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ハーバーの思い出


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大学紛争

1969年の日記: 1月1日:夕方家を出て宿直へ、大学紛争の真っ最中。2日の午後帰宅 旧年クリスマスの時期にアポロ8号が人類史上初めて地球圏外に飛び出し、月を廻って帰ってきた。 3人の「英雄」を作り出した。

1月6日、農学部の三つの建物が封鎖された。 全共闘、民青、反日共系、入り乱れて争う。 9日、ついに警官導入。 化学教室に学生多数入り口を壊し、逃げ込んで混乱。機動隊は安田講堂を取り囲んだが、そのまま帰る。




F.ハーバーの思い出


本誌「科学フォーラム」から思いがけなく「F.ハーバーの思い出」という仮題をつけた原稿依頼を頂戴した。その題からすれば、知らない人なら、私は当然F.Haberという人とは長い間の付き合いがあって、彼について沢山の思い出話を持っているかのように思われるのではないだろうか。勿論それは誤解である。しかし考えてみると、ハーバーと直接会ったことのある日本人は現在私しかいないのではないだろうか。その意味でハーバーについて何か書くことがあっても、それなりの「縁」があると言えるのかも知れない。  
ハーバーは「空気中の窒素固定」で知られ、それに対して1918年にノーベル賞を受けている。窒素と水素とから直接アンモニアを合成することに初めて成功した功績に対するものであった。この成功の歴史的な意義は極めて大きいものであった。それより前には、世界の人口は着々と増えて来る、一方農作用の窒素肥料の多くを頼っていたチリ硝石(硝酸ナトリウム)は枯渇して来る、人類の前途には飢餓が待ち受けているということで、暗い20世紀の幕開けであったのである。その深刻な危機から救った意味でハーバーが「空気からパンを作った」と言われたのもそのためである。 

このような当時の情勢の下では、もちろん数多くの科学者たちがこの窒素の問題に取り組んでいた。直接窒素と水素とを反応させてアンモニアを作る試みもOstwald, Ramsay, Nernst,など後にノーベル賞を受けた超一流の化学者たちを初めとして、数多くの人たちが当時大変な時間と労力とをかけてチャレンジしたがうまく行かなかった。空気中の放電で窒素の酸化物を作る試みやCaOと炭素とを2300Kで反応させて炭化物を作り、それに1500Kで窒素を吸収させるシアナミド法も研究されていたが如何にも高価な窒素源であった。 
 
窒素と水素とからアンモニアを直接合成する反応は、現在では大学入試によく出される問題で、高圧、低温でアンモニア側に平衡が偏ることが高校生でも知っている。その当時何故皆がやってもうまく行かなかったのかと言うと、一つには窒素が如何にも反応性の乏しい気体であるからである。水素と窒素を反応させるためにいい触媒もなかったので、窒素を反応させるために反応温度を1000C以上にすると、高温ほど平衡的に言ってアンモニアが出来ない方向に移行してしまうからである。また一つにはその頃の高圧の技術が乏しく、反応温度を高くして高圧を試みたルシャトリエなど、反応装置が爆発して助手が死んだこともあり止めてしまったと言う。鋼鉄の反応管を用いても高い反応温度に加熱すると、反応気体の水素と鋼鉄の中の炭素とが反応して炭素が除かれ、軟鉄になって爆発をしたのである。第一この反応については、窒素と水素とから果たしてどれだけのアンモニアができてもいいのか、その反応速度が遅いために、その平衡値がどこにあるかさえ解かっていなかったのである。

