田丸先生からの原稿

(05年10月26日編集)

太陽エネルギーを用いる水からの水素製造

堂免一成  田丸謙二

化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生などによる地球環境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題は、放っておけばいつか解決するという類のものではない。我々の生活に直結しており、我々自身で積極的に取りくんでいかねば決して解決しない問題である。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギーを消費する事によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担っている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続ける事は地球環境を破壊する危険性が高い。

  もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネルギーを何億年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれの住みやすい地球環境が形成されてきたはずである。我々はそのような地球が気の遠くなるような時間をかけてしまいこんできたエネルギーを「かってに」掘り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使い切ってしまおうとしている。したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるいは地球史上極めて特異な浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえのない資源を使い切ってしまいつつある時代に生きる我々は、それについて微塵も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっては地球環境を破壊しない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重大な義務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。なかでも太陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配のない半永久的でクリーンな理想的なエネルギー源であろう。

  太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は太陽熱を利用した温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る方法も既に実用化している。しかし、これですぐにエネルギー問題が解決するわけでない事は誰でも実感している事であろう。

ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素からヘリウムを合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に放出している。その中の約百億分の一のエネルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 x 1024 J/年)が地上や海面に到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネルギーは約3.0 x 1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちなみにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料などの化学エネルギーに変換されている。また、地球上にこれまで蓄えられた石油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし地球上に降り注ぐ太陽エネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように考えれば太陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわかる。

では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太陽光が地球全体に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光から文明活動を維持するための十分なエネルギーを取り出すためには数十万km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギーの変換方法を開発しなければならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほんの数%程度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。その様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水分解による水素製造である。もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば人類は太陽エネルギーを一次エネルギー源とする真にクリーンで再生可能なエネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性は、最近の燃料電池の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは間違いない。しかしながら現在用いられている水素は化石資源(石油や天然ガス)の改質によって得られるものがほとんどである。これは水素生成時に二酸化炭素を発生するのみでなく、明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題の本質的な解決にはならない。

もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量子収率30%で、1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国の標準的な日照条件下1km2当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素が発生する。この時の太陽エネルギー全体の中で水素発生に用いられる変換効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業的にメタンから水素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標が達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が実用化に向けた開発研究の段階に移行すると考えられる。

現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固体光触媒を用いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行われているが、以下、不均一系光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解する為に必要な熱力学的条件は、光触媒として用いる半導体あるいは絶縁体の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-の二つの酸化還元電位をはさむような状況にあればよい。個々の電子のエネルギーに換算すると、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すればよい。また、光のエネルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の領域である。つまり、全ての可視光領域(400nm 〜 800nm)の光が原理的には水分解反応に利用できる。ただしこれらの条件はあくまで熱力学的な平衡の議論から導かれるものであるから、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性化エネルギー(電気化学的な言葉でいえば過電圧)を考慮する必要があるので、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で600nm程度)が現実的には必要であろう。

固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世界に先駆けて我が国で初めて報告され、本多―藤嶋効果と呼ばれている。この実験では二酸化チタン(ルチル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用いて水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を通して白金電極に導き水素イオンを還元し水素を発生させた。このような水の光分解の研究は、その後粒径がミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用いた研究に発展した。微粒子光触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活する前に表面あるいは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがあるため、多くの新しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分解反応は50%を超える量子収率で実現できる。

しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域に広がる幅広い分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネルギー分布がない。つまり太陽光を用いて水を分解するためには可視光領域の光を十分に利用できる光触媒を開発することが必要である。しかしながら、これまでに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外光領域の光あるいはほんの少しの可視光領域で働くものである。

  最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d0型の遷移金属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオンをもつ材料群である。例えばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなものであり、オキシサルファイド、ナイトライド、オキシナイトライドと呼ばれる物質群である。これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャルエネルギーを持ったS3p軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤や還元剤の存在下では水素や酸素を安定に生成することが確認されており、これまで見出されていなかった、600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定な物質群であることがわかってきた。したがって、このような物質の調製法の開発および類似化合物の探索によって、太陽光を用いる水からの水素生成が、近い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で安定な光触媒を広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の水素を得るのも夢ではない。 このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可能となれば、21世紀の人類が直面する大きな課題であるエネルギー問題と環境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性がある。




2003年8月28日
大学入試検討小委員会 御中;

高校以下の教育に対する大学入試問題の影響の大きさは今更言うまでもありません。 大学入試問題の改善について熱心に且つ真面目に取り組んで居られる皆様方に心から感謝しております。

つきましては今度新しく始まった「ゆとり教育」を学んだ生徒たちのための入試を考える時期になってまいりましたが,「ゆとり教育」の本質として,とかく知識量の削減が主な改革内容になっているかのように言われますが,矢張り一番大事なことは自ら学び,基礎をしっかり身につけてそれを基に自ら探求的に考えることではないかと思います。 

その意味で,今度新しく始まる大学の入試制度の検討に際し,その本質的な改善点を如何に生かすかということの検討が現在極めて大事なことと思われます。 その点についてはアメリカのSATやその出題方針が参考になると思えます。 何もアメリカの真似をする必要もありませんが,現在日本の教育自体大きな曲がり角に差し掛かっている時だけに現在の慎重な舵取りが大変に重要だと思えるわけです。

その意味で,入試検討委員会でも何か前向きに行動していただければ有り難いことと思う次第です。 これからの教育はどうあるべきか,そして,その学力評価としての入試は如何にあるべきか,現在ほどそのきびしい検討が求められる時はなかったのではないかと思います。 矢張り時代を先取りして,これからの社会の真に求める人材を如何にして創り,育てるか,貴委員会で基本に帰って検討して頂き、わが国の教育を間違いない方向に改革されるよう努力して頂きたく,切にお願い申し上げます。 

この種の問題は或いは入試検討委員会だけでできる範囲を越えているかも知れませんが,現在入試制度を皆が検討を始める時だけに,率先して旗を振っていただければと感じております。 各大学におきましても、その意味での入試や教育の改善に向けてこの機会に前向きに取り組んでもらうよう呼びかけるのも一案ではないかと思う次第です。 よろしくお願い申し上げます。

