教育
 1つもどる   はやし浩司の書斎   はやし浩司のメインHP 

教育


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それはずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることになった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではないが……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくなることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわり、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこだわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてかかって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが……。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子どもとみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※


****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは……。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかった子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Education、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせない。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それに含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれない。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコントロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人ということになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠のいてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の完成)


●子どもの反抗期
  
●掲示板への相談から……

 Fさんという方から、こんな書き込みがありました。まず、それをそのまま転載させていただきます。

+++++++++++++++++

朝、子どもを起こして、学校に出すまでが苦労・・・。
放っておけば、いつまでも寝ています。
別に学校なんてつまらないし、部活があるから行くけど
と言う、中2の息子。
疲れたと言って休む事も、月に1回位あります。
夜は11時頃就寝しています。

高校受験もあるし、世の中を舐めきったような態度が許せません。
わがままに育てた私が悪いのでしょうが、このまま本人が自覚するまで待つしかないのでしょうか?
ちなみに土日の部活には、きちんと起きます。

+++++++++++++++++++

 みんなそんなものではないでしょうか。Fさんの息子さんだけが、特別ということでもないでしょうし、またそうであるからといって、特別な子どもというわけでもないでしょう。

 少し前、子どもの反抗期について書きました。もう一度、それをここで書き改めてみます。(前作の改訂版というところです。)

+++++++++++++++++++

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かすな!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のよりどころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さがし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何らかの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることがある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとなしいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイプの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全なまま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、みなさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

以下2作は、先日送った原稿と、ダブります。お許しください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。(*浜松市AB幼稚園元園長)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせられた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかったのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているのでも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してかかえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをしない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)よき友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、その一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子どもは、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろいろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからです。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっというなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょう。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さんも、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それを一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支えることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもになすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほしくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点です。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性ということで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをしてきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つとか3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外からは、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでということです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたいことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生きている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげられてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それが親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言えば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなたの子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういうときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。)あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえている問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あなたの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあげてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●宗教心

 頭がボケ始めた兄は、実家にいるころは、欠かさず、その命日には、墓参りをしていた。そのこともあって、私といっしょに住むようになって、しばらくたった、ある日のこと。突然、「墓参りをしたい」と言い出した。

 これには、ハタと困った。

 我が家には、仏壇はあるが、中身は、カラッポ。墓など、どこにもない。

 しかたないので、去年、何かの賞でもらったトロフィーを、兄に渡した。

 「なっ、この上に、観音様がのっているだろ。羽のはえた観音様だよ。おっぱいが、大きいだろ。それだけ、ご利益もあるというわけ。

 この観音様に、毎日、祈るといいよ」と。

 そのトロフィーは、3段になっていて、一番下が地球儀、その上が、提灯様にふくらんだ、球。そしてその上にもう一つ、ローソク立てのようになっていた。女神は、その上で、羽を広げて立っていた。

 さっそく、兄は、そのトロフィーに向って、何やら、祈り始めた。

兄「何て、祈るんだ?」
私「さあ、何でもいいよ。頭がよくなりますように、でもね」
兄「頭は、悪くない」
私「だから、お前は、重症なんだよ」と。

 そして私は兄を、仏壇の前に連れていった。電動で、扉が開閉したり、電気が点灯したりする。兄が祈るのに合わせて、こっそりと、電気をつけてあげたり、扉を開閉させたりしてみせた。それを見て、兄は、「不思議やなあ」と言って、ますます、真剣に祈り始めた。

 「そういうものかあ?」と思ってみたり、「こんなことしていいのかなあ?」と思ってみたりする。

 まあ、私も、一応、真剣なフリをして、兄の横に座って、祈ってみせる。

私「何か、悲しいことや、困ったことがあったら、ここで祈るといい」
兄「わかった」
私「この神様は、ご利益があるぞ。何でも、お前の願いをかなえてくれるからな」
兄「わかった」と。

 居間へもどると、そこでワイフが、洗いものをしていた。「まあ、あんなもんだよ」と私が言うと、ワイフは、笑ってはだめだというふうに、笑い虫を懸命に押しつぶしながら、こう言った。「いいの? あんなウソ言ってエ?」と。

 まだ、私の兄ということで、何かの遠慮をしているようだ。

 少し曇った、どんよりとした空。そのとき、ワイフがこう言った。「お米がなくなったから、あとで、買い物に行こう」と。私は、すかさず、「いいよ」と答えた。


●現実の子どもVS理想的な子ども像

 心理学の世界には、(現実自己)という言葉と、それに対して、(自己概念)という言葉がある。

 「現実の自分」を、(現実自己)という。一方、「私はこうでありたい」「こうあるべきだ」という概念を、(自己概念)という。このギャップは、小さければ小さいほどよい。人間性は、そこで安定する。が、このギャップが大きいとき、そこから劣等感が生まれる(フロイト)。

 同じように、親は、子どもに対して、(現実の子ども)と、(理想的な子ども像)のはざまで、もがき、苦しむ。

 「うちの子は、こうであってほしい」「こうであるべきだ」というのを、理想的な子ども像という。しかし現実には、そうでない……。

 そのギャップが大きければ大きいほど、親は、親として、葛藤する。「私は親だ」という親意識の強い人ほど、そうだ。

 そしてこう悩む。

 「こんなハズはない」「うちの子は、やればできるはず」「できないのは、やらないから」と。

 さらに豪快な(?)親となると、こう言う。「幼児教育が大切です。幼児期からしっかりと教育すれば、東大だって入れます。ノーベル賞だって取れます」と。

 実際、そう言った母親がいた。

 しかし、そういうものではない。そういうものでないことは、何百例も子育てを見てくると、わかる。そこで私は、その母親にこう言った。

 「じゃあ、お母さん、お母さんも勉強して、東大へ入ってみたらいかがでしょうか?」と。

 私は皮肉をこめてそう言った。が、その母親は、照れ笑いをしながら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 学問に終わりはない。真理の探究となると、さらに、終わりはない。つまり死ぬまで、私たちは前向きに生きていく。探求しつづける。立ち止まったとたん、脳ミソは、腐る。

 そこで教訓。

 親は、子どもに、あるべき理想像を描きやすい。それはわかる。そういう夢や希望があるから、子育ても、また楽しい。しかしそれには条件がある。

 夢や希望をもっても、それを子どもに強要してはならないということ。

 そこで大切なことは、あなたの子どもが、現実には、どうであるかを、しっかりと見きわめること。それについて、少し前にこんな原稿を書いた。

++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++++++++

(後記)

 はからずも最後のところで、私は、こう書いた。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。

 それに早く気づく親を賢明な親という。そうでなく、いつまでも、ムダな抵抗を繰りかえし、悶々と悩む親を、そうでないという。

 ほとんどの親は、子育ても一段落すると、こう言って、自分をなぐさめる。

 「やっぱり、あんたは、ふつうの子だったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふつうの人間なのだから」と。

 子育てというのは、そういうもの。ホント!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
 
 


子どもの学力05年7月27日改


【学力】

+++++++++++++++++

「ゆとりある教育」が、今、見なおされ始めている。
再び、学力をつける教育への転換へと、日本の教育
は、大きくカジをきろうとしている。

しかし、学力をつけるだけで、よいのか。それで本当
に日本の将来は、よくなるのか?