この反応の平衡定数を測定しようとハーバーは常圧で測る努力をしていたが、1905年から3年間は手を引いてむしろ空中放電を調べていた。初めて高圧下でこの反応の平衡にチャレンジしたのは熱定理で有名なNernstであった。彼はオートクレーブに窒素と水素とを入れてできるアンモニアの量を測定したのである。しかし、1907年に得た彼のデータは結果的には正確な平衡値よりも大幅に少なかったし、また彼なりに企業の技術者たちの意見も尋ねたが、到底難しい反応であると判断して止めている。一方ハーバーは常圧だけでなくNernst に倣って高圧の実験をやり、しかもアンモニアの合成、分解の両方からの平衡値へ向かう測定を念入りに調べた結果から、アンモニア合成も決して不可能なことではないとの結論に達したのである。彼はオスミウムが触媒になることを知り1909年7月に彼の研究室で、閉じた循環系を用いて、化学両論的な組成の窒素と水素を循環させながら、生成するアンモニアを集める方法を使って、820K, 約175気圧で初めてアンモニア合成をやってみせたのである。この画期的な実験に成功すれば,その先は、工業的に如何に高圧技術を開発するか、優れた触媒を探し出してできるだけ低い反応温度で反応させる問題になって来る。BASFのBoschが高圧技術を、Mittaschがすぐれた触媒探しを担当して工業的に初めて成功したのが1912年であった。このアンモニア工業の技術の成功を契機として、メタノール合成など、高圧化学工業が初めて開発され、Boschはその功績によって1932年にノーベル賞を受けている。一方Mittaschの触媒探しにしても、2万種の物質を触媒として探したと言う伝説が残っているが、数多くの触媒を探す過程の中で、微量な狭雑物の示す被毒作用、助触媒作用、半融現象などなど、触媒作用に関する基礎的な本性を初めて解明するノーベル賞級の仕事をしている。このようにして、ハーバーのアンモニア合成の成功は単に人類を飢餓から救い出しただけでなく、平衡という基礎科学から出発して、今日の化学工業の基礎を築く上で、大変に大きな貢献をしたのである。

私が昔アメリカのPrinceton 大学で3年近くお世話になった Sir Hugh 
Taylor先生(触媒分野での世界的な泰斗)が言われていたが、「ハーバーが他の多
くの人たちがチャレンジしてできなかったアンモニア合成に成功したのは、そ
の下にLe RossignolやTamaruのような優れた実験家がいたからである」と。
(Taylor先生はお若い時ハーバーの研究室で亡父にも会われている)亡父、田
丸節郎、は1908年1月にハーバーのKarlsruheの研究室に文部省海外留学生
として留学した。ハーバーに「君は死ぬほど働く」と言われたそうであるが,随
分と頑張ったらしい。当時ハーバーの下には数十人の研究者がいたが、その中
から抜擢されて大学の正式の職員となり、ハーバーがベルリンのKaiser 
Wilhelm研究所(現在の「ハーバー研究所」)に所長として移った際もその新し
い研究所の正式の職員として、第一次世界大戦勃発で、日独が敵対関係で滞独
できなくなるまで研究職員として滞在した。当時ドイツはEinstein,Planckなど
世界の科学をリードしており、多くの日本人もドイツに留学したものであるが、
その中でもトップの研究所に日本人が正式の研究員として活躍していたのは大
変に珍しいことであったという。 

第一次世界大戦においてドイツがアンモニア合成に成功していなかっ
たなら,海上封鎖もあったことでもあるし,ドイツは火薬を作る窒素がなくて
戦争はもっと早く終わったであろうと言われもする。またその大戦中にハーバ
ーが指導してドイツ軍が毒ガスを使用したとも非難されている。尤も最初に毒
ガスを使ったのはドイツ側ではないという説もあるが。「大量破壊兵器、使った
国はただ一つ」、戦争に負けた方だけが何時も末長く負い目を負うものである。
ハーバーは1924年に招かれて日本を訪問している。当時各地で大変な
歓迎をな受けたと言うが、鎌倉の我が家を訪れた時の写真が残っていて、幸に
私が「ハーバーに会った」証拠となっている。母の腕の中にいる可愛い(?)
赤ん坊が私である。この赤ん坊は甲斐性がなかったので、家の中を手直しした
くらいで、未だに同じ家に住んでいる。ハーバーは訪日して、我が国が明治以
来教育に力を入れて人創りに励んでいる姿を見て、日本の将来に目を向け、帰
国してから日独文化協会など、両国の文化や産業の交流に尽くしている。ハーバ
ーは第一次世界大戦でドイツが敗れた時、真っ先にドイツの復興は科学振興か
らということで、科学振興のための組織作りをして際立った成果を上げた。亡
父はそれにならって、我が国の近代化には学術振興が緊要であると主張して、
ハーバーがドイツで学術振興について尽くした実績や自分の意見を岩波書店か
ら本に出したりする一方で、学術振興会を設立する為に当時の学士院長であっ
た桜井錠二先生と心血を注いだことも間接的ながらハーバーの日本に対する貢
献の一つに入るかも知れない。(亡父の学術振興会設立への努力については桜井
先生の遺稿集に残されている)学術振興会の設立も、当時昭和一桁の時代は我が
国が経済的にはどん底で、大変な苦労ではあったが、最後には昭和天皇が「自
分の身の回りを倹約してよいから学術を振興してくれ」と申されて御下賜金を
賜ったことで、漸く出来上がったもので、昨年創立70周年のお祝いをしている。 