此処に同封申し上げる拙文は貴委員会だけでご参考にして頂ければよろしいのですが,ご検討の上,よろしければ,その取り扱いは適当にお任せ申し上げます。 釈迦に説法で、大変に差し出がましいことを申し上げますが、非常に大事な時だけによろしく御判断いただきますようお願い申し上げます。






これからの理科教育と入学試験 
田丸謙二

初めに:1995年には世界で電子メールやインターネットを使っていた人は約1600万人であったという。2002年の初めまでにその数は4億人になり、2005年までには、約10億人に達すると予測されている。今や世界の情報化のネットワークは、民族や国家を越えて、個人同士で話し合い、新しい情報や知恵が即刻交流するようになって来た。この新しい文明の到来は人類の歴史始まって以来の出来事である。これからは時代の動きが更に加速され、これまでの知識や技術は新たなものへと置き換わり、世界が「ますます速く回転をする知恵の時代」へと大きく変貌しつつある。このような変革の時代に適応し、時代をリードできるのは、現在わが国で育てている「横並びのもの知り」ではなくて、時代を先取りして、自分の頭で個性的に考え、ダイナミックに正しい判断が出来る創造性豊かな英知を持つた人材である。従って現在この新しい変革に適応するために必要なことは「現在の教育」の改革であることは明らかである。今の若い人たちの教育こそがこれから更に大きく変革する二、三十年先の世界でのわが国の運命を決めることになるからである。  

新しい知恵の時代に備えての教育:それでは、これからの「知恵の時代」に適応できる人材を創るための「現在の教育」はどうしたらよいのだろうか。そのためには、現在わが国で広く行なわれている「知識偏重の学びて思わざる教育」を切り替えて英知を育てることである。若い人たちに、自分の頭を使って創造性豊かに考え、判断する訓練を通して、その個性的な能力を引き出すことである。私はその線に則って、前にその具体策について論じてみた1。各個人の持つ個性ある知恵を育てる(educeする)エデユケイションが求められるからである。

例えば、生徒たちが学校でする実験や観察にしても、多くの場合それまでに学んだことを単に追試し、確かめるようなことがなされて来た。しかし、それだけでなく、ヒントを与えてでも、生徒たちに調べると面白い課題を自分で考え出させ、新しい実験を組立て、実行する経験をさせることである。身の回りの題材についてでも、最初から自分で企画し、判断し,探求的に頭を使う練習をすることである。実験は手を使うだけでなく、頭を使うのである。この種の実験を通して、知恵が育ち,理科が面白くもなっても来る。また教室では、現在広く行なわれている「解かったか、覚えて置け」式の一方的に教え込むこと(この方法は限られた時間に沢山の知識を教えることが出来、しかも現在の知識偏重の入試対策には適しているが)は避けて,常に「何故」なのか,こういう場合はどうすればいいのか,基本に返って考えさせることである。解からないことをどのようにして解明することができるかを探求的に考えるのである。そして生徒と先生の間の密接なやり取りを通して,一緒に考え、興味ある質問を引き出させ,新しい問題を考えさせることでもある。一を聞いて一を知るだけではなく、「十」を知れるような基本になる「一」を身につけ,それを更に広く発展的に考える知恵を身につけることである。先ず成る程、と基本的な内容を納得させて、それを基本にして考えを広げ、応用するようにする。必ず理科の面白さが解かって来るはずである。その例として、触媒作用や、蒸気圧降下、浸透圧などについての教え方について既に具体的に提案をしてみてある2。但し、このような考える授業をすることができる教師や、また本当に実行するだけのチャレンジングな人たちがどれだけ居るだろうか。その点で、入試がどのように変わるかにも大きく依存もする事になる。

米国の理科教育改革と大学入試:米国では、従来の理科教育を大幅に改革して、これまでの「理科的知識」よりも、むしろ「理科的な考え方」を重視するように努めるようにしている3。正にこれからの「回転の速い知恵の時代」を先取りして、来るべき将来に備えているのである。新しい教育にはそれに適応した新しい「実力評価」としての試験の方式が求められる。参考までにわが国のセンター試験に相当する試験(SAT)の化学での出題方式を見てみると、別表にあるように、先ず、試験で求めるのは思考力のテストであり、知識は基本的な事柄だけに絞り、それを基にどれだけ発展的に考える能力があるかを見るのである4。

わが国では入試問題ついての議論はされるが、現実にはとかくすると、簡単な暗記問題では受験生の差がつかないので、「差をつけるために」つい末梢的な暗記問題を出したりすることが少なくない。基本的な事柄とは全く遠く離れた暗記問題になる事さえある。受験生の考えるレベルを調べるには、当然のことだが、先ず出題者たちが頭を使わなければいけないし、それだけの知恵を持つことがまず不可欠である。確かに教師たちにとって知識だけを教える教育の方が楽であるし,試験の出題者にとっても知識の量を調べる方が簡単にできる。しかしそんなことを言っておれないほど深刻な現状が差し迫っている。  
   