++++++++++++++++

●学力の低下

 たしかに最近の子どもたちの学力は、低下している。改めて具体的データなど、出すまでもない。

 が、だからといって、最近の子どもたちが、その分だけ、以前の子どもたちより、劣っているかというと、そうとは言えない。

 いわゆる(学校でする勉強)については、成績が落ちている。それは、事実。しかし今の子どもたちの世界は、以前とは比較にならないほど、多様化している。それに広くなっている。学校で習う勉強だけが勉強という、そういう時代では、もうなくなった。

 もちろん、娯楽もかぎられていた。行動半径もかぎられていた。スポーツにしても、野球と相撲だけ。それにプロレス。とくにプロレスの人気には、ものすごいものがあった。

 私の時代においてですら、つまり今から45年も前のことだが、学校でする勉強と、自宅で自分がしていることとの間に、大きなギャップを感じたことがある。とくによく覚えているのは、音楽について、である。

 学校ではバッハのミサ曲やシューベルトの歌曲を歌い、家では、西郷輝彦や舟木一夫の歌謡曲を歌った。さらに(学校で与えられること)と、(自分のしたいこと)の間には、大きなギャップを感じた。

 私は、飛行機に興味があった。将来の夢は、大工になることだった。しかしそういったことについての勉強は、ほとんど、なかった。そういう時代の学力と、現在の学力を同一レベルで考えることはできない。

 よく覚えているのは、中学2年のときに、三角関数を学んだこと。現在、三角関数は、高校2年で学ぶことになっている。英語にしても、中学2年で、関係代名詞を学んだ記憶がある。が、だからといって、当時の教育レベルが、今より高かったなどとは、だれも、思っていない。

 「おい、わかったか」「では、つぎ」式の詰めこみ教育……、毎日が、その連続だった。

 ただ今の時代と違っていたのは、教師による体罰などというものは、日常茶飯事。英語の教師などは、剣道で使う竹刀(しない)を、いつも教室へもってきていた。その竹刀で、宿題をしてなかった子どもや、教師の質問に正しく答えられない子どもは、容赦なく、バシッ、バシッと頭をたたかれた。頭から血を流した子どももいた。

 「古き、よき時代」などと言おうものなら、今の親たちに、袋だたきにあいそうだが、ともかくも、私たちの時代は、そういう時代だった。

 が、今は、違う。当時の様子を、モノクロのスチール写真にたとえるなら、現在は、カラービデオの時代。まさに何でもござれの時代になった。それくらいの違いはある。

 そこで本来なら、教育も、もっと多様化すべきであった。しかし遅れること、30年? 40年? いまだに「基礎学力」とか何とかいうわけのわからないものが、大手を振って、教育界をのさばり、歩いている。

 みながみな、その道の学者になるわけでもないだろうに……。

 そんな日本の教育の現状を書いたのが、つぎの原稿である。ただしこの原稿を書いたのは、今から4年前の、2001年のはじめ。それから4年、その前後に、「総合的な学習」が始まり、「学校5日制」も始まった。「ゆとり」の名のもとに、学習教科の3割削減も実施された。

 そういうことも念頭に入れながら、この原稿を読んでほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日本の教育レベル】

●日本の教育レベルは165カ国中、150位? 

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。

「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、165か国中、150位(99年)。

「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない(99年当時)。

ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。

いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んでいる」(※1)と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。

「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。

大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。

確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よりも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねばならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに15年以上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。

メルボルン市にある、ほとんどのグラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の中から、1科目選択できるようになっている。もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっとはっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、これからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。よい例が、日本の総理大臣だ。

●ヘラヘラする日本の首相

 G8だか何だか知らないが、日本の総理大臣は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる(2000年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。一国の代表なのだから、通訳なしに日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではないのか。

が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう総理大臣しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも150位レベル? 政治も150位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。

※1……東京都教育委員会は、「都立高校マネジメントシステム検討委員会」を設置した(01年6月)。これはともすれば経営感覚を無視しがちな学校運営者(校長)に、経営感覚をもってもらおうという趣旨で設置されたものだが、具体的には、各学校に進学率などの数値目標を設定させ、目標達成に向けた校内体制を整備させようというもの。

つまり進学率や高校への応募倍率、さらには定期考査の平均点などで、学校が評価されるという。またこれに呼応するかのように、東京都では「代々木ゼミナール」などの予備校での教員研修を始めている(01年10月より)。

※2……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったという。

調査は99年と2000年の4月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研究する大学院生約130人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、25点満点で平均は、16・85点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部1年生で、22・94点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。

さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。

●学力は世界第五位※

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第5位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次いで第3位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。

 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多いということ。たとえば中学校では週4〜5時間を数学の時間をあてている(静岡県公立中学校)。アメリカのばあい、単位履修制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週3〜4時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、ほとんどの学校では、小学一、二年の間は、テキストすら使っていない。

●今の改革でだいじょうぶ?

また偏差値(日本……世界の平均点を500点としたとき、数学579点、理科550点)だけをみて、学力を判断することはできない。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。

東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(48%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ2あった(韓国52%、日本55%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ2。一方、その分、前回(95年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、2・6時間から3・1時間にふえている。

同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本調査」によれば、次のようになっている(01年5月と6月に小、中、高校生約8700人について調査)。

学習時間が三〇分以下……小学生 40・3%
            中学生 30.7%
            高校生 37・1% 

家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……23・1%

 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていることが、これらの調査でわかる。
(はやし浩司 日本の子供 学力 子供の学力 レベル)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●では、どうするか?

 では、どうするか? 批判ばかりしていても、始まらない。

 日本の教育を、明日に向けて救うためには、教育の自由化しかない。北海道の北端から、沖縄の南端まで、金太郎アメのような教育をすることが、教育ではない。子どもの多様化に合わせて、教育も多様化する。

 つぎの原稿は、3年ほど前に書いた原稿だが、今でも、新鮮さを、まったく失っていない。内容的に、先の原稿とダブる点があるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●公立小中学校・放課後補習について

 文部科学省は、公立小中学校の放課後の補習を奨励するため、教員志望の教育学部の大学生らが児童、生徒を個別指導する「放課後学習相談室」(仮称)制度を、二〇〇三年度から導入する方針をかためた(〇二年八月)。

 文部科学省の説明によれば、「ゆとり重視」の教育を、「学力向上重視」に転換する一環で、全国でモデル校二〇〇〜三〇〇校を指定し、「児童、生徒の学力に応じたきめ細かな指導を行う」(読売新聞)という。「将来、教員になる人材に教育実習以外に、実戦経験をつませる一石二鳥の効果をめざす」とも。父母の間に広まる学力低下への懸念を払しょくするのがねらいだという。具体的には、つぎのようにするという。

 まず全国都道府県からモデル校を各五校を選び、@授業の理解が遅れている児童、生徒に対する補習を行う、A逆に優秀な児童、生徒に高度で発展的な内容を教えたり、個々の学力に応じて指導するという。

 しかし残念ながら、この「放課後補習」は、確実に失敗する。理由は、現場の教師なら、だれしも知っている。順に考えてみよう。

第一、学校での補習授業など、だれが受けたがるだろうか。たとえばこれに似た学習に、昔から「残り勉強」というのがある。先生は子どものためにと思って、子どもに残り勉強を課するが、子どもはそれを「バツ」ととらえる。「君は今日、残り勉強をします」と告げただけで泣き出す子どもは、いくらでもいる。「授業の理解が遅れている児童、生徒」に対する補習授業となれば、なおさらである。残り勉強が、子どもたちに嫌われ、ことごとく失敗しているのは、そのためである。

第二、反対に「優秀な児童、生徒」に対する補習授業ということになると、親たちの間で、パニックが起きる可能性がある。「どうしてうちの子は教えてもらえないのか」と。あるいはかえって受験競争を助長することにもなりかねない。今の教育制度の中で、「優秀」というのは、「受験勉強に強い子ども」をいう。どちらにせよ、こうした基準づくりと、生徒の選択をどうするかという問題が、同時に起きてくる。

 文部科学省よ、親たちは、だれも、「学力の低下」など、心配していない。問題をすりかえないでほしい。親たちが心配しているのは、「自分の子どもが受験で不利になること」なのだ。どうしてそういうウソをつく! 