ハーバーの思い出話しとして結局はハーバーや亡父のことを書くこと
になってしまったが、我々が意識しないでいる陰には、このようなことがあっ
たお陰で飢餓にもならず、触媒や高圧を用いた化学工業も栄えて、満ち足りた
生活が出来ていることを思い起こすのも意義なしとしないことかも知れない。 

触媒が拓いたもの、田丸謙二、化学と工業、53、473(2000)
日本の化学者 第9回 田丸節郎、 田丸謙二,化学史研究、27 (2000) 16       



(私と知り合った、1970〜1年当時の日記を送っていただきました。はやし浩司)
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大学紛争

1969年の日記: 1月1日:夕方家を出て宿直へ、大学紛争の真っ最中。「機動隊×[バツ]」、「講座制×」、「国家権力×」 学生たちの言うことが昆虫のような単純な頭脳になって来た。 象牙の塔の大学も、いまや混乱と憎悪のちまたと化している。 「そんなに先生を信用できなければ、他の大学に移ればいいのだ」 こんなことを言いたくなるほどのものではあるが、誰一人退学した人はいない。 2日の午後帰宅 旧年クリスマスの時期にアポロ8号が人類史上初めて地球圏外に飛び出し、月を廻って帰ってきた。 3人の「英雄」を作り出した。

1月6日、農学部の三つの建物が封鎖された。 全共闘、民青、反日共系、入り乱れて争う。 9日、ついに警官導入。 化学教室に学生多数入り口を壊し、逃げ込んで混乱。機動隊は安田講堂を取り囲んだが、そのまま帰る。1月10日、秩父宮ラグビー場で学生7千人余り、教官と合わせて8千人集まり7学部集会。 いろいろの新聞で、東大の事、大半は悪意と冷笑とやつかみをもって書かれる。 翌11日教養学部、理学部など、スト解除。 15日、昨晩泊まる。新館の薬品戸棚盗まれる。 バリケードに使われる。 全共闘、民青、反日共互いに入り乱れ大会を開く。 外人部隊(東大生以外)多数。 16日から泊まり。 18日7時に機動隊7千名、その他1千名大学構内に入る。封鎖建物20くらい次々に解除、安田講堂では火炎瓶、投石、激戦。 暗くなり一時中止、 19日朝から攻撃開始、夕方6時頃ようやく講堂内の全学生が捕らえられた。 21日東大入試中止決定。 「大学は自治能力なし」と。 22日も泊まり。 23日理学部全員集会化学教室で。 民青は機動隊導入に反対せず、専ら入試中止の政府介入を責める。 大学の自治の危機を叫ぶ。 来週辺りが東工大、横国大などでの騒動の山場とか。 2月3日授業再会。 しかし「化学教室を告訴する」などを配布する連中も居るのだから。 紛争が皆の心をずたずたにした面が残る。 他方では京大で既に5学部がスト入り、電通大無期限スト、水産大、外語大、教育大、横国大、東工大、阪大等等、先生も学内に入れない。 2月14日の晩、京大で、民青と全共闘の大衝突、259名の負傷者を出す。 3月2日には京大に機動隊が2,500人、大学の要請なしに入り、80名の負傷者を出し、教養学部を占拠。 京大から来た人は「東大に来たら正に天国のように見える」、「京大では負傷者が千人でた」とか。 6月28日、東工大で完全封鎖。 [9月5日全共闘の全国組織が初めて出来上がり、日比谷に1万人集まる。 山本議長捕らえられる] 9月21日:京大で9ヶ月の紛争解決に向けて、2千人の機動隊導入、時計搭を残し、封鎖解除。