「生徒の学力を評価する」には、教育とは本来何を求めるものであるかの正しい基本に則ってなされなければいけない。日本流の「知識を教え込む教育」と、欧米の「教育とは各自が持つ個性的な考え方をeduce(引き出す)するものである」とするのとの基本的な違いがある。江崎玲於奈氏も書いて居られる:「持って生まれた天分を重視して、一人一人の人間の個性や才能を伸ばそうとする社会と、一方努力による積み重ねを重視して、学生が獲得した知識の量を評価の対象とする社会との違いでもある訳である。一般的に日本の若者は、「こうやれ」と言われるとよく出来る。しかし、自分から何かを(自分で考え判断し)、発見することは苦手である。それに挑戦する精神も乏しい。日本の学問は、ものを習う"習得型"で何か新しいことに挑戦する"探求型"が不足している。というより、"探究心"の教育を受けていないといっていい。知識量がものをいう大学入学試験も、その一つの表れである」、と5。つまり現状では、これからの早い変化を後から追いかけることはあっても,時代をリードできることは難しいことになる。要するに,外国文明を長年輸入してきた歴史から,「学ぶ」ことは「マネブ」(真似ぶ)ということで、知識量のみで学力を見る伝統が未だに強く残っている。福井謙一先生も言われていたように、若者の芽を摘んでいるのが現在の日本の入試制度であり、教育でもある。正に時代の流れに逆行しているのである。その意味で試験の内容は出題者の知恵のレベルをはっきりと示すだけでなく、その社会が期待する教育自体のレベルを示すことにもなる。私は前にも書いたようにある新設大学の入試に高校の教科書を持参させ、記述式で答える入試を行い、知識偏重の○×式などよりも格段に優れていることを体験した6。教科書持参だと、これを覚えているか式の問題は姿を消し、こういう場合はどうすればいいのか、これは何故かなど、考える問題になるからである。何も形の上で教科書持参にしなくても、内容的にその線で行なえばよろしいわけである。(センター試験と組み合わせるのも一法である)。アメリカのある有名私立大学の入試では それでも、SATなどよりもむしろcreativity とleadershipを重く見るという。社会の中で何を求めるかの見方が余りにも異なっている。 

最近大学によっては入試オフィス、を設ける大学も増えてきたが、単に受験生集めのためではなしに、これからの教育、選別方法など根本的に再検討の時期である。殊に今度遅まきながら、漸くアメリカの真似をして「ゆとり教育」が始まって、教える量を減らして,基礎をしっかりと身につけさせるということになった。しかし,その「基礎」にしても,前述のように,ただそれを覚えればよいことではない。それを基礎として生かして如何に発展的に考えることができるか,その使い方が身につかなければ,何も基礎の役をしないことになる。「ゆとり教育」では、単に知識の量よりも、問題意識をもって探求的に自分で考えるようにするように、と言うことになったが、そのような教育の基盤がこれまで余りに乏しかっただけに現場の教師たちは戸惑いがちになる。新しい教育には新しい入試制度が求められるし、またそれを現在これから決めていくことにもなっている。その結果としてどんな入試になるのか、それに備えてどんな教育を今からしたらよいのか、入試が決まらないうちには、現在手をつけつつある「ゆとり教育」自身も、戸惑うことが少なくない。やはりこれからあるべき教育と入試とが一体になって、あるべきものを自信を持って取り組み、現在直面している一つの大きな転換期を立派に乗り切らなければいけない大切な時期である。入試が改善されなければ、教育自体も変わりようがない。新しい入試方式にしてもアメリカのSATもその意味では大変にいい参考になるはずである。    

終わりに:以上知恵を育てる時代の必然的な到来とその対応について述べて来た。その趣旨とするところは今から十数年前に、私が大学入試問題改善を叫びながら書いた駄文「高校の化学をつまらなくする方法」の延長線に沿ったものである7。ただ当時の一般的な問題意識に較べれば、現在は当時とは比べものにならないほど格段にその問題が深刻になっている。日本であの頃から「知恵を育てる教育」を始めていたならば、大体アメリカが新しい探求的な教育を始めたのと同じ頃でもあったし、今更アメリカの真似をすることもなかったはずである。しかし、本当は私が前に書いたように1、外国の真似などよりも、時代を先取りして、日本の風土に合った、わが国固有の「英知を育てる新しい優れた教育」が生まれなければいけないのである。これから十何年かして、あの頃に改革していたなら、など今回に似た愚痴を再び聞くことのないよう、日本の明るい将来を夢見ながら実りある「人創り」を期待したい。

参考文献:

1 知恵を育てるエデュケイションを、田丸謙二、化学と教育、50, 61 (2002):
  21世紀の理科教育,田丸謙二、化学と工業,54,885 (2001)

2 高校化学での「触媒」の教え方について,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 高校化学での浸透圧の教え方について、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)

3 National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .

4 (How to prepare for the SAT II (chemistry),(2002) p.XI)
(SAT is a registered trademark of this College Entrance Examination Board, which was not involved in the production of and does not endorse this book)

5.創造力の育て方・鍛え方,江崎玲於奈著(講談社);「アメリカでの教育の目的は英知と判断力を磨き,自主、独立した個人を育て、よりよい人生を送るための自信と自制を備える所に置かれます」: 《参照:アメリカの孫と日本の孫、田丸謙二,大山秀子,化学と工業、52、1149(1999)

6新しい大学入試方式の模索,田丸謙二,化学と教育,44,,456 (1995): 理
科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試、木下実,同誌、45 ,146 (1997)

7 高校の化学をつまらなくする方法、田丸謙二,化学と教育,38、712(1990)

 Thinking Skills Tested

1 基本的概念、特定の情報、基礎述語を尋ねる(最低のレベル)
2 基礎的事項の理解力とその情報を比較的直接的に、質問や問
題に応用することができ、質問に関連した問題を定性的、ま
たは定量的に解決を与える能力を示させる(中程度のレベル)
3 ある情報やそれに関する問題を解析して、学んだ知識を動員
して、問題を解いたり,結論を引き出すためには、どんなアイデ
ィアまたは関連事項を如何に用いるべきかを判断する能力を
テストする(高いレベルの能力)
以上の三つの項目の大体の割合は 1: 20%. 2: 45%、3: 35% 