新学習指導要領で、約三割の教科内容が削減された。わかりやすく言えば、今まで小学四年で学んでいたことを、小学六年で学ぶことになる。しかし一方、私立の小中学校は、従来どおりのカリキュラムで授業を進めている。不利か不利でないかということになれば、公立小中学校の児童、生徒は、決定的に不利である。だから親たちは心配しているのだ。

 非公式な話によれば、文部科学省の官僚の子弟は、ほぼ一〇〇%が、私立の中学校、高校に通っているというではないか。私はこの話を、技官の一人から聞いて確認している! 「東京の公立高校へ通っている子どもなど、(文部官僚の子どもの中には)、私の知る限りいませんよ」と。こういった身勝手なことばかりしているから、父母たちは文部科学省の改革(?)に不信感をいだき、つぎつぎと異論を唱えているのだ。どうしてこんな簡単なことが、わからない!

 教育改革は、まず官僚政治の是正から始めなければならない。旧文部省だけで、いわゆる天下り先として機能する外郭団体だけでも、一八〇〇団体近くある。この数は、全省庁の中でもダントツに多い。文部官僚たちは、こっそりと静かに、こういった団体を渡り歩くことによって、死ぬまで優雅な生活を送れる。……送っている。

そういう特権階級を一方で温存しながら、「ゆとり学習」など考えるほうがおかしい。この数年、大卒の就職先人気業種のナンバーワンが、公務員だ。なぜそうなのかというところにメスを入れないかぎり、教育改革など、いくらやってもムダ。

ああ、私だって、この年齢になってはじめてわかったが、公務員になっておけばよかった! 死ぬまで就職先と、年金が保証されている! ……と、そういう不公平を、日本の親たちはいやというほど、思い知らされている。だから子どもの受験に狂奔する。だから教育改革はいつも失敗する。

 もう一部の、ほんの一部の、中央官僚が、自分たちの権限と管轄にしがみつき、日本を支配する時代は終わった。教育改革どころか、経済改革も外交も、さらに農政も厚生も、すべてボロボロ。何かをすればするほど、自ら墓穴を掘っていく。

その教育改革にしても、ドイツやカナダ、さらにはアメリカのように自由化すればよい。学校は自由選択制の単位制度にして、午後はクラブ制にすればよい(ドイツ)。学校も、地方自治体にカリキュラム、指導方針など任せればよい(アメリカ)。設立も設立条件も自由にすればよい(アメリカ)。いくらでも見習うべき見本はあるではないか!

 今、欧米先進国で、国家による教科書の検定制度をもうけている国は、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、州政府の委託を受けた民間団体が、その検定をしている。しかし検定範囲は、露骨な性描写と暴力的表現のみ。歴史については、いっさい、検定してはいけないしくみになっている。

世界の教育は、完全に自由化の流れの中で進んでいる。たとえばアメリカでは、大学入学後の学部、学科の変更は自由。まったく自由。大学の転籍すら自由。まったく自由。学科はもちろんのこと、学部のスクラップアンドビュルド(創設と廃止)は、日常茶飯事。そういう現状が、世界では、常識であるにもかかわらず、なぜ日本の文部科学省は、自由化には背を向け、自由化をかくも恐れるのか? あるいは自分たちの管轄と権限が縮小されることが、そんなにもこわいのか?

 改革をするたびに、あちこちにほころびができる。そこでまた新たな改革を試みる。「改革」というよりも、「ほころびを縫うための自転車操業」というにふさわしい。もうすでに日本の教育はにっちもさっちもいかないところにきている。このままいけば、あと一〇年を待たずして、その教育レベルは、アジアでも最低になる。あるいはそれ以前にでも、最低になる。小中学校や高校の話ではない。大学教育が、だ。

 皮肉なことに、国公立大学でも、理科系の学生はともかくも、文科系の学生は、ほとんど勉強などしていない。していないことは、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。その文科系の学生の中でも、もっとも派手に遊びほけているのが、経済学部系の学生と、教育学部系の学生である。このことも、もしあなたが大学を出ているなら、一番よく知っている。いわんや私立大学の学生をや! そういう学生が、小中学校で補習授業とは!

 日本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本の場合、疲弊している!

 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。

 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこまで進んでいることやら! 

日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。

 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。

 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。私はその改革について、つぎのように提案する。

(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。

 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平である。この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほど、受けない。

わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することになる。

 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改革」と言うにふさわしい。ここにあげた「放課後補習制度」にしても、アメリカでは、すでに教師のインターン制度を導入して、私が知るかぎりでも、三〇年以上になる。オーストラリアでは、父母の教育補助制度を導入して、二〇年以上になる(南オーストラリア州ほか)。

大半の日本人はそういう事実すら知らされていないから、「すごい改革」と思うかもしれないが、こんな程度では、改革にはならない。少なくとも「改革」とおおげさに言うような改革ではない。で、ここにあげた(1)〜(8)の改革案にしても、日本人にはまだ夢のような話かもしれないが、こうした改革をしないかぎり、日本の教育に明日はない。日本に明日はない。なぜなら日本の将来をつくるのは、今の子どもたちだからである。
(02−8−28)※

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(注※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。

この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。

ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。

で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ問題で調査)、と。

 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがない。

同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。

原因はいろいろあるのだろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【追記】

 この原稿を書いてから、数年。この数年の間に、日本の教育事情は、大きく変わりつつある。「自由化」とまではいかないにしても、とくに私立中学、私立高校における変化が、すさまじい。

 私たちが子どものころには、絶対的であったカリキュラムにしても、現在、それを順守している学校は、ほとんどない。中1で、中2の教科内容にふみこんでみたり、あるいは前後を、そのつど、入れかえてみたりするという授業が、ごくふつうのこととしてなされるようになってきている。

 教科書をほとんど使わず、それぞれの教師が用意したテキストを使って、自由に教育をしている学校も少なくない。補習用というよりは、受験用だが、しかしそういう意味での、自由化は、たしかに進んでいる。

 入試問題の内容も、大きく様変わりしている。だいたいの学力は、学校が用意する内申書を見て判断し、本番の入学試験では、(考える力)を試すという問題が多くなった。

 たとえば、「沼で、ザリガニをつかまえようと思います。どんな方法がありますか。ザリガニのつかまえ方を、具体的に書いてください」(H市N高中等部入試問題・05年)、など。

 こうした傾向は、今後、さらに全国的に広がっていくものと思われる。

 だから、全世界共通の、つまりは、今まで私たちがイメージとしてもっている(学力の概念)は、これから先、大きく変わってくる。先に書いたような、(学力の国際比較)そのおのが、それほど、意味をもたなくなる。

 ある中国人の女性(北京出身)は、こう言った。「中国では、小学1年で、掛け算を教える。日本は、2年で教える。中国の教育水準は、高い。日本の教育水準、低い、あるね」と。

 しかし今は、そういうことで、学力を比較する時代ではない。
(はやし浩司 学力 子供の学力 教育の自由化 何が学力か)



●頭のよい子ども

●頭のよい子ども

 現在、BW教室に、NG君という子どもがいる。まだ小学1年生である。

 私は今までに、数多くの、いわゆる「頭のよい子ども」を見てきた。小学4、5年生時に、中学3年生の勉強を終えてしまった子どもなど。しかしNG君は、その中でも、とくに秀でている。

 現在は、小学3年生のクラスで教えているが、実際には、小学4、5年生のクラスに入れてもよいと考えている。ただ、まだ小学1年生である。高学年のクラスは、夜になるので、体力に無理。……ということで、小学3年生のクラスで教えている。

 たとえばあなたなら、つぎの問題を、何分くらいで解けるだろうか。ちょっと、あなた自身の(算数力)を試してみてほしい。

+++++++++++++++++++++++

【問題】

 ABCAB x 9 = DDDDDD

 A、B、C、Dはすべて異なる数字である。A、B、C、Dは、それぞれ、いくつか?

