針には、もう一つ、重要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけである。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配が解消されないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために! ……と少し、力んだところで、もう少し、先を考えてみよう。

●役割混乱

 子どもは、成長するとともに、自分らしさを、つくりあげていく。

 わかりやすい例としては、「男の子らしさ」「女の子らしさ」がある。

 服装、ものの考え方、言い方など。つまりこうして自分のまわりに、男の子としての役割、女の子としての役割を形成していく。これを「役割形成」という。
 
 こうした「役割」を感じたら、その役割にそって、親は、子どもを伸ばしていく。これが子どもを伸ばすコツということになる。

 子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「あら、そうね。すてきな仕事ね」と。ついで、「じゃあ、今度、お庭をお花でいっぱいにしようね」などと言ってやるのがよい。

 こうして子どもは、身のまわりに、「お花屋さんらしさ」をつくっていく。自然と、植物に関する本がふえていったりする。

 しかしこの役割が、混乱することがある。

 私のばあいだが、私は、高校2年の終わりまで、ずっと、継続的に、大工になるのが夢だった。それがやがて、工学部志望となり、建築学科志望となった。しかし高校3年になるとき、担任に、強引に、文学部コースへと、変えられてしまった。当時は、そういう時代だった。

 ここで私は、たいへんな混乱状態になってしまった。工学部から、文学部への大転身である!

 当時の、つまり高校3年生当時の写真を見ると、私は、どの顔も、暗く沈んでいる。心理状態も最悪だった。もし神様がいて、「お前を、若いころにもどしてやる」と言っても、私は、あの高校3年生だけは、断る。私にとっては、それくらい、いやな時代だった。

 この役割混乱について、ある講演会で、話をさせてもらった。それについて、そのあと、ある一人の男性が、こう聞いた。「役割混乱って、どういう心理状態でしょうかね?」と。

 私は、とっさの思いつきで、こう答えた。

 「いやな男性と、いやいや結婚して、毎日、その男性と、肌をこすりあわせているような心理状態でしょうね」と。

 そう答えたあと、たいへん的をえた説明だと、自分では、そう思った。

 もしあなたなら、そういう結婚をしたら、どう思うだろうか。それでも、そういう状態を克服して、何とか相手とうまくやっていこうと思うだろうか。それとも……。

役割混乱というのは、そういう状態をいう。決して、軽く考えてはいけない。

 ただし一言。よく「有名大学へ……」「有名高校へ……」と、子どもを追い立てている親がいる。

 しかし有名大学や有名高校へ子どもを入れたからといって、その子どもの役割が確立するわけではない。「合格したから、どうなの?」という部分がないまま、子どもを大学へ送りこんでも、意味はないということ。

 もう10年ほど前だろうか、こんなことがあった。

 2人の女子高校生が、私の家に遊びに来て、こう言った。

 「先生、私たち今度、SS大学に行くことになりました」と。

 関東地方では、かなり有名な大学である。そこで私が、「いいところへ入るね。で、学部は……?」と聞くと、すこしためらった様子で、「国際カンケイ学部……」と。

 そこでさらに、「何、その国際カンケイ学部って? 何を勉強するの?」と聞くと、二人とも、「私たちにも、わかんない……」と。

 大学へ入っても、何を勉強するか、わからないというのだ!

 しかしその姿は、私自身の姿でもあった。私は高校を卒業すると、K大学の法学部(法学科)に入った。しかしそこで役割混乱が収まったわけではない。そのあと、大学を卒業したあと、商社へ入社したときも、役割混乱は、そのままだった。

 まさに(いやな女房と、いやいや結婚したような状態)だった。

 つまり(本当に私が進みたいコース)と、(現実に進みつつあるコース)の間には、大きなへだたりがあった。このへだたりが、私の精神状態を、かなり不安定にした。やがて、私は、幼稚園で、自分の生きる道をみつけたが、その道とて、決して、楽な道ではなかった。

 ……ということで、子どもの役割形成と、役割混乱を、決して、安易に考えてはいけない。私自身が、その恐ろしさを、いやというほど、経験している。

●幼児を見ると……

 満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心をもち始める。性器はもちろん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもっていることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別することができるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせないようにすること。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにすること。男と女の差別意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男は強い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。

●ジェンダーは、なぜ生まれるのか?