7月16日、アポロ11号打ち上げ。 20日ぼ夜にテレビで実況放送。 21日午前2時47分に母船から着陸船が切り離され、午前5時17分に月面に無事着陸。 初めて人間が月面に着陸! 正に歴史的瞬間である。アームストロング船長にニクソン大統領がお祝いの電話。 「私がどれだけ誇りに思うか」と。 それを受けたアームストロング船長、声が詰まって泣いていたようだったとか。 22日朝3時少し前アポロ11号が月面より離陸。
以上1969年

1970年
1月1日:新聞に載っていた記事:終戦後廃墟の中に道に迷った経験があるフランス人の特派員が、現在では繁栄の中にビルや高速道路の建設で、道に迷ってしまうと言う。 一昨年久しぶりに東京に戻って来て、帝国ホテルの旧館が消えて驚いたら、昨年にはそのあとに超近代的なホテルが、また赤坂にも、聳え立っている。 六本木の都電の走っていた坂道はどこに行ったのだろう。 高速道路の陰に閉塞している。 ドンドンと近代化する東京の姿にはっきりとした戸惑いを表していた。 

1月5日:北大で教養学部封鎖解除のため機動隊が入ったとのこと。 ほとんど最後の紛争の残りではなかろうか。

12月3日: New ZealandのQueenstownにて。 強い風の一日が終って、名残の波が湖畔の土手を打っている。 丘の上の教会の鐘が讃美歌を奏で、それが広い湖面ををわたって遠い山に吸い込まれて行く。 湖を囲む山々の頂には白い雪が美しく夕陽に輝いている。 南国の果ての日暮れは長い。 静かな公園を独り歩いていると、散歩中の老夫婦が"good evening"と声をかけて過ぎて行った. ポプラの枝をゆるがせて冷ややかな風が頬をなでて行く。 黄色い花Hawthorn の花に彩られた丘の上には洋館の建物の窓の硝子が夕陽を反射している。 もう少しすると南十字星が輝くだろう.

1971年:
1月7日: 日米首脳会談サクラメントで。沖縄は5月15日に返還されることになった。
1月25日: グアム島の山中で旧日本兵の生き残り、桜井さんが発見される。実に28年もの長い一人で竹やぶの中の穴倉の中で生活していたとのこと。 東京まで3時間で行けると聞いても全く信じなかったとのこと。 「天皇陛下のためを思いながら暮らしていた」と言う。 その苦労には胸を打たれる。

4月9日: Dr. and Mrs. Rosenblum (Charles, Fanny)がPrincetonより鎌倉に来訪。 観音さんなどを見て、我が家で夕食。 Sir Hughが82歳になり、足を引きずるようにして歩いていると言う。 片目が悪く、盲目になるのではないかと言う恐れもあると言う。 しかし、mentalにはvery alertであるという。 Charles はTaylor先生が貴方の事を大勢の弟子たちのうちでベストだと言っていたと伝えてくれる。 彼も神経痛で右足を引きずって歩いている。 Hotel Grand Palaceまで送って行く。(RosenblumさんはTaylor先生と親しく、毎年クリスマスには彼の家か先生のお家で集まって、Princeton滞在中は毎年お招きに与っていた)
4月16日: 川端康成氏逗子マリーナ(小坪)でガス自殺。

6月9日: 光化学スモグで東京近郊で倒れる人が出る季節となる. 東京には50年後は植物がなくなると言う外挿法的な結果が大きく報道される。

7月26日: 中国で毛主席の後継者として一時指摘されていた林彪が蒙古で墜落死.毛主席の暗殺を図ったとのこと。 「非林、非孔」と並ぶ人.
8月21日: マイアミコングレス(国際触媒学会)開始。 ヘンセル、エメット.ミルス、たちの挨拶。 触媒分野で表面科学、酵素反応、錯体化学、高分子化学などそれぞれ独立して行くので、残りの集まりになってきそう。