+++++++++++++++++++++++

 問題の出典は、「頭がよくなる数学パズル」(逢沢明著、PHP文庫)。(類題、KY学院中等部)とある。つまりKY学院中等部の入試問題として、出された問題である。

 この程度の問題なら、NG君は、10分程度(あるいはそれ以下)で解いてしまう。彼が解いた、その解答用紙を、コピーして、ここに添付しておく。

 念のため申し添えるなら、私は、いっさいのヒントを与えていない。「やってみたら?」と声をかけたら、「やってみる」と言って、解き始めた。「まさか?」と思っていたが、「できたよ」と言ってもってきたので、見た。驚いた。

 現実にこういう子どもがいる。しかし今の日本の教育制度では、こういう子どもをさらに伸ばすシステムそのものがない。それを、「日本の損失」と言わずして、何という。
(05年10月14日記)




●勉強しない子ども


++++++++++++++++++++++

兵庫県にお住まいの、Fさん(母親)から、
「うちの子が勉強から逃げる」「どうしたら
いいか」という相談をもらいました。

それについて考えてみます。

++++++++++++++++++++++

【Fより、はやし浩司へ】

小学1年生の娘のことです。勉強に拒否反応を持ってしまいました。わからないことがあ
ると、考えようともせず、「わからない」と、その前に言います。パニックを起こすことも、
しばしばあります。

宿題をするときでも、まるで好きな数字を書いて、やってしまうような時があります。あ
れこれ教えてみるのですが、自分では、考えるようともしません。

娘は年齢よりも幼く見え、感情にむらがあり、失敗をすることを恐れているようにみえま
す。

娘のこともさることながら、それよりも私自身のことを悩んでいます。娘が、教えてとは
言うけど、<わからない>とバリアを自分で張ってしまいます。最後には怒りながら教え
ています。自己嫌悪におちいることもあります。そのことが、娘を、余計に勉強嫌いにさ
せているのかもしれません。

私には過去にうつ病の経験があり、不整脈で、脈がまだ乱れる事があります。原因は別と
して、私のせいで娘がこうなっている・・? 私自身が、プラス思考が出てきません。ど
うか助言をよろしくお願いします。

+++++++++++++++++++

まず、以前(03年)に書いた、原稿を
ここに添付します。

参考にしてください。

+++++++++++++++++++

●マイナスのストローク

 記録には、こうある。

 「A君。年中児。何を指示しても、『いや』『できない』と逃げてしまう。今日も、絵を
描かせようとしたが、もぞもぞと、何やらわけのわからない模様のようなものを描くだけ。
積み木遊びをしたが、A君だけ、作ろうともしない。一事が万事。先日は、歌を歌わせよ
うとしたが、『歌いたくない』と言って、やはり歌わなかった」(19XX年9月)と。

 このA君が印象に残っているのは、母親の視線が、ふつうではなかったこと。母親は、
一見おだやかな表情をしていたが、視線だけは、まるで心を射抜くように強かった。とき
にビリビリとそれを感じて、授業がやりにくかったこともある。

 こうしたケースで困るのは、まず母親にその自覚がないということ。「その自覚」という
のは、A君をそういう子どもにしたのは、母親自身であるという自覚のこと。つぎに、私
はそれを母親に説明しなければならないのだが、どこからどう説明してよいのか、その糸
口すらわからないということ。A君のケースでも、私と母親の間に、私は、あまりにも大
きな距離を覚えた。

 が、母親は、こちらのそういう気持など、まったくわからない。「どうしてうちの子は…
…?」と相談しつつ、私の説明をロクに聞こうともせず、返す刀で、子どもを叱る。「もっ
と、しっかりしなさい!」「あんな問題、どうしてできないの!」「お母さん、恥ずかしい
わ!」と。

 あのユング(精神科医)は、人間の自覚について、それを、意識と、無意識に区別した。
そしてその無意識を、さらに個人的無意識と、集合的無意識に区別した。個人的無意識と
いうのは、その個人の個人的な体験が、無意識下に入ったものをいう。フロイトが無意識
と言ったのは、この個人的無意識のことをいう。

 集合的無意識というのは、人間が、その原点としてもっている無意識のことをいう。そ
れについて論ずるは、ここでの目的ではないので、ここでは省略する。問題は、先の、個
人的無意識である。

 この個人的無意識は、ここにも書いたように、その個人の個人的な体験が、無意識の世
界に蓄積されてできる。思い出そうとすれば、思い出せる記憶、あるいは意図的に封印さ
れた記憶なども、それに含まれる。問題は、人間の行動の大半は、意識として意識される
意思によるものではなく、無意識からの命令によって左右されるということ。わかりやす
く言えば、この個人的無意識が、その個人を、裏から操る。これがこわい。

 A君(年中児)の例で考えてみよう。

 A君の母親は、強い学歴意識をもっていた。「幼児期から、しっかり教育すれば、子ども
は、東大だって入れるはず」という、迷信とも言えるべき信念さえもっていた。そのため、
いつも「子どもはこうあるべき」「子育てはこうあるべき」という、設計図をもっていた。
ある程度の設計図をもつことは、親として、しかたのないことかもしれない。しかしそれ
を子どもに、押しつけてはいけない。無理をすればするほど、その弊害は、そのまま子ど
もに現れる。

 一方、子どもの立場でみると、そうした母親の姿勢は、子どもの自我の発達を、阻害す
る。自我というのは、「私は私という輪郭(りんかく)」のこと。一般論として、乳幼児期
に、自我の発達が阻害されると、どこかナヨナヨとした、ハキのない子どもになる。何を
しても自信がもてず、逃げ腰になる。失敗を恐れ、いつも一歩、その手前で止めてしまう。
ここでいうA君が、まさに、そういう子どもだった。

 これについて、B・F・スキナーという学者は、「オペラント(自発的行動)」という言
葉を使って、つぎのような説明している。

 「条件づけには、(1)強化(きょうか)の原理と、(2)弱化(じゃくか)の原理があ
る」と。

 強化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動に、プラスのストローク(働
きかけ)が加わると、その人は、その行動を、さらに力強く繰りかえすようになるという
原理をいう。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、それを「じょうずだ」
と言ってほめたり、自慢したりすると、それがプラスのストロークとなって、子どもはま
すます歌を歌いたがるようになる。

 これに対して弱化の原理というのは、ある行動を人がしたとき、その行動にマイナスの
ストロークがかかると、その人は、その行動を繰りかえすのをやめてしまうようになると
いう原理をいう。あるいは繰りかえすのをためらうようになる。

 たとえば子どもが歌を歌ったとする。そのとき、まわりの人が、「こう歌いなさい」と言
って、けなしたり、笑ったりすると、それがマイナスのストロークになって、子どもは歌
を歌わなくなってしまう。

 A君のケースでは、母親の神経質な態度が、あらゆる面で、マイナスのストロークとな
って作用していた。そしてこうしたマイナスのストロークが、ここでいう個人的無意識の
世界に蓄積され、その無意識が、A君を裏から操っていた。親の愛情だけは、それなりに
たっぷりと受けているから、見た目には、おだやかな子どもだったが、A君が何かにつけ
て、逃げ腰になってしまったのは、そのためと考えられる。

 が、ここで最初の、問題にもどる。そのときのA君がA君のようであったのは、明らか
に母親が原因だった。それはわかる。が、私の立場で、どの程度まで、その責任を負わね
ばならないのかということ。与えられた時間と、委託された範囲の中で、精一杯の努力を
することは当然としても、しかしこうした問題では、母親の協力が不可欠である。その前
に、母親の理解がなければ、どうしようもない。