 男と女。その間には、生理的な違いはある。その違いまで、乗り越えて、男と女が平等であるということは、ありえない。「性欲」の問題が、そこにからんでくる……。

 ……と、考えるのも、最近は、どうかと思うようになった。

 フィンランドに留学している、オーストラリア人の女子学生がこんなことを話してくれた。

 彼女は、フィンランドで、建築学の勉強をしている。22歳である。いわく、「みな、サウナが大好き。サウナでは、混浴が、ふつう。老若男女の区別はしない。タオルで肌を隠したりすることもしない」と。

 そういう話を聞くと、「本当ですか?」と、何度も聞きかえさなければならないほど、日本人の性意識には、独特のものがある。つまりフィンランドでは、30〜40歳の男性と、10〜20歳の女性との混浴(サウナ)が、ごく日常的なこととして、公然となされているという。

 となると、(性意識)とは、何か? さらに(性差)とは、何か?

 文化論、遺伝子論、民族論などが、混在している。そしてそれぞれの人たちが、自分の立場で、「ジェンダーは、おかしい」「ジャンダーは、必要だ」などと、説く。最近では、むしろ、「男は仕事、女は家事という、日本民族がもつ独特のよさ(?)を、再確認しよう」と説く集団まで、現れた。政治家の中にも、そういう考え方をする人は多い。

 その根底には、日本古来の、独特の男尊女卑思想がある。「男が上、女が下」という、あの男尊女卑思想である。

 このところ、皇室の皇位継承問題もからんで、ジェンダー論が、にぎやかになってきた。昨日の新聞(中日新聞)も、この問題について、特集記事を並べていた。

 で、私の結論。

 だいたいにおいて、男と女を、人間として区別するほうが、おかしい。まったく、おかしい。男の子は、男の子らしく育てるとか、女の子は女の子らしく育てるという考え方、そのものも、おかしい。

 そんなことは、当の子どもたちが、そのときどきの文化の中で決めていくことであって、社会の問題でもなければ、教育の問題でもない。

 この問題で、もっとも重要なことは、男であるから、女であるからという理由だけで、人間的、社会的差別を、人は、受けてはならないということ。すべては、その一点に、結論は集約される。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最後に、話はまったく関係ないが、『マディソン郡の橋』について
書いた原稿を添付します。

私が好きな原稿の一つです。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

女性がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(32歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。

「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。

だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。

方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。
(中日新聞東掲載済み)
(はやし浩司 ジェンダー)

【付記】

●「自民保守派が、ジェンダー否定」(中日新聞・05・07・26夕刊)

 世界的にみても、この分野で一番、遅れている日本で、さらに「ジェンダー否定」の動きが出てきたというのは、たいへん興味深い。

 自民党保守派の人たちが、「男女共同参画社会はおかしい」と言い出した。新聞報道によれば、「自民党の関連プロジェクトチームが、参画社会の基本計画の柱である、ジェンダーの否定に乗り出した」(同新聞)とある。「ねらいは、男女共同参画社会基本法の改廃」である、と。

 いろいろな識者の意見が並べられている。

 男女の違いは、文化だ。いや違う、生物学的なものだ、などなど。「男は、男らしく、女は、女らしくというのは、少しもおかしくない」という意見まで。

 「個」という観点を基本におけば、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』そのものが、まちがっている。日本人は、本当に、この『だから論』が好きなようだ。社会のみならず、個人の生き方まで、この『ダカラ論』で決めてしまう。

 もう、そんな時代は、とっくの昔に終わったと、私は思っているが……。
(はやし浩司 男女の平等 共同参画社会 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●男女共同参画社会VS父親の育児参加

 今度、H市の教職員組合支部の研修会で、講師をすることになった。あわせてテーマをもらった。メールには、つぎのようにあった。

 「私たちの活動の重点は、男女共同参画社会の教育の在り方を見つけていくことです。現在、私たちがおかれている職場環境、家庭環境もさることながら、学校教育、家庭教育においてどのようなことをしていくことが、これからの男女共同参画社会を築いていくことになるのか、それを勉強していきたいと考えています。
 
先生は、主に、子育てについてご講演されることが多いかと思いますが、父親が積極的に子育てに関わっていくことも今の時代大切なことだということをこの会の中でも、話してくださるのではないかと期待しております」と。