1973年
4月30日: 鮫島先生午前3時半にお亡くなりになる。 5月1日にお葬儀。
無宗教形式で、参列者はお花を捧げるだけ。 先生ご丹精の緑が多い庭で、豊かな陽光が溢れていた。

6月2日: 小学校の時の5年、6年を受け持って下さった中村隆秋先生64歳で亡くなられお葬儀。 いい先生だった。

1974年
1月10日: テニスで「ジャスト」と言えば一寸のところでアウトであり、惜しい所だったと言う意味を持たせる。 「バドラック」と言えば、気の毒に運が悪かったのね、という意味である。 プレイヤーを何時も気落ちしないように、励ます姿勢から生まれて来る言葉の例である。 テニスのみでない、相手の心を常に思いやりながら、プレイをするスポーツマンシップがこの言葉のやり取りの中に汲み取ることができる。 励ましながらプレイをする心の方が、口汚く、ただ勝つことのみを願って相手のミスを喜んだりする感じ方よりもどれだけ楽しいことか。 これも紳士的プレイの中に生まれた知恵である。

1月21日: 「色即是空、空即是色」 これは般若心経の中にある有名な言葉でらる。 色といっても、性的なもの、或いは女の子の気の変わりやすさを象徴したものでもない。 色とは「存在」の事である。 色即是空と言っても虚無的なものでもない。 「存在」するもの全てがそのまま移り変わるものであり、移り変わっていくこと自体が存在そのものであるということである。 生命現象でも、その動きそのものが生命であり、決して平衡的なものではない。 ダイナミックそのものがすなわち生命であり、「存在」でもあり、この世の本質なのである.

1月24日: 昨秋理学部の評議員になって以来忙しい毎日になって来た。 忙しいと言うことは「心を失う」ことであるそうな。 忙しい、忙しいと言いながら、大切なものを失っては大変である。

4月2日: 午後1時10分より日本化学会の総会で化学会賞の授与式があり、赤松会長より化学会賞をいただく。 他に中川(阪大)、野崎(京大)、戸倉(阪大)など。 4月3日:日本化学会年会で受賞講演、会場では立っている人多く盛会。

4月6日: 化学会賞受賞のお祝いの会.赤門学士会館にて.約70人集まる.。

4月18日: 朝ミシェルに会ったらJack Bensonからの電話で、 Sir Hugh Taylorが突然の心臓発作で亡くなったとのこと。 早速ミシェルと一緒に娘さんに電報を打つwe feel like loosing a father"と。 正にそんな感じ。

5月30日: ブダ-さんの言うには「北大の触媒研の一番の進歩は田中虔一君加わったことである」と。

8月25日: 22:30のJALで出発. Ancharage 経由 Amsterdamへ。 高度1万メートル、時速450キロ。 日本時間午後3時20分(現地時間は26日の朝7時20分)に着く。 Wolfgang Sachtlerさん迎えに来てくれ、Hotel Sachtlerへ、 一休みしてからLeiden大学へ。 翌朝27日Vladimir Ponec来て話す. 程なく空港へ. 12時半のKLMでミュンヘンへ. 空港ではKnoezingerさん来てくれ、駅近くの Drei Loewenと言うホテルに入る. (銀行で20ドル紙幣で51,40マルク) 街の見物少し.

8月28日:9時15分頃大学へ. Ertlさんの研究室へ. 午後Knoezinger研も見て、A Dynamic Method to Elucidate the Mechanism of Heterogeneous Catalysisの講演をする。 300マルクくれる. Michel Boudart も一緒になる.