 そこで私はある日、意を決して、母親にこう話しかけた。

私「ご家庭では、もう少し、手綱(たすな)を、緩(ゆる)めたほうがいいですよ」
母「ゆるめるって……?」
私「簡単に言えば、もっとA君を前向きにほめるということです」
母「ちゃんと、ほめています」
私「そこなんですね。お母さんは、その一方で、A君に、ああしなさいとか、こうしなさ
いとか言っていませんか?」
母「言っていません。やりたいようにさせています」
私「はあ、そうですか……」と。

 実際のところ、問題意識のない母親に、問題を提起しても、ほとんど意味がない。たい
ていは、「うちでは、ふつうです」「幼稚園では、問題ありません」などと言って、私の言
葉を払いのけてしまう。さらに、何度かそういうことを言われたことがあるが、こう言う
母親さえいる。「あんたは、黙って、うちの子の勉強だけをみてくれればいいです」と。つ
まり「余計なことは言うな」と。
 
 ……と、書いて、私も気づいた。私にも、弱化の原理が働いている、と。問題のある子
どもの母親を前にすると、「母親に伝えなければ」という意思はあるのだが、別の心がそれ
にブレーキをかけてしまう。この仕事というのは、報われることより、裏切られることの
ほうが、はるかに多い。いやな思い出も多い。さんざん、不愉快な思いもした。そうした
記憶が、私を裏から操っている? 「質問があるまで、黙っていろ」「あえて問題を大きく
することもない」「言われたことだけをしていればいい」「余計なことをするな」と。

 「なるほど……」と、自分で感心したところで、この話は、ここまで。要するに、子ど
もは、常にプラスのストロークをかける。かけながら、つまりは強化の原理を利用して、
伸ばす。とくに乳幼児期はそうで、これは子育ての大原則ということになる。
(はやし浩司 ユング 集合的無意識 個人的無意識 弱化の原理 強化の原理 スキナ
ー オペラント 自発的行動 マイナスのストローク プラスのストローク はやし浩
司)

+++++++++++++++++++++

もちろんFさんが、ここに書いた母親のようで
あるというわけではありません。

しかしやる気というのも、言葉で、説教したり、
叱ったりするから、でてくるというようなもの
でもないようです。

最近の大脳生理学では、つぎのように説明して
います。内容が一部、ダブりますが、お許しく
ださい。

+++++++++++++++++++++

●プラスの強化

 「勉強したら、ほめられる」……これをプラスの強化という。一方、「勉強しなければ、
叱られる」……これをマイナスの強化という。どちらも、子どもに勉強させるという意味
では、効果的。しかし長い目で見ると、マイナスの強化を受けた子どもは、確実に、勉強
を嫌いになる。つまり学力は、さがる。

 子どもは、本来的に、自発的に行動する力をもっている。これをスキナーという学者は、
「オペラント」と名づけた。しかしその自発的行動の原動力になるものには、二種類ある。
それがここでいうプラスの強化と、マイナスの強化である。どちらがよいかは、もう改め
て説明するまでもない。

 プラスの強化をするための、一つの方法として、達成感を利用するというのがある。最
近の大脳生理学では、脳の中枢部の辺縁系にある、帯状回(たいじょうかい)という組織
が、どうやら、その「やる気」をコントロールするということまでわかってきた(伊藤正
男氏の「思考システム」)。

 達成感が満足されると、脳の中に、エンケファリン系やエンドロフィン系の麻薬様物質
が放出され、それがここちよい感覚を生みだすという。心理学では、こうした現象を、「好
子」という名前を使って説明している。

 そこで子どもの学力を伸ばすためには、いかにして、その達成感を覚えさせるかを、い
つも考えながらする。

 たとえばワークブックでも、子どもが懸命にやる様子を見せたら、多少、まちがってい
ても、それには目を閉じて、大きな丸をつけてやる。こうした大らかさが、子どもを伸ば
す。しかし中には、そうでない親もいる。

 「答が違っているのに、どうして丸をつけるのですか?」
 「ハネやハライが、メチャメチャです。しっかりみてください」
 「しっかりと、ワークブックを採点してください」と。

 毎年のように、そういう苦情を言ってくる親がいる。しかし私は、答に丸をつけるので
はなく、一生懸命したことに対して、丸をつける。だいたい、あのワークブックほど、い
いかげんなものはない。(無数の学習教材を作ってきた私がそう言うのだから、まちがいな
い。)「半分は、お絵かきになってもよい」と思うこと。こまごまとしたことを言って、子
どもを勉強嫌いにしたら、それこそ、元も子もない。

 もちろん正解であればほめる。しかしそれ以上に大切なのは、子どもにプラスの強化が
働いているかどうかということ。もしマイナスの強化を使わなければ、子どもが勉強しな
いというのであれば、あなたの家庭教育は、すでに失敗している。じたばたすればするほ
ど、逆効果。へたをすれば、底なしの悪循環の世界に入ってしまうかもしれない。じゅう
ぶん、注意されたし。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 帯状回 達成感 自発的行動 子供の心
理 はやし浩司)

++++++++++++++++++++

子どもの(やる気)について、だいたい、
おおまかなことは、これでわかっていただ
けたと思います。

もう1作、原稿を添付します。2年ほど前に
書いた原稿です。

++++++++++++++++++++

●親の意欲、子の意欲

 親の過剰期待は、子どもの意欲をつぶす。わかりやすく言えば、親の期待が大きければ
大きいほど、子どもは、やる気をなくす。

 一方、親自身が、意欲がないケースがある。生活自体がマンネリ化していて、毎日が、
惰性で流れていく。そういう家庭環境では、やる気のある子どもは、生まれない。

 言いかえると、この二つをうまくコントロールすれば、子どもはやる気のある子どもに
なるし、そうでなければ、そうでないということになる。いろいろな失敗例をあげてみる。

【「やればできはず」と、A君(中一)を責めた、母親】

 そのときA君は、50番中、30〜40番の成績をとっていた。しかしそれがA君には、
精一杯の成績だった。が、たまに、A君は、よい点を取った。たぶん、何かズルイ手をつ
かったのだろう。しかし母親には、それがわからなかった。だから、その点を基準に、「あ
なたは、ちゃんとやればできる。だから勉強しなさい」と、A君を叱った。

【サッカーを、やめさせた母親】

 B君(小五)の楽しみは、何といっても、サッカーだった。体は小柄だったが、その分、
小回りがきき、すばしっこい動きができた。が、小学五年になるころから、成績がさがり
始めた。母親は、B君を、近くの進学塾へ入れることにした。が、ここで問題が起きた。
塾の時間と、サッカークラブの練習日が重なってしまった。母親は、サッカーをやめさせ
ることにした。

【難解なワークブックを与えられたC子(小六)さん】

 母親はC子さんを、夏休み前に、X進学塾へ体験入塾させた。そしていきなり、テスト
と順位。成績は30人中、25番。この結果に、母親は驚いた。そしてC子さんを叱り、
その足で、近くの書店に。母親は、難解なワークブックを、どっさりと買った。最初のこ
ろは、C子さんも、一日2ページと決め、それなりにがんばったが、すぐオーバーヒート。

【こまかいミスを注意した母親】

 その母親は、こまかいことを気にした。漢字にしても、トメ、ハネ、ハライを、神経質
なまでに、子どもに守らせた。学校のテストでも、まちがったところは、すべてノートに
書き写させ、それを子どもにやらせた。計算問題でも、まちがえると、「どうして、こんな
簡単なのができないのか!」と、子どもを責めた。
 
 子どもとて、人間。こんな簡単なことさえわからない親は、多い。ではどうするか。

 ドイツのマクレランドという学者は、おもしろい実験をしている(「発達心理学」ナツメ
社)。

 母親の意欲の強さを、(1)最高意欲、(2)高意欲、(3)意欲普通、(4)低意欲の四
つに分け、その子どもたちの意欲の強さを調べたところ、(3)の普通意欲の母親の子ども
の意欲が、一番強かったというのだ。順に並べてみると、

