無私の愛
●誠司
孫の誠司は、どう見ても、日本人の私たちの顔とはちがう。私もワイフも、そう思っている。BWの子どもたちですら、「英語人(外人)みたい」という。
しかし顔というのは、不思議なものだ。
同じ誠司だが、嫁のデニーズの両親たちは、そうは思っていない。「誠司は、アジア人の顔だ」という。デニーズが両親に聞いたとき、両親は、そう言ったという。「半分、宗市にそっくりだ」(日記)と。
つまり日本人の私たちから見れば、外人の顔。しかしアメリカ人の両親から見れば、アジア人の顔ということになる。
そういう意味では、顔というのは、不思議なものだ。どこまでも相対的なもの。それもそのはず。私たちは、見慣れた自分たちの顔を基準にして、相手の顔を判断する。
で、このところ、何かに疲れたようなとき、私は、どういうわけか、ひとりで宗市のHPを開き、誠司の顔をぼんやりと、見ている。だれにでもそうなのだろうが、孫の顔には、不思議な力がある。人の心をいやす力といってもよい。
そうして、しばらく見入っていると、心がなごんでくる。「つぎの新しい時代が始まったのだな」という思い。そしてその思いが、死への恐怖をやわらげ、不安や孤独から自分を解放してくれる。
少しおおげさな言い方になるかもしれないが、地球という乗り物に定員があるなら、いつか私たちは、その席を、つぎの世代にゆずらねばならない。誠司を見ていると、すなおな気持ちで、その席を、つぎの世代にゆずれるような気分になってくる。
もっとも、私のマガジンを読んでくれている人は、大半が、若い父親や母親。(私の年齢で、ここまでインターネットに没頭している人は少ないし……。)だから孫の話など、ずっと先の話に聞こえるかもしれない。
しかしそんなあなたにも、両親がいて、ひょっとしたら、今の私のように、あなたの子どもを見ているかもしれない。
アメリカに住んでいるということもある。言葉も、通じない。いつかこの文章を誠司が読めるようになるということも、ありえない。もうあきらめた。それに当然のことながら、私と誠司の人間関係は、希薄。たがいの思い出はほとんどない。私にとってはともかくも、誠司には、ない。キズナをつくるための、貴重な数年は、もう過ぎてしまった。
仮に私やワイフが死んでも、誠司には、何ともないだろう。遠く離れた、見知らぬ土地の異邦人。少なくとも誠司には、私たちはそういう存在である。
が、だからといって、それについて不満に思っているわけではない。ゆいいつ重要なことは、息子夫婦や誠司が、それぞれの道で幸福になること。彼らが自分でつかむ幸福には、私たち夫婦は、関係ない。どのような形であれ、彼らが幸福になれば、それでよい。
そこで今、私は、新しいことに気づいた。
よく無償の愛とか、無条件の愛とかいう。しかしそういう言い方そのものが、おかしい。それに気づいた。そんなことは当然のことであって、無償であるとか、無条件であるとか、そんな言葉を使うことすら、おかしい。
こうした言葉、つまり「無償」とか、「無条件」という言葉を使う人は、そうでないことに抵抗感を覚える人が、あえて自分の気持ちを打ち消すために使うのではないか。いちいちそんなことを考えていたら、かえって気が滅入ってしまう。めんどうだし、わずらわしい。
孫の顔を見て、心がやすらぐなら、すなおにやすらげばよい。何も考えず。何も求めず。あえて言うなら、無私の愛ということか。私にとって、孫というのは、そういう存在。
つい先ほども、孫の誠司の顔をみながら、心を休めた。今日も、いろいろあった。疲れた。では、みなさん、おやすみなさい。
(05年2月記)
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