Ertlさんの話. ドイツでは北と南とでは言葉のアクセントも違うし、気質も異なる. 北の方が正確で、冷静、論理的である. 南の方は強いて言えば、イタリーに似ている。 大学は各邦から
費用が出、ボンの連邦政府からではないので、 ある程度の違いは出るが、一応同じレベルである。 彼の物理化学教室では教授2人、純教授8人、助手が12人、研究学生が20人で予算は毎年8万ドル、秘書など人件費その他を除き、2万ドルが研究費、その中の8千ドルを彼が使える. 彼は5人のpermanent memberを含めて13人のグループ. 米国のNSFに相当する所から別枠の研究費が昨年10万ドル支出された. 尤も是は人件費を含み、研究費と人件費の振り分けはある制限はあるが、教授の裁量に任されているとのこと. ミュンヘンでは学生一人が生活するには年に2500ドル必要、授業料はほとんどいらないので、日本からでも留学できる、 ミュンヘンはドイツの中でも土地が高い所で一平方メートル当たり150ドルもすると言う. 従って彼もそうだが、アパート住まいが多い. 大学運営はミュンヘンではむしろ保守的であるが、ブレーメンやベルリン自由大学などでは教官、学生、その他がそれぞれ3分の1の構成で運営するので、逃げ出す教授もいるとのこと.

8月29日: MuenchenからMichel, Marina とInnsbruckを経て St. Moritzへドライブ、300キロはあったろうか. その間前半は牧場、森、丘美しい風景であったし、後半も有名なチロール地方の真中を抜けるので、所々で雪を抱いた山々も綺麗だし、村々のそれぞれに特徴的な教会の尖塔が美しいアクセントとして風景を彩っていた. Innsbruckで Prof. Gruberの家を訪ねた. 街も古い部分があって、山の間に挟まれて川があり、素晴らしい所. Gruber家は北側の山の高い所(街が海抜700m位だから800mはあるかも)にあり、新築、白い壁のコンクリート造り、非常にモダンで、温水プールもあり、サウナも備えてある. 1976年には冬季オリンピックが催されたとのこと. Gruber夫人は目の大きい、綺麗な英語を喋っていた. (アメリカに6,7年住んでいたとのこと) 彼はProf. Cremerの後任として数年前に教授に昇格した.研究室は10人足らずのグループで山の美しい風景が窓から見える. St. Moritz では Hauser Hotelに泊まる.

8月30日: 朝街を散歩. 古い教会の写真を撮り、絵葉書など買う. 10時にドライブ再開. イタリ-に入り、コモ湖など急にイタリヤッポくなる. 銀行も2時半まで閉じている. 1ドルが620リラ.経済的には破産状態に近いとのこと. Menaggioで昼食、Luganoを経てLucarnoへ。 夜街に出たが、スイス人とドイツ人の観光客が多い. Park Hotelに泊まる. 昔は豪華だったようなホテルだが、今は使用人くらいしか泊まっていない、但し値段は昔のプライドを保っているとのこと. 朝食、Bathつきで80フランくらい. 小さい木の鳥を土産に買う、4個で11フラン。

8月31日: 峠を降り、「いろは坂」のようなドライブで少し酔う。 さらに大雨の中をドライブし、Taesch(?)で道は終わり. 電車に乗り換え12分でZermattへ. 雨の中タクシーとして馬車に乗り、Hotel Domに着く. 夕方雨が止み、Matterhornのふもとが一寸見えた. 夕食は Giratなるレストラン、アメリカンエックスプレスの券を受け取らないといってミシェル怒っていた. 

9月1日: 朝8時頃宿を出て朝日に輝くマッターホルンを撮りまくる。 9時半過ぎに宿を出てZermattよりGornergrat (3130m)のところまで電車で昇る。 その途中は勿論の事、上に着いたときの素晴らしいこと!Monte Rosa(4634m), Liskaum(4527m), Castor(4226m), Breithorn(4160m), Matterhorn(4478m), Weishorn(4505m), Nadelhorn(4327m), Dom(4545m) Lenzspitze(4294m), Dom(4545m), Taeschhorn(4490m), Alphubel(4206m), Allalinhorn(4027m),など4千メートル級の山々が360度の絶景を作り上げていて、正に壮観である。 しかし、電車駅から展望台まで雪の上をツルツル滑って大難儀をする。 綺麗なオネ-チャンが"Kommen Sie Bitte"と手を差し伸べてくれて、半分ぶら下がるようになって、助かったが、ムクムクした彼女の身体が気になった。 Taeschまで汽車で降り、再びドライブ。 5時ごろPalace Hotel Gstardに着く。 5時半よりテラスで飲み、8時より夕食、 Kemball. Emmett, Block, Ertl, Schwab, Rhodin, Wagner、沢山の人に会う。 暖房が入っている。