 この中には、いくつかの重要なキーワードがある。

 (1)男女共同参画社会、(2)父親の積極的な育児参加など。

 私はこうした新しいテーマをもらうと、モリモリと元気がわいてくる。スリルや緊張感を覚える。何というか、登山家が高い山を、目の前にしたときの気持ではないか。あるいはヨットで大海原(うなばら)に出航するときの気持ではないか。どちらも私には経験のない世界だが、しかし私は似ていると思う。あのニュートンは、こんな有名な言葉を残している。

 『真理の大海は、すべてのものが未発見のまま、私の前に横たわっている』(ブリューター「ニュートンの思い出」)

 新しい真理を求めて出発するということは、まさに大海に向けて出航することに等しい。ゾクゾクする。ワクワクする。

 ……と、長い前置きはここまでにして、男女共同参画社会について。要するに、男女平等ということ。要するに、「性」にまつわる差別や、偏見を撤廃するということ。

 最初に思いついたのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデンの性教育協会の、元会長である。そのベッテルグレン女史について書いたのが、つぎの原稿である。

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●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことがない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったくない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそのまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いるが、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。つまり「昔のままでいい」と。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。 

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家庭とは、本当に天国か?
世の男たちは、そう思っているかもしれないが、
家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、
相当なものである。それについて書いたのが
つぎの原稿です。
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●家庭は兵舎

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけである。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。「育児で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。が、最大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。ある男性は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なのか」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせた。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出したり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければならない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、一、二年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかということになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎの月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけには、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。これも私の経験だが、私も若いころは、生徒たち(幼児、四〇〜一〇〇人)を連れて、季節ごとに、キャンプをしたり、クリスマス会を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、三五歳を過ぎるころから、それができなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というのは、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発する、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の中における、自己愛の喪失を例にあげている。つまり一般世間から、隔離された状態に長くいると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失するという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。その前の段階として、冷淡、無視、育児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査によっても、約四〇%の母親たちが、子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのがわかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、これから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっと声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方をする。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であることを認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まってくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。
(030409)

●「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから大半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なおさらである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛である。

Aさん(三四歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてからも、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさんは、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児をしろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさんのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!

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●男女共同参画基本法より

内閣府の「男女共同参画基本計画」では、つぎのようになっている。

★男女の人権の尊重

男女の個人としての尊厳を重んじましょう。男女の差別をなくし、「男」「女」である以前にひとりの人間として能力を発揮できる機会を確保していきましょう。

★社会における制度又は慣行についての配慮

固定的な役割分担意識にとらわれず、男女が様々な活動ができるよう、社会の制度や慣行の在り方を考えていきましょう。

★政策等の立案及び決定への共同参画

男女が、社会の対等なパートナーとして、いろいろな方針の決定に参画できるようにしましょう。

★家庭生活における活動と他の活動の両立

男女はともに家族の構成員。お互いに協力し、社会の支援も受け、家族としての役割を果たしながら、仕事をしたり、学習したり、地域活動をしたりできるようにしていきましょう。

★国際的協調

男女共同参画社会づくりのために、国際社会と共に歩むことも大切です。他の国々や国際機関とも相互に協力して取り組んでいきましょう。

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こうした流れの中で、男女共同参画基本法が制定された。

●夫の暴力に対する対処(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)

殴ったり蹴ったりするなど、直接何らかの有形力を行使するもの。
刑法第204条の傷害や第208条の暴行に該当する違法な行為であり、たとえそれが配偶者間で行われたとしても処罰の対象になります。
■平手でうつ 
■足でける
■身体を傷つける可能性のある物でなぐる
■げんこつでなぐる
■刃物などの凶器をからだにつきつける
■髪をひっぱる
■首をしめる
■腕をねじる
■引きずりまわす
■物をなげつける
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心無い言動等により、相手の心を傷つけるもの。
精神的な暴力については、その結果、 PTSD(外傷後ストレス障害)に至るなど、刑法上の傷害とみなされるほどの精神障害に至れば、刑法上の傷害罪として処罰されることもあります。
■大声でどなる
■「誰のおかげで生活できるんだ」「かいしょうなし」などと言う
■実家や友人とつきあうのを制限したり、電話や手紙を細かくチェックしたりする
■何を言っても無視して口をきかない
■人の前でバカにしたり、命令するような口調でものを言ったりする
■大切にしているものをこわしたり、捨てたりする
■生活費を渡さない
■外で働くなと言ったり、仕事を辞めさせたりする
■子どもに危害を加えるといっておどす
■なぐるそぶりや、物をなげつけるふりをして、おどかす