これからの理科教育

   
   田丸謙二
          
はじめに: わが国の歴史をふり返って見るとわかるが,わが国は大昔からいろいろの知恵を海外から取り入れて学んできている。水田稲作をはじめ、漢字、漢文、儒教、仏教などが外国から伝わって来て、さらに明治の時代になってからは、殊にヨーロッパの近代科学や技術のみならず、法律、学芸等が怒涛のごとく輸入されて来ている。自分で創った原体験が極めて乏しい歴史である。その挙句,たとえば,日本語で「学問をする」ことをマナブと言うし,マネブとも言う,真似をすることが学問の本質とされて来たわけである。したがってわが国での教育はおのずから知識を取り入れることが最重視され、その傾向は現在も強く支配的に残っている。学問は創るものではなくてマネブものなのである。高校以下の学校での授業もおのずから「解ったか、覚えておけ」の一方的な「教え込み方式」になっていることが多い。これは限られた時間内にたくさんの事を教えるにはよい方法であるし、記憶偏重の入学試験に備えるためにも、それが最も効率のよい教え方でもある。入試に備える教え方として、変えるに変えられない仕組みにもなっている。しかし、そこには自分の個性的な考え方を育てたり,自分の頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練はほとんどない。自分の言葉で話し、debateすることもないし、議論を通して学ぶ機会もない。このような「外からマネブだけの教育」の中で育って来ると、大学に来ても、講義を受けて質問は少ないし,社会に出たり,殊に大学院に進学しても、それまで自分で判断したこともないだけに、自分で考え出し、独創性を生むことは容易でない。要するに自立できてないのである。ロンドン大学の名誉教授の森嶋先生の言葉を引いてみる。{現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる}(1) 

これからの急激に変革する時代と教育:現在の若い人たちは二、三十年先に社会を中心的に背負って立つ人たちである。その人たちのための現在の教育は、将来どのような人材が求められるか、によって決められるべきものである。これからは情報化,国際化が加速度的に進み,企業の技術の回転も迅速に新しいものに置き換わる激動の時代になる。その時代に適応し、さらにそれをリードできるのは単なる「物知り」ではなく,自分で考える基本をしっかりと身につけて、変化に適応でき,優れた判断が出来る人材である。コンピュータが出来ることしかできない横並びの人材は必要がなくなってしまう。その反面,コンピュータが出来ないことが出来る知恵のある人材が求められることになる。これからはますます「回転の速い知恵の時代」がやって来る。

  このような時代の激しい流れに応じて、アメリカなどでも、これまでの知識重視の教育を止めて、自分の頭で考える訓練を始めている(2)。理科の教育も、これまでの鯨の種類を覚えさせたりしていたのを止めて、"science inquiry"と称し,知識よりも物事を探求的、論理的に考える「考え方」を教育の基本と考えるようになって来た。つまり「理科的知識を教える理科」から「歴史や社会など、全ての科目の基本になる科学的,論理的な考え方を学ぶ理科」への転換である。わが国でも遅まきながらアメリカ方式を真似て「ゆとり教育」が始められたが、「自ら探求的に考えさせる教育を」と言っても、これまで歴史的にもそのような原体験や教育が極端に乏しかった風土に育って来ただけに、教師たちにしても戸惑いしている状態である。しかし、将来の国の盛衰を決めるのは正に「現在の教育」なのである。 逃げることは許されない。 

「探求を通しての理科教育」:アメリカでは5歳の子供から高校生まで全ての人にこの新しい理科を教えようとしている。子供は生まれつきすぐに「どうして?」とか,「何故?」と聞きたがる。子供たちが持つ好奇心、自然への不可思議さや畏敬の念を大切に育てることから始まる。出来上がった理科を教え込むと言うよりも,それに加えてそれを作り上げる過程を重視するのである。歴史的にもわが国に最も欠如して来た一面である。

  「探究を通した理科教育」の例を次に挙げる。小学校5年生の実験である。クラスを4人ずつのグループに分け,紐やテープと座金から勝手な大きさの振り子を組み立てさせることから始まる。それぞれのグループがその振り子の振る回数を15秒の間隔で数える。皆勝手に作るので,グループによって皆違った結果を得ることになる。それが何によるかを「探究」させる。振り子の紐の長さの違いによる違いなのか,重りの重さの違いによるものなのか,最初に振らせる高さの違いによるものなのか,その他いろいろの可能性の中でどれが正しいのか、どうしたらそれを検証できるのかを考えるのである。結論の知識だけなら簡単に教えることが出来ることでも,生徒たちは皆での討論や実験を通して、自らの体験を通して探究することになるのである。

このような実験以外にも,好奇心に基いた簡単な身の回りの実験(または調査)を生徒たちにも企画させ、組み立てさせ,やらせてみる,どうしたらより正確にデータが求められるか,そしてそのデータに基いてどのような説明をするか、それに代わる他の説明があるかどうか,皆で議論をする。実験は手を使うだけでなく頭を使うのである。科学者のすることを子供なりにやらせることになる。科学者が個性的であるように,子供に探求をさせるときそこに個性が現れ育つのである。探求する結論を「知識」として押しつけるのではなく、時間をかけてその求め方を学ぶのである。授業もできるだけ考えるプロセスを踏んで納得するように説明をするのである。この種の理科教育は,生徒を強くひきつけることになるが(3)、これまでの理科よりも時間的に長くかかることになる。しかし、知識の量よりも、興味を深めながら基本的な科学的な考え方を身につけさせ,それを使って説明し、発展させて考えることも出来るようになるし,それが他の科目の基本にもなる。