(3)普通意欲→(4)低意欲→(2)高意欲→(1)最高意欲

 つまり親の意欲が強すぎると、子どもはやる気をかえってなくすということ。子どもに
向かって、「勉強しなさい」と、あれこれこまかい指示を出せば出すほど、逆効果だという
こと。むしろここでいう低意欲(子どものことは子どもに任すタイプ)の親のほうが、子
どものやる気を引き出すということもわかっている。

 しかし一方で、子どもにかまわず、外の世界に向かって伸びつづける親の子どもは、伸
びるということもわかっている。家庭の中に、緊張感が生まれ、その緊張感が、子どもの
意欲によい方に作用するからである。

 そんなわけで私は、昔、こんな格言を考えた。『親は外に向かって伸びる』と。子どもに、
自分の夢や希望を託すことは悪いことではない。しかし自分のできなかったこと、できな
いことを、子どもに求めてはいけない。親は親。子どもは子どもである。ある母親は、こ
う言った。「どうして、うちの子は、本を読まないのでしょうか?」と。

 そこで私が、「一番、よい方法は、あなたが毎週、図書館へ行って、本を読むことです。
子どもがついてくるというなら、連れていけばいい」と。それに答えて、その母親は、こ
う言った。「私は、もう終わりましたから」と。

 こういう身勝手さは、どんな親にもある。しかしその身勝手さが、子どものやる気をつ
ぶす。

 子どもに勉強させようと考えたら、命令や、おどしを使うのは、最後の最後。子どもの
やる気を、じょうずに育てることこそ、何よりも大切。わかりきったことなのだが……。
(はやし浩司 マクレランド 意欲 意欲論 子どものやる気 子供のやる気)

+++++++++++++++++++

そこで、どうするか?
方法は、いくつかあります。
コツは、オールマイティな
人間を求めないこと。

得意なことをさせて、少し
できたら、それをほめる。
達成感を大切にするのも、
その一つです。

以前、同じような相談をもらった
ことがあります。
参考になると思いますので、
ここに添付します。

+++++++++++++++++++

【E氏よりの相談】

甥っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこ
のところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。

とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がな
いくせに、やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。

やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身
が持っている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 

【はやし浩司より】

●消去法で

 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。

 バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる
気が起きない、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)
など。さらに回避性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集
団非行、非行)など。自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害
の前兆や、学校恐怖症の初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。

 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を
見せることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。
この時期だと、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハー
ハーあえぐ、など)。

 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうな
のか。あるいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一
日の中でも、変動はあるのかないのか。

こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつ
う心配なケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うは
ずです。たとえばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛も
あります。行動面では、たとえば収集癖や万引きなど。

さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすく
なります。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。

こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、
これではないか?」とです。

●教育と医療

 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したが
って、アドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが
診断名をくだすのは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書い
たことを参考に、自分で判断するしかありません。

 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方
が違うということです。

 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、
幼児期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、た
いへん不安定になります。

 「おとなに扱わねば怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というよ
うにです。

 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、
検査だけをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっ
ていても、知らないフリをして指導します。

 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。

 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。

 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある
部分(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生
まれます。

 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩
慢動作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象
や回避性障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進
行していきます。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことというこ
とで、私も、少し気楽に書いています。)

 ですから安易に考えないこと。

●二番底、三番底へ……

 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに
最悪の状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはして
いるようですが、そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならな
いと思いがちですが……。決して、そうではないということです。)

 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。
それが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。ど
こかに心の病気があるとみてよいでしょう。

 では、なおすために、どうしたらよいか?

 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。

●家庭にあり方を疑う……

 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として
機能しているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうど
うと、ふてぶてしく、体を休めているかどうかということです。

 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるよ
うであれば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否がありま
す。反省すべきは、親のほうです。

 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」と
いうのは、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三
番底へと、子どもを追いやってしまうから注意してください。

 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)
の悪循環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環
を繰りかえし、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。

 
「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような
行為と言ってもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、
この年齢でも、半年単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどとい
うことは、ありえません。

 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその
子どもを見ていませんので、何とも判断しかねます。

 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということ
です。子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離
れます。

 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思
いなおし、大目にみます。

 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MG
の多い食生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり
情緒が不安定になっていることも、考えられます。)

 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えま
せん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、
意味がないばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に
多いです。

 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。
あまり深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。

                             はやし浩司
(はやし浩司 子供の達成感 達成感 子供の心理)

+++++++++++++++++++++++

【はやし浩司からFさんへ】

 メールをよむかぎり、娘さん(J子さんとします)には、かなり強力な弱化の原理が働
いているように思います。どこかで、自信をつぶされてしまったわけです。それにややオ
ーバーヒート気味かもしれません。

 で、(やらない)→(できない)→(叱られる)→(ますますやらない)の悪循環に陥っ
ているものと、考えられます。

 小学1年という年齢を考えると、この部分についての、修復は、かなりむずかしいもの
と思われます。勉強を好きにさせるための、特効薬のようなものは、ないということです。
それこそ、1年単位の根気と、努力が必要ということになります。

 もし浜松市に住んでおられるなら、「私のBW教室へおいでなさい」と言うこともできる
のですが……。まず、勉強は楽しいもの、ということをわからせてあげます。

 この時期は、あまり「勉強」と構えないで、子どもといっしょに楽しむという姿勢を大
切にします。「半分できればよし」「30分、いっしょにすわって、5分、勉強らしきこと
ができれば、それでよし」とします。そういうおおらかさが、子どもの心に風穴をあけま
す。

 Fさん自身が、やや神経質ではないのかな? 完ぺき主義ではないのかな? ……という
ところまで、少し、考えてみてください。

 それともう一つ気になるのは、Fさん自身が、かなり古風な(勉強観)をもっておられる
のではないかということ。今は、時代も変わりました。恐らく、今、Fさんがもっている勉
強観というのは、あなたの両親から受け継いだものです。

 学歴信仰、学校神話、勉強は絶対……などなど。そういった古風な意識が、あなたをが
んじがらめにしています。これから先、そういったものと、一つずつ戦っていくしかあり
ませんね。

 で、どうすればよいか?

 学校の勉強も、3、4年前とくらべると、かなり楽になっています。10月に入って、
やっとくりあがりのある足し算を学習することになっています(小1・算数)。だからあま
り気負わないで、ここは少し肩の力を抜いて考えてみられては、どうでしょうか。

 J子さんに、何か、得意分野は、ありませんか。こういうケースでは、「不得意分野には
目をつぶり、得意分野を伸ばせ」が原則です。私が唱える、『一芸論』も、そういうところ
から生まれました。

+++++++++++++++++++++

一芸論についての原稿を
添付します。

+++++++++++++++++++++

●「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、
T君は、スケートで、それぞれ、自分を光らせていた。

中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつま
ずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういうときのため、……と
いうだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側面から支え
る。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなっ
てしまった。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、
一〇年後。ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほう
が先生より、お金を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失
敗する。Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。
そこで母親が、「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさ
んは水泳ですぐれた才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長し
た。S君(年長児)もそうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげ
ることを勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学
三年生のころには、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターする
までになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをや
めさせる」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成
績は、もっとさがる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいと
か、カードをたくさん集めているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。
「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味であ
る。

そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかけ
る。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関
しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは
絶対に人に負けない」という状態にする。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、
五歳ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするか
を静かに観察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらし
い才能が隠されていることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つで
ある。  
(はやし浩司 兄弟の確執 ライバル意識 一芸論)

【付録】

●長子は神経質?