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嫌がっているのに性的行為を強要する、中絶を強要する、避妊に協力しないといったもの。
■見たくないのにポルノビデオやポルノ雑誌をみせる
■いやがっているのに性行為を強要する
■中絶を強要する
■避妊に協力しない

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【世の夫諸君へ】

 妻だから、ワイフだから……という甘えを捨てよう。夫婦とて、長い目で見れば、人間対人間の関係。ちなみにオーストラリアあたりで、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などとでも言おうものなら、それだけで離婚事由になる。中に、日本人の離婚率は、アメリカより低いなどとうそぶいている男がいるが、それは妻が夫に満足しているからではなく、がまんしているからにほかならない。これから先、女性の意識が高まるにつれて、日本の離婚率も、アメリカ並になる。あるいはそれを超えるかも。世の夫諸君よ、今日からでも遅くないから、妻には、やさしく、微笑作戦を展開しよう!

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●家事をしない男たち

 特別な事情のある男は別として、五〇歳以上の男について言うなら、彼らは、掃除、料理、洗濯などの家事を、ほとんどしない。この年代は、旧態依然の男尊女卑思想、あるいは男女差別思想にこりかたまっている。中には、「男には威厳が必要だ」「夫は、一家の主(あるじ)だ」「存在感があればよい」などと、居直っている男さえいる。

 しかしこんな意識は、バカげている。またそういう意識にしがみついたからといって、伝統を守ることにはならない。

 少し前まで、あのアフガニスタンでは、女性は教育を受けることも、仕事につくことも許されなかった。外出するときは、あのマスクで顔を隠さねばならなかった。そういう報道を見聞きすると、日本人は、「私たちは違う」と胸を張る。「私たちの国は、先進国だ」と。しかし、本当にそうか。本当にそう言いきってよいか。

 私の家の近くには、小さな空き地があり、そこは近所の老人たちの、かっこうの、たまり場になっている。天気のよい、おだやかな日には、いつも、七、八人の老人が集まっている。そういう風景を目にするようになって、もう一〇年以上になる。

 しかし、だ。男たちは、ただイスに座って、何やら話しているだけ。草を取ったり、竹を切ったり、畑の世話をしているのは、女性だけ。私はこの一〇年以上の間、男たちが、ゴミを集めたり、掃除したりしている姿を、一度も見たことがない。

 見なれた光景とはいえ、いつも大きな違和感を覚える。少し前までは、「男も、何か仕事をすればいい」と思った。しかし最近は、「つまらない男たち」と思うになった。そういう男たちのやることと言えば、せいぜい、竹やぶに生えてくる竹の子の管理だけ。見知らぬ人が竹やぶに入ってきて、竹の子を取ろうとすると、集会場の男たちがやってきて、あれこれ文句を言う。

 しかしこのたまり場は、まさに日本の社会を、象徴している。「社会」というより、「男と女の関係」を、象徴している。しかし意識とは恐ろしい。おそらくそういう関係をつくりながらも、そのたまり場の男はもちろん、女も、それをおかしいとは思っていない。……だろう。が、それは、ちょうど、少し前までのアフガニスタンの人たちが、自分たちの社会をおかしいと思わなかったのと、同じ? あるいはどこがどう違うというのか。

●意識改革 

 こうした男たちや女たちの意識を変えることは、不可能に近い。意識というのは、それが無意識であればなおさら、脳のCPU(中央演算装置)に関係する。それを変えるということは、それまでの生きザマを否定することにもなる。たとえば「任侠(にんきょう)」とか、「義理人情」とか、そういうものにこりかたまっている人に向かって、「これからはそういう時代ではありません」などと言おうものなら、その人は猛烈に反発する。へたをすれば、こちらの腹を刺してくるかもしれない。

 指導でできることがあるとすれば、せいぜい、習慣として、「家事を男に手伝わせる」ことでしかない。あるいは「そういう意識では、いけない」ということを、わからせることでしかない。あるいは、そのほかに、どんな方法があるというのか。そのことは、自分のこととして考えてみれば、わかる。