「ゆとりある教育」と風土:日本の社会は伝統的に一つの「もたれ合い社会」である。例えば「よろしく」と言う挨拶の仕方は、英語では翻訳出来ない言葉であり、その特徴をよくあらわしている。皆で思い合い,「和をもって尊しとなし」皆が家族的に協力する美点もある。然しその半面全体の中において「自我」と言うものが育ち難い。「探求する」教育にしても、自分で新しい文明を築いた原体験のない歴史や風土にはなじまない。前にも書いたように(4),アメリカの子供達は幼稚園の頃から,常に「お前はどう考えるか?」を繰り返し問われ,自己主張(この点は問題もあるが)と共に自分の頭で考え、自分の言葉で話す訓練を受けている。debateができるのである。debateのためには「一を聞いて十を考え、かつ自分の考えを個性的に持つ」ための訓練を受けている。風土の違いと言えばそれまでだが,わが国ではその種の訓練が余りにもなさ過ぎる。議論から学ぶ訓練が殆どない。一を聞いて一としか受け取れない人には考える重要性はわからない。よく、「思考力や創造力の重要性」を言うと、殊にマネブ人たちはそれでは「知識習得の軽視」になり、「知識なしの思考力の愚に陥る」と言うものである。もちろん物事を考えるにはそれなりの知識がなければいけないことは言うまでもない。しかし、むしろ考えれば考えるほどに、その考える過程の中に新しい知識の必要性が解り、自分で調べて身につけるものでもある。「学而不思則罔(クラク)、思而不学則殆(アヤウシ)」(論語)。知識を得ることと,自分の頭で考える事とは別の働きである。その両方が重要なので,組み合わさって本当の理解になり,自分の知恵が育つのである。「一を聞いて十を知り」、十を知って更に頭を使って疑問が湧き、自分で調べて新しい知識を求めて、更に創造的に百を知ることにもなる可能性さえある。最近アメリカでは "Less is more" という言葉が言われている。つまり広く浅い知識よりも基本的な考え方をきちんと身につけることにより、沢山の実りある考えが生まれるということである。「一匹の魚を貰うと一日の飢えをしのぐことが出来る。然し魚を捕まえることを習うと一生餓えなくてすむ」。忘れたら何も残らないことよりも,魚の捕り方を習得するのである。  

議論を通しての教え方の一例を挙げると,一部は既に始まりつつあるが、各生徒[場合によっては幾人かづつにまとめても]にコンピュータをあてがって、授業は常に先生と生徒との質疑応答、やり取りを通してする。教師は常に生徒たちに質問を出し、生徒はそれに答え、その答えは場合によってはその場でヒストグラムに示される。先生は常に生徒は何を知らなくて、どのように考えるか、の実体を把握しながら授業を進めることになる。要するに授業は先生と生徒との討論を通して進めるのである。生徒の成績,個性や能力はそのやり取りの記録によって筆記試験を通さずとも自然に答えが出て来る。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのでは創造的に新しいことを考え出す上では大変な違いになる。 

教育改善の手段としての入試: 教育を改善する際、まず言われるのは教師の再教育である。これは言うは易くして実効は容易ではない。直接的な教育改善方法の一つとして入試の改善がある。教育の内容が改善されれば、それを評価する仕方としてのテストの内容も当然変わってくるはずであるし、また変わらなければ意味がない。知識の量を〇×で尋ねれば「学力」が解ると言う迷信は捨てることである。少なくとも「学力」を判定しようとする場合は,知識の量だけでなく思考力の両面を見る必要がある。

私は新設の山口東京理科大学で,「高校の教科書持参で受験し,記述式で答えさせる」方式をやってみた(5)。ノーベル化学賞の福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるのですよ」と言われていたが、この新しい入試方式を聞かれて大変に誉めて頂き、大学の開学式にお言葉を頂いた冒頭にそのことのお褒めの言葉に言及された。実際にやってみても、それにより受験生が減るわけでもないし,〇×方式などより較べものにならない程受験生の考える能力が正確に判定出来ることが解った。この方式だと,それは何故なのかとか,こういう場合どうしたらよいのかなど,それは正にそのまま「探究的思考力を調べる入試」様式になるのである。(この方式をセンター試験との組み合わせるのも多様性ある能力判定には一つの実際的な方法である)ただこの種の入試での一つの大きな問題点は,出題者によっては問題を作ることに不慣れで困難であったりすることがある。概して不断から知識だけを授けている種類の大学教授たちの「芽の摘まれ具合」が問われることになりかねない。アメリカのある有名私立大学の入試にはcreativityと leadership でみるといっていたが、知識の量を主として、一点の違いでも線を引く方法が最も公平であるとする日本式入試が50年遅れていると言われる所以である。試験制度の遅れは教育の内容自体の遅れに直接繋がる。横並びの公平さに捉われて人間の最も大事なものを見分ける知恵のなさの現れである。

おわりに: これから求められるのは知恵を育てる理科教育である。生徒に自分で考えさせようとするのにはまず教師が自分で深く考えることである。自分の頭で深く考えて初めて自分なりのやり方が育ち,独創性が生まれる。生徒は先生の背を見て育つ。一般に人は自分は充分に考えていると思い込んでいる。自分の考えの足りなさは自分ではわからないものである。特にわが国では自立して自分の頭で考えさせ,自分なりの知恵を伸ばす教育がこれまで余りにもなさ過ぎた。差別なく横並びの人間を作っていたし、過去において先生自身がそのような教育を受けて育っている。これまでのわが国の「学びて思わざる」教育が,歴史的な風土から由来するだけに、それだけ多くの努力をしないと,加速度的に変わって行く時代からますます取り残されることになることは目に見えている。この激動の時代を先取りして、変わるなら今である。  

1.森嶋通夫〈ロンドン大学名誉教授〉こうとうけん、No.16 (1998) p.17
2. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .
3. 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
4 アメリカの孫と日本の孫,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149
5 新しい大学入試方式の模索,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456: 理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試、木下実,同誌、45 (1997) 146


(東京理科大の「科学フォーラム」に印刷中)