 なお神経質な子どもに関して、こんな興味深いデータがある。東海大学医学部の逢坂文
夫氏らの調査によると、「一番上の子は、下の子よりも神経質」というのだ。

 東京都内の保育園に通う1000人の園児の母親について調べたところ、次のようなこ
とがわかったという。

 母親がわが子を神経質と認めた割合は、弟や妹をもつ長子についてがもっとも多く、4
2・7%。

これに比べて、一人っ子は、35・1%、第二子は23・7%、第三子以降は、15・
8%(母親の平均年齢は、32・6歳。園児の平均年齢は3・8歳)。「兄弟姉妹の下の
ほうになるほど、のんびり屋さんになるようだ」(中日新聞コメント)と。

 また「緊張しやすい」とされた長子の割合も、第二子の約1・5倍だったという。長子
ほど、心理的に不安定な傾向がうかがえる。これらの調査結果からわかることは、子ども
が神経質になるかどうかということは、生まれつきの性質による部分も無視できないが、
生まれてからの環境にもよる部分も大きいということである。
 

+++++++++++++++++++++

ついでに、「自己嫌悪」について。
Fさんが、自己嫌悪という言葉を
使っておられましたので……。

どうか、参考にしてください。

なおあなたの住んでおられる、
O町は、よく知っています。
メールをいただいて、
なつかしく思いました。
こういう形で、O町の方に
返事を書けることを、たいへん
うれしく思っています。

++++++++++++++++++++

●自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだと
か、嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住
む、Dさんからのものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につなが
る。青春期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反
復性があるものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配し
なくてもよい。が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せると
きは、かなり警戒したほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、な
いとは言えない。さらにその状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺というこ
とにもなりかねない。とくに、それが原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に
応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまなな心
理的葛藤を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかも
しれないが……)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心
理学では、「昇華」という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服し
ようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的にな
ったら、あるいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようにな
る。そして結果として、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。よくあ
るのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケース。
たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌わ
れる」などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身
を守るための、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自
己嫌悪(否定)から受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私
は自分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になる
ケースもある。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、
五、六時間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわか
り、別居、離婚の騒動になってしまった。Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これ
も裏目に出てしまった。それまで自分がつくってきた学習リズムが、大きく乱れてしまっ
た。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果は、よくなかった。夏休み明け
の模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果となってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔
和な表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめ
ているだけ。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、
「こんなことでは○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母
親には、その常識がなかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそ
れがますますBさんを、絶壁へと追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私
は、ダメだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなって
しまった。「高校へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをし
ればいい」と、私が言っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親
は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。
言いかえると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、
絶望感、不安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症によ
る症状そのものということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意
する。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそ
うと考えないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な
問題ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推
移する。ふつうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題につい
ては、(1)今の状態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態
が最悪ではなく、さらに二番底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いた
ように、(3)一年単位で様子をみる。「去年の今ごろと比べて……」というような考え
方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。
満たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、
みなはスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときであ
る。本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界
が加わり、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌
子(けんし)」(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に
陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一
様ではない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子
どもを前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二
年生という年齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見
えすいた励ましなどは、かえって逆効果となりやすい。たとえば学習面でつまずいている
子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなことをすればいいのよ」と言って
も、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得ら
れる家庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。
その度量の深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一
芸をもたせる)、環境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。で、これは最
悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行動を繰り
かえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに
身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児の
ころ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく
接したことなど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜
ぶというよりは、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神
奈川県のDさんがそうであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。え
てしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもを
なおそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がい
くらプラスのストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、
繰りかえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子ども
に、広く見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身
も、どこかで経験しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、
子どもには、こう言ってみるとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」
と。こうしたやさしい語りかけ(自己開示)が、子どもの心を開く。

++++++++++++++++

【再び、Fさんへ……】

 もっと子育てを楽しみなさい。今、あなたは、すべてのものをもっている。そのことに
まず、気がつきなさい。

 あなたの子どもを、友として、迎え入れなさい。あなたがもっている、古典的な親意識
など、捨ててしまえばよいのです。

 そして子どもといっしょに、人生を楽しむつもりで、子どもと接する。私も今、多くの
生徒を教えながら、いっしょに、楽しむようにしています。自分の人生を、です。

 カリカリと叱りながら教えていても、つまらないでしょう。だから楽しむのです。最後
の私の好きな原稿を、いくつか添付しておきます。今でも、これらの原稿を読むと、目頭
がジンと熱くなります。

 あなたも気が楽になるはずです。

+++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男
が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教
えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体
力がないため、落とされそうだから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子ど
もというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子
たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去
っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたとき
のこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわから
なかった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落
ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があ
ろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違う
と、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってく
ださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近
は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。
 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、
その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労し
ているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に
気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子
どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の
息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、
魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」
と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議で
ある。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あ
るいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なか
らずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 私の母は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っている。人というのは、
上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだとい
う意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではな
い。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにす
る。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことを
し、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、
その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から
見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたよ
うに、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘
れる)は、「得る・ため」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を
得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉
を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意
味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難
しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を
歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。

ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるご
とに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。
ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけ
ない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受ける
たびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親
子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけ
なければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親が
いた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたも
のです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂
だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親
は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃
れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、
脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。
そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる
親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人
生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、い
つもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は
手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はも
うこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り
道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真のび
を与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだ
ろうか。(*浜松A幼稚園理事長)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


【子育てワンポイント・アドバイス】

 
●質素を旨(むね)とする

 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素というのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをできるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どものイスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、ものを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。

●うしろ姿を押し売りしない

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、しかしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでやった」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どうして子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。

●死は厳粛に

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつかうようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれない」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。

●一喜一憂しない

 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多くの人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さあ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかということ。

●「今」を大切に

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しくない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのではない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づけば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だから、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえすが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。

●『休息を求めて疲れる』

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「いつか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」ということ。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がついた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはたしてしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間をあとにずらせばよい。

●生きる源流を大切に

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができた。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きているだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパイプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみるとよい。それですべての問題は解決する。

●モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のころは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめたほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育てで、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからといって、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)

●よき友になる

 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いったい何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」という、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸びやか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつくる。

●先輩をもつ

 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談してみたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。

●子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくしたらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることがある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習させると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見ながら、勉強するということは、それなりに重要である。

●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あまり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのですよ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわよ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこである日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きながら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。

●友を責めるな(中日新聞発表済み)

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうするだろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こういうことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちというのは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立たされる。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふかしすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむける。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子どもの性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモアがあっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよけいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、と思わせるような、名格言である。

●仕事に誇りを

 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたのお父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんしか、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けなしてはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言っていた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをその母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さんは、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になるのか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになることは、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

++++++++++++++++++++++
これに関連して、中日新聞掲載記事から
++++++++++++++++++++++

●未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたものの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱っても意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえり、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中から取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんでチョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあいも、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られるぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、おとなになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子どもは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここでいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「うちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言った。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしているので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子どもが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎても、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがその逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。

たいていは自分の部屋であったりするが、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪のばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子どもが逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはならない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所として大切にする。

●守護霊にならない

 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。たとえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりするなど。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たちにも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自立させる。

●同居は、出産前に

ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査をしてみた。結果わかったことは、(1)子どもの教育に口を出さない、(2)健康であることがわかった。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居したほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくある。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)があきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「おばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみれば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろんそうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●許して忘れる

 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われるようになった。うれしいことだ。

++++++++++++++++++++++
もう、10年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
++++++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づき、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りをしていて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載っていた話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さらに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

代償的愛(雑誌「ファミリス」に書いた原稿から転載)

●三種類の愛

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じように考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだけ。

●子どもは許して忘れる

三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識したとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛するようになる。
(はやし浩司 代償的愛 許して忘れる 許して忘れろ 許して、忘れる)