 私も、昔風の、きわめて男女差別のはげしい家庭環境で育った。小学時代は、女の子と遊んだ経験がない。家庭でも、私が台所へ入っただけで、母などは、「男がこんなところにいるもんじゃない!」と私を叱った。だから高校を卒業するまで、洗濯や料理など、ほとんどしたことがなかった。掃除といっても、せいぜい、自分の部屋の掃除程度。

 その私が大きく変わったのは、留学時代があったからだが、もし留学していなければ、今の私はあの私のままだったと思う。そして今も、家事は、いっさいしないでいると思う。とくに山荘のほうでは、掃除、料理、家事一般、ほとんどすべて私がしている。が、だからといって、私の意識が変わったというのではない。家事をするといっても、どこか趣味的にしている感じがする。もっとわかりやすく言えば、おとなのままごとをしているような感じがする。地に足がついていない?

 つまり私という人間は、外見こそ変わったが、中身は、ほとんど変わっていない。今でもふと油断をすると、心のどこかで、「男は仕事……」と考えてしまう。男女は平等といいながら、男としての気負いが消えたわけではない。そういう私を見て、ワイフは、ときどき、(今でも)、こう言う。「あんたは、私たちに気をつかいすぎよ」と。

 ワイフが言う「気をつかいすぎ」というのは、私の気負いをいう。私はいつもどこかで、「家族を支えていくのは、私の役目」と考えている。ときにそれが重圧となって、私を苦しめる。ワイフは、それを言う。

 かたい話がつづいたので、少し前に書いた原稿を掲載する。

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●真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろうか。私はただただそれを見て、あきれるばかり。その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、少し離れたところにあるプラズマテレビの画面をながめたりしているだけ。その女を手伝おうともしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといったふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつもりですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみても大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!
 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育というよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべきだ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のはず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。


++++++++++はやし浩司

●終わりに

 男と女の関係は、(1)育児(2)家庭、(3)社会の3者の中で、基本的に違う。違って当然である。

 こうした(違い)を無視して、つまりいっしょくたににして、ジェンダーを論じても意味はない。

 たとえば育児の場においては、父親と母親の役割は、まったくと言ってよいほど、違う。母子関係は、子どもの心をつくる基本であって、母子関係の不全は、そののち、その子どもの精神の発育に、決定的ともいえるほど、大きな影響を与える。

 が、母子だけに、育児を任せればそれでよいかというと、そうでもない。

 今度は、そこに父親の役割が、介入していくる。子どもを産み、子どもに命を授けるのが、母親の存在であるとするなら、社会性を教え、人間としての生きザマを教えるのが、父親の存在ということになる。わかりやすく言えば、父親は、子どもを外の世界に連れ出し、狩のし方を教える。

 もちろん家庭の中でも、ある程度の役割分担は、ある。しかしそれは『ダカラ論』によって生まれるものであってはならない。100世帯の家庭があれば、100種類の夫婦関係がある。どれもちがう。

 妻が外で働いて、夫が家事を分担したところで、何ら、おかしくない。それぞれの家庭が、それぞれの事情の中で、決めていくことである。

 しかし男であるにせよ、女であるにせよ、一歩、外に出て、社会的人間として生きるときには、性による差別は、ぜったいにあってはいけない。

 その不快感は、差別されたものでないと、恐らく理解できないだろう。形こそ違うが、私は、学生時代、オーストラリアで、人種差別なるものを経験している。その人種差別と同じにすることはできないが、ジェンダーも、それと同列に考えてよい。差別される側が受けるショックは、差別する側のものにとっては、理解できないものかもしれない。

 日本の女性たちが、男女同権を訴えるなら、その前提として、差別というものが、どういうものか知らねばならない。それを知らない女性に向って、ジェンダーを説いても、あまり意味はない。「私は、かわいい女よ」と、「女」であるという下位の立場に甘んじている女性に、ジェンダーを説いても、あまり意味はない。

 ジェンダーを説くときには、こうした意識(男も女も)改革を、まず先行させなければならない。

 以上、ジェンダーについて考えてみた。

 そうでなくても、欧米社会から見ると異端の国、日本。その日本が、「男女共同参画社会基本法」を改廃するなどというのは、まさに愚の骨頂としか、言いようがない。

 日本の女性たちよ、目ざめよ! そしてもっと怒れ!







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