教育改革は如何になさるべきか

朝日新聞の4月6日の朝刊に「転機の教育」、「見えぬ責任」と見出しながら、「協議前から3割削減」という記事が載っていた。 今度の「ゆとり教育」への改革が如何に「見えぬ責任」の隠れみのの中で実質的には官僚指導のもとで3割削減が行なわれて来たか、について書かれている。 文部科学省の役人が自分で設けた審議会が決定したと言う形を取りながら、自分では責任を被らないようにしながら、3割削減の教育改革を進めて来た無責任な経緯が述べてある。 3割削減が世論の悪評をかって、はじめてそれ以上の事を教えてもいいと言ったりして、文部科学省自体がガタガタしてきているのを批判しての記事でもあるが、日本の新聞の常として、批判はするけれども、では如何したらよいのか、これから如何なる教育が求められるのか、教育改革の具体的、建設的な提案がない。 無責任だと言いながら、同じように無責任な批判なのである。 私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)の教育政策の中に「教育の無責任体制を改めるには?」と題して朝日新聞が批判していることと同じことが既に2001年の10月に述べてある。 (その直ぐ後の「私達の教育改革通信」にも出ている) 正に同じ趣旨ではあるが、私の文の中には、一つのモデルとして、アメリカで大きく教育改革を成し遂げて来た実績も紹介しながら、我が国における教育改革の仕方についても前向きに言及をしている。
私の文中にもあるが、大事なことであるから繰り返して書くと、確かに教育改革に関する意見は「十人十色」のことが多い。 一般的に言えば、教育関係者は保守的である。 これまで自分でやって来たことを変えるには相当の努力が要求されるし、改革の仕方自身も暗中模索のことが少なくない。 しかし、近年世の中は情報化、国際化と共に加速度的に大変な速さで変わって行く。 「回転の早い智慧の時代」の到来である。 現在の教育は今の若い人たちが将来活躍する時代が求める人材に向けてなさるべきものである。 つまり、教育は常に時代を先取りしなければいけないのである。 二、三十年前に「先進国に追いつけ」の時代の教育の仕方を学校で身につけた教師たちが、ニ、三十年先の時代が求める人材を現在創ろうとする、正に半世紀のギャップがある。  
 教育改革は、誰がどのような形で指導的に判断し、それをどのようにして実行に移すかが基本的な問題である。 アメリカの場合科学アカデミーの National Research Councilが中心になって、全国から選ばれた人たちが理科教育の原案を作り、1992年5月から18ヶ月の間に150回以上にわたる公開討論会を全国各地で開き、数多くの人たち、学会などの意見を聞きながら、最後には4万部を印刷して全国1万8千人や250のグループの意見を集約して作り上げている。 従来は理科でも、「理科的な知識を覚えさせる理科」であったものを、大きく変えて、理科的な探究的な考え方に重点をおき、その探究的な考え方が、社会や歴史など全ての科目の基本になるというのである。 コンピュ−ターがますます日常化し、時代の動きが激しくなる現実に基づいて、時代をリードできる人材教育への移行である。 これまでアメリカでは教育は地域の責任でして来たのを、このように正に全国的な規模で、大きく変革したことは、時代の大きな変化の中で、如何に教育改革が切実に求められているかという高い見識と判断に基づいている。
一方我が国ではどうであろうか。 教育の現場も、ただ文部科学省の言うことを受け取って初めて、これでは学力低下だとか、元の方がよかったなど、文句を言うのである。 文部科学省も現場の教育関係者たちも、そこには教育に関する基本的な考え方、現在早急に求められている時代を先取りする見識の片鱗も見えて来ない。 現在の「学びて思わざる」「横並びの物知り創り」の教育への反省もなければ、如何に改革すべきかという理念もないのである。 これからはもっと智慧を育て、個性的、且つ創造性豊かな人材を創る教育が求められている。 文化輸入国の歴史が未だに支配的に残っている我が国で如何に教育を近代化する改革を成し遂げるか、猛烈な努力が必要とされる。 
ではどうすればいいのか。 それには、先ず時代を先取りする教育とは如何なるものかについて高いレベルの理念を掲げることである。 密室での審議会ではなく、例えば、国立教育政策研究所辺りを大幅に拡大強化して、時代の動きを的確に捉えて、調査を重ね、専門学会代表や識者を集めた各種の委員会のオープンな活発な検討を通して、これからの教育のあり方についての知的ポテンシャルを高めることである。 その種の積み重ねがあって初めてこれからの教育のあり方に関する教育改革の優れた原案が出来上がるのである。 その原案にしても、これまでのように単に天下り式に押し付けるのではなく、例えば、各県の教育委員会などと密接な連携を取りながら、或いは教育関係の学会の活動を通して、広く公開討論会を開き、原案の紹介、磨き上げだけでなく、これからあるべき教育の理解を広く掘り下げることである。 このような活発な運動を通して初めて健全な新しい時代を先取りした教育が根付くのである。 このような作業を文部科学省ができなければ、当然どこか、例えば拡大強化された国立教育政策研究所または民間に託してでもよい。 勿論教育関係の学会などはその組織と智慧を使って積極的に協力させることである。 正に国を挙げての取り組み方をするのである。 我が国の将来は現在の若い人たちの教育によって決まる。 こんな大事なことは当然国の総力を挙げて時代の変遷と共に常に取り組むべきことであり、単なる密室での審議会や官僚に任すことではない。〈私達の教育改革通信に投稿〉    〈2004年4月10日〉




Independent thinkerを育てるエデュケイションを
現在の教育が日本の将来を決める
田丸謙二

最初に一言。 Education という言葉を辞書で引くと「教育」と書いてある。しかし本当は日本式の「教育」の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも Erziehung まさに「引き出す」のである。日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違って、逆なのであり、日本の「教育」には大変に乏しい要素である。

一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かで携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。そのような来るべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに加速度的に進み、ダイナミックな、変化の早い時代になる。新しい時代は新しい人材を求める。この時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来る知恵を持った人材である。「知識偏重」の教育はもう終わりで、ダイナミックな時代には知恵を持ったダイナミックな人材が求められるのである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへのエデュケイションなのである。
日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。自分で学問を創り、築いた歴史が乏しいので、おのずから「学力」とは外国から学び受けた知識の量を現すものとなり、支配的に「知識偏重」の風土になっている。高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考え、判断し、新しい問題を考えたり、基本を応用したり、発展させる頭の働きを磨く訓練は殆どない。自分の言葉で話し、debateすることもないし、議論を通して学ぶ機会も殆どない。個性を磨くどころか、エデュケイションとは正反対のベクトルである。
 こうして育った生徒は大学に来ても私語はあっても、質問は少ない。 考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。アメリカのように講義のあとで教授の部屋の前に行列して質問、討論をするなど夢にようである。さらに大学院に進むと、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、それまで受け取ることばかりであっただけに、出来るわけがない。.野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科にも基本的な考え方として拡げていったのである。この大きな教育改革はアメリカでは1889年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となり始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年5月から18ヶ月の間に150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。これだけの「新しい教育の根付け作業」を経て初めて本当に根付くのである。理科の知識を覚えさせるのはむしろ簡単である。しかしその知識が如何にして求められたか、探究的に学び、頭を働かせる訓練は別種の働きである。考えさせるだけに、時間をかけないといけないので、知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。それが新しい時代の到来に備えての求められることである。
わが国ではそれを参考にして、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」と言うことで始まった「ゆとり教育」である。それも文部科学省の密室で作られて,上意下達で改定して行った。しかし、それも余り評判がよくないということもあって、程なく、文部科学相が変ると、未だ「ゆとり教育」が高校の最高学年まで行くか行かないかのうちに、「学力の低下」が起こっているから考え直すと言って、今年の末頃までに結論を出そうと言う。現場は混乱するだけである。

、アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会に溶け込み、そして independent thinker つまり自分なりに何時も個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をし、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。基本は、すべての子供はそれぞれ生まれつき違うということから始まる。生徒各自のよい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 
わが国では independent thinker を育てるなど言う教育がどこにあるのだろうか。もちろん、日本のように皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやり社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その中にあって兎角全体の中に埋没して、「個」と言うものが育たない恨みは免れない。皆一緒に同じように考えようとする風土が支配的だからである。
時代が変ったから、それに適応するよう「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、一体どうしたらいいのか、分からない。二、三十年先のための教育と言っても、教える教師たちは二、三十年前に、先進国に追いつこうと言う時代に知識偏重の教育を受けた人たちが多い。自分の受けた教育を基にして考えたのではその間には正に半世紀のギャップがあるのである。元々日本に「考える」風土がないし、欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないからである。いや、子供たちだけでない大人にも、先生の方にも大変に乏しいのである.。子供たちは先生の背を見て育つ。学校は知識を教えるところとして、知識だけを教えることをしている先生に、考え方を教え、訓練しろと言われても、どだい無理なのである。「考えることの大切さ」を言うと殆ど必ず「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。「考える」と言ってもただ考えるのではない。選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えるのである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本に基づいて考えると、広く浅い知識を覚えるよりも格段に実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を知り、百まで考える可能性をもつことである。
ではこれからどうしたらいいのだろうか。 時代の変化が早いだけにマゴマゴしてはおられない。コンピュータの時代の到来と共に、知識偏重の時代は終わってしまった。基本は矢張り「自分で考える力」を育て、個性を伸ばすことである、本当のエデュケイションの基本を根付かせることである。生徒の個性を伸ばすためには、例えば、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。近頃では、たとえ数人を組にしてもコンピュータを通して一緒に会話、討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。 
また、新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある。この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。 Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を尋ねた問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生ほとんど絶対にお目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。ただ差をつけるための出題でしかない。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の連中の罪は深く大きいが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。日本を駄目にするのは誰か、きびしく問わないといけない。
高校の化学の教科書を見てみる。まず日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的にチヤチで貧弱であることである。内容もページ数も三分の一以下と言う。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。これで化学が好きになれとか、探究的になど言う方が無理である。そのような文部科学省検定の教科書から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話し、大陸は移動している話、いろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。立派な教科書を手にして初めて学問の真髄に触れることが出来る。欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。大学でも新品でなくてもused として大学の生協でも安く回し売りしている。欧米で広くやっていることを日本で出来ない話ではない。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。
私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。数年前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその人の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。
最後に一言: 『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。 日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。 自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる。』 〔森嶋通夫〈ロンドン大学名誉教授〉こうとうけん、No.16 (1998) p.17]





















日本人は元々創造能力が欠如しているとは思わない。 しかし、ノーベル賞が欧米が500を越える数であることを考えれば、如何にも数が少ない。 ある人の話だと、化学分析方法に千種を越える数があるが、その中で原理的にわが国で始まったものは一つもないという。 外国で開発されたものを改良して儲けるという、よく外国から「ただ乗り」と言われるのも仕方ない面もあるが、逆に言えば、ものを改良する才能は大変に長けているということである。 自動車でもデイジカメでも少なくとも貿易黒字からすれば、大変な富裕国である。 それだけ知恵があることが分かる。 自分で考えることは苦手でも裕福になれるならそれでいいではないか、ということなのか。
 


日本は本当にダメになるのか?
  もっと考えるエデュケイションを田丸謙二

現在の中高校の理科教育について何か書けという思いがけないご依頼があった。以下に普段思っていることを書いてみる。

はじめに: Education という言葉は辞書には「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違っている。正に逆なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は決して多くはない。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。

新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。

これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する風土になっている。高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、出来るわけがない。.教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。
わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。
、アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生まれつき異なるということから始まる。生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

考えさせる教育;わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいのである.。先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。

これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでもコンピュータを通して一緒に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
    
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解しているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。

教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなどいろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。

おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介する。『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)

1. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .
2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149
3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146
4  「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
  「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/    (2005年3月)