Hiroshi Hayashi++++++++++Nov. 05+++++++++++++はやし浩司

●管理・規則は家庭教育の敵

 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つまり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がいる。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限について。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切なのは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもある。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題なのは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そうなれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちていく。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買ったものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

+++++++++++++++++++++++++
これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび

 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、そのよい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつながっている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツなのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書いている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというのは、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざしている。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民らしく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。それとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二%
 就職                ……三四%
 専門学校              ……二八%
 大学・短大             ……二二%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……三三%
 目的追求型             ……二三%
 自由志向型             ……一五%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」ことを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すらいる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではない。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。いつまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。
 


子どもの依存性

●依存性の強い子ども

+++++++++++++++++++++++

 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、
相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワ
ンテンポ遅く、心配である」と。転載の許可が
もらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親の
EAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談
者の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の
母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしている。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないということがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしない。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおしゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。といった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のため。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのばあい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あなたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたりする。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうちに、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というのは、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあちゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖している。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育ては、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎えることすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきたが……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立ということになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益になることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるようになる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこの子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイプの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけで育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとりでは何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れないなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そしてその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけで、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくなる。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にしているかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されることになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずにだが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分でさせるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるにしても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえて言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがたいへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにならない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがある。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではない。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子どももいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、ことさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれは子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居というところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マイナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スムーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもいい」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうというのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかかえる、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるいは、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よいのではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになっています」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えていく。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということになる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子どもどうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるのも、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであることが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるいは、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをいいます。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期から、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょっとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしない。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもしれません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまっていると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくることが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキがない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しながら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかしメリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけないことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うようにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになったわね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感があれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでたっても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであれば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。
(はやし浩司 子供の依存性 依存性の強い子供 甘えん坊 子どもの依存 親に依存する子供 子供の自立 はやし浩司 子どもの自立 自立心 子供を自立させる)


【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいということではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくらでもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独特の幼児ぽい動作や言動。
(2)無責任で無秩序な行動や言動。
(3)しまりのない生活態度。
(4)自己管理能力の欠落。
(5)現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしまう。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ども」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1)まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2)親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3)『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

++++++++++++++++++

(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。しかしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断りたいほど、本当にあった話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、○○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげたものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここでいう代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛をいう。たいていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、子どもを利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのため、子どもを、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろいろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。息子は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んでいることを、Aさんは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンしてしまった。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原因ははげしい受験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男にも、受験期を迎えたが、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになったから、あんたはがんばるのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟二人は、夫の実家に身を寄せ、そこから、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息子から預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議すると、Cさんはこう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」と。Cさんは、息子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りました。私の長男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もって帰ったほどです。いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたるまで、1円も返してくれません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、Dさんは、長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてしまった。Dさんはいつも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされる」と。たいした財産があったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけである。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカラ論は、ものの本質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめることになる。「実家の親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならないと思うだけで、気が重くなる」などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返している家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺してやる!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅すら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫は学歴がなくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とかいい大学へ入ってもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人ですら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した人だと、過去の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。何に依存するかはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子どもの依存性をみているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残っている子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の前でただ立っているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」という意味そのものがわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、しまうように指示したのだが、そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、そうすれば、家族のみながD君を助けてくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の汗。そういうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、D君がうまく片づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、その日にかぎって、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、教室へ飛び込んできて、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいことに気づく。D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。そういうD君でも、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、「うちの子は、生まれつきそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そこでさらに観察してみると、親自身が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身の生き方の基本になっていることがわかる。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子どもの依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそういう相互作用が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題にしても、意味がない。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考えてよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それはそうで、こうした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥にもぐる。外からは見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいることが多い。しかしやがて老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通するのは、結局は、「自立できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓着すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐阜県の地方には、まだそういう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベタの親子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価し、子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれかが親の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを許さない。「親の悪口を言う人は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子どもの関係ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、親を必要以上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗っていて発見した。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイに乗った。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、五歳くらいの男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは背中合わせに、会話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに聞こえてきたのだ。)その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイチイモノ(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言うこと聞いてくれたら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はその会話を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいがっているように見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつかいというか、もっと言えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思いをさせるのが、祖母としての努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすることで、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考えている人は多い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人は多い。しかし安易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的に子どもの心をつかむことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた子どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつぎつぎとあなたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なことだが、それがいつか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そしてそれまでにつくりあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイクぐらい、買ってよこせ!」「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメなの!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』という格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい思い出を一緒につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れない。それはさておき、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつかいすることにより、子どもを釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかということ。また周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかということ。ここの日本型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習性(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、あるいはそれ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会から切り離してきた。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地位は高かったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に口を出すなどということは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そのものが分離されていた。日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸なことに、そういう時代を清算することもなく、現代にまで引きずっている。まさに『利家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものがひとつある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだと誤解している。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、こう言った。「私は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をいい子にすることができるのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子になります」と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、皮肉なことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生まれる。が、なぜか、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親はこう言った。「子どもを使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子どもを使うことが、かわいそうというのだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、それは言うまでもなく、「子どもを人間として認めていない」ことによる。私の考え方は、どこか矛盾しているかのように見えるかもしれないが、その前に、こんなことを話しておきたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイドとして、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そして3つ目は、友として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の強い国民で、たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、女が下、夫が上、妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関係をつくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識には、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。これは子どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親風を吹かすのはよくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向かって何だ!」と怒鳴り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。先日もある雑誌に、「父親というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父親」と書いていた教育家がいた。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、とんでもない考え方ということになるに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだから」という「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、あるいは「親は〜〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固定化してはいけない。固定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのばあい、その人間関係をも破壊する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめることになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということは、一見矛盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」ということと、「子どもを使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日本では、子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせることだと思っている人が多い。そうであるなら、なおさら、矛盾しているように見える。しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」という視点に立つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあなたは、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった一度しかない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろんそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めてはいけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものもの。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている姿を見たら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするなら、あなたはよほど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親ということになる。同じように、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。仮にそれが美徳に見えるとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日本という、極東の島国の中で、そう思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立させるということは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つなら、子どもに社会性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということだということがわかってくる。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子どもを奴隷のように使えということでは、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立できない親ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状態を疑った。ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であれ、ふつうではない。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話は聞いたことがある。そういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点では、母親の心の奥で、嫉妬がからんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しかしそれはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係である。それだけに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決する問題ではない。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟が必要である。あるいは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。その娘にしてみれば、母親からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子どもには返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。しかしそれを言われた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん反論できない。そういう子どもが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後まで言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしている。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、ここまでゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)がはっきりしていて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02−9−14)※

++++++++++++++++

(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、一貫性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

++++++++++++++++++++++

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これを第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、友だちとの世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用していく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人がいる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どうして子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

++++++++++++++++++++++

(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦関係が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。これを親子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あのお父さんのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子どもは、母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独立したものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊害になってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立そのものが、できなくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子どもは、その家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親戚の伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その男性を、ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、父の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた母を、私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩んでいたことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめることはできない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しかしどんな問題であるにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、苦しんだり、悩んだりするようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、無意識にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることがある。独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」という。そういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とした。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみしいもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」と言う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろんその母親は、それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、とらえる。自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いをもつ人はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、過保護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考えてみたい。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。英語教室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができる子どもイコール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという価値観を身につけてしまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっくりそのまま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題にはならない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力がどんどんと落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。塾はもちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようになってしまった。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能力に欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をなくすと、おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかりやすく言うと、自分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている(ボーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにすること。足並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化をおし進める。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たがいに高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つようにする。この一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみるとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼児性の持続」は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どうか、この点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)





子どもの神経症・チェック・シート

診断シート(改良)

img061





教育(2)
教育(2)
教育(3)
教育(3)
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送