時代が求めるこれからの教育

現在時代はこれまでになかった猛烈な速度で変わりつつあります。情報化、国際化が飛躍的に進み、コンピュータの時代になって来ました。科学技術も寿命は短く、常に新しいものへととり変わって行きます。この変化はさらに加速度的に早くなり、これから二、三十年先は想像以上に変わるであろうと思われます。その頃の日本を支える今の若い人たちの「現在の教育」は将来の時代に適応した人創りでなくてはなりません。「国の将来は現在の教育が決める」と言われるように、時代の変化が早いだけにこのことは極めて重要であります。今の日本のように「これまでの知識を記憶させる横並びの人間創りの教育」をしていてはダメで、この激動の時代をリードできるのは自分の頭で個性的に柔軟かつ創造性を持って新しいことを考えることが出来る智慧を持った人材です。
欧米、特にアメリカでは15年余り前から国を挙げて新しい理科教育の改革を始めました。従来は例えば鯨の種類を覚えさせたりして、理科的な知識を重視してきましたが、それを止めてscience inquiry, つまり理科的な探究的な考え方に重点を移し、その考え方が,社会や歴史など他の科目の基本にもなるように変えて行きました。"Less is more"と称して、広く浅い教育から、基本を重点的に身につけさせ、それに基づいて自立して考えるような教育への改革でもあります。「ただ聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」 考える基本的なことをただ聞いただけというのと、本当に理解したのとでは自分で考える上では大変な違いです。これからは浅く広い知識よりも、考える基本を時間をかけてもしっかりと身につけることです。
わが国でもそれを真似て、いわゆる「ゆとり教育」が始まり、「探究的に考えるのだ」と言うのですが、これまでになかった教育形式だけに保守的な現場では戸惑っている状態でもあります。高校の理科の時間を見学すると、「解ったか、覚えておけ」の一方的な教え込みが支配的になっています。それは限られた時間内に沢山のことを教えるにはよい方法で、知識偏重の大学入試に備える最適な教育でもあるからで、変わるに変えられない仕組みになっています。
そこには自分の個性的な考え方を育てたり,自分の頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練はほとんどない。自分の言葉で話し、debateすることも乏しいし、議論を通して学ぶ機会もない。いつも教えられることを受身に学ぶ習慣では大学に行っても質問も少ないし、ましてや大学院に進んで、創造的な研究をするのだと言われても、それまで自分の頭できびしく考えたこともないだけに、「創造」の意味もわからない、せいぜいcontrivance (工夫、機知)の範囲にとどまります。 要するに自立してないのです。特にわが国では歴史的に文化の輸入国で、「学ぶ」ことは「マネブ」つまり外国の文化を真似して取り入れる風土が抜けきれないでいるだけに、どうしても知識偏重が支配的に残っているからでもあります。アメリカのように子供の頃から自分の考えを育て、debateできる風土とは違います。新しく「ゆとり教育」によって「探究的に考える教育」を、と言っても,そのような教育を受けて来なかった先生たちが戸惑うのも致し方ない面があります。一を聞いて一を知るだけの教育から、一を聞いて基本に基づいて十を知り百を考える教育にすることです。そのためには教員の再教育、旧態依然の教科書の見直し、入試制度の改革など、きめ細かくこれからあるべき教育を拡め、根付かせる努力が求められます。ノーベル化学賞の福井謙一先生はよく言っておられました、「大学入試の問題を見ますと、英語や数学はどうにかなりますが、化学は一番難しい」、「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるのです」と。高校の教科書が考え方よりもむしろ昔ながらの知識偏重である限り、それを基にして出される大学入試問題もおのずから知識偏重にならざるを得ないことにもなります。
それでは具体的に教育改革を進める方法は如何にすればいいかを考えてみます。教育に関する考え方は十人十色、人によっていろいろあり得ます。
教育改革を取り扱う分野が広ければ広いほど、焦点がぼやける傾向があります。
理科に絞ることも一案ですが、できれば、一つの比較的狭い分野に限り、焦点を絞ってはっきりした成果が上がるようにして、それを改革のモデルにして他の分野に拡張するのが具体的にやりよい方法ではないでしょうか。
その具体的な例として化学を考えてみます。その理由は次の通りです。 
1)「化学は暗記物」という俗説がまかり通っている分野です。現在の教科書は考え方を避けて、正に暗記もの的に書かれている部分が少なくない。
2)日本化学会は、物理や数学などの物理教育学会、数学教育学会など教育学会を作っているのと違って、教育関係者が第一線の研究者と同じ学会の中で、研究者と共に直接教育に関与する体制を持っています。学会の中に化学教育協議会という組織を持って全国的な支部を通して「化学への招待」など、化学の普及などに努力していて、比較的に教育改革がし易い体制になっています。 先生たちの再教育にしてもその線に載せることも考えられます。  
3)高校の化学の教科書を見ても、当然考えれば簡単にわかることでさえも、暗記物に仕立てられていて、その種の教科書を基にして出される大学入試の問題がよくなるはずもない。つまり、化学は教科書の検討から始めて基本的に改善される可能性が高い分野です。ついては教科書検定制度自体も先進国では珍しいもので、検討の余地があります。このような現在の教育体制の基本に触れて検討するためには文部科学省の科学研究費でするよりも民間の財団の協力による方が効果的でもあります。
したがって具体的には、化学教育の実情に詳しい、しかもこれまでにもはっきりした実績のある人を責任者に選び、その人たちを中心にして新しいこれからあるべき教育とその普及について考えるプロジェクトを発足して問題点を検討しながら素案を作ることです。一方では日本化学会の化学教育協議会各地方支部での公開討論会を通してその新しい教育のあり方を広く根付かせる努力をすることが望ましいのではないかと考えていますが如何でしょうか。
 
参考までに
『現在の教育制度は単線教育〔平等教育〕で,子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを高校入試,大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。 日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。 自分で考え自分で判断するという訓練がもっとも欠如している。 自分で考え,横並びでない自己判断のできる人間を育てる教育をしなければ,2050年の日本は本当にだめになる。』 (ロンドン大学の名誉教授:森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) 17)

『一般的に日本の若者は、「これをやれ」と言われるとよくできます。 しかし、自分から何かを発見することは苦手です。 それに挑戦する精神も乏しい。 日本の学問は、ものを習う「習得型」で何か新しいことに挑戦する「模索型」が不足している。 というより、「探究心」の教育を受けていないといっていいと思います』 (江崎玲於奈、「創造力の育て方、鍛え方」より) 

アメリカでの理科教育の基本的な改革は、次のように実行されてきました。 アメリカでは、これまでは教育はとかく地域的に取り扱われていたのですが、科学アカデミーを中心にして全国的規模で識者を集めで新しい教育の原案を作り、それを150回以上の公開討論を行うとともに、関係学会とも連絡し、最後は4万冊の原案を刷って関係者に配って検討を重ねることを通して、新しい教育を根付かせています。 (日本のように文部科学省の密室で原案が出来、それがそのまま天下りするのとは余りに異なっています)

参考文献: 「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149; 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712: 「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003): 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146  「これからの理科教育」 田丸謙二、東京理科大学科学フォーラム、2004年1月号8頁

田丸謙二





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