9月2日: 朝から下痢。 昨日の山頂での昼食か。 つわりみたいな状態で9時からのセッションに出る。 Emmett, Wagner, Bond,たちのIntroductory talk。Emmettの昔話、Bondのは周期律とCatalysisの一般論、配位数なども入れて、Taylorの活性中心のfacile, demandingの話。 Discussion自身とても疲れるがなかなか中に入って行けないのは辛いところ。 Wagmerの謙虚な人柄が attractiveだ。 夜 Battelle(本討論会の主催者)の幹部と食事で隣り合わせになり、Batelle が将来を見つめている苦心談を聞く。 熱心に日本がactiveなことを話していた。

9月3日: まずHagstrumと Ertlの話。 殊にErtlの話はうまく纏めてあり、好評だった。 Plummerがdensity of stateを PESから求めるなんて不可能だと強調する。 FEMでもそうであると。 Drasticな言い方でハデにやりまくる。 Bassettのfield ion microscopeでmetal上の metal原子間のinteractionを議論したが、いろいろと問題を提起されていた。 午後は雨でpicnicが流れて、夕方のexperimentsのagenda discussionの準備。 dynamic methodと high resolution Auger electron spectroscopyの話の準備。Rhodinさんに指名され、兎に角頑張って話す。Imelikが彼だけの意見を言う。Schmidtさん仲仲いい装置じゃないか、と。 後で、Imelikが分解能はいくらか、パーツは如何したか、今自分の所でも作ろうとしているが、お金がかかって大変だ、と言っていた、 8時過ぎにdinner。 疲れたが、 無事に発表が終ってさっぱりする。

9月4日: 今日は理論の話。 朝9時から夜8時までびっしりと日程が詰まっていた。 LCAOとかdensity functional theoryとか、要するに最初を仮定すれば自ずから答えが出るので、最初の話は却ってスカッとしている部分が少なくない。 Schriefferさん(ノーベル賞受賞者)相変わらず面白い話。 Einstein Schriefferの延長を話す。 午後のagenda discussionは理論屋が7人だけで話していた。 Schwab が合金でFermi levelをcontrolしてformic acidの分解反応の話を持ち出していたが、座長のNewnsさんが「それはtoo complicatedだ」と一言のもとに話題をずらしていた。 夕方の 粒子 sizeの話、Michelなかなかうまく打ち出していた。引き続くagenda discussionでも大分主役をやっていた。 MITの Johnson君司会を見事に切り盛りしていた。 夜食8時半から。 Schrieffer夫妻と一緒のテーブルになり、向うから熱心に話し掛けてくれた。 日本に1965年と今年といってすごく工業化した印象をもったとか、石の燈篭が好きで、自分の新築した家の庭にも置いたとか、庭は日本式の真似をしようとしたが、金がなくなって中断したとか(Philadelphiaの郊外)日本食は刺身(殊にマグロの)は美味い、sea weedでも何でも食べれるという。 殊に貴方の討論での話は非常に面白かった。 よくまとまって話をしたが、準備してあったのだろう、とお世辞を言っていた。 Boudart一家とdriveした事を知って、安心感を持ったこともあるらしい。 日本の教授は学生の全部を引き受けて大変だね、という。 見合いの話など、面白がって話していた。   

9月5日: Somorjaiは1946年ハンガリー動乱で逃げて、ウイーンに着いたらポケットに5ドルだけ、アメリカに渡り、BerkeleyでPh.D.、IBMでSolid Stateを4年、Berkeleyに戻り、今8歳と10歳の男女の子供、13人(Post. Doc 5人)年3千万くらい(本当はその倍くらいだが、大学がその半分を取る)(しかし人件費も含む)の研究費を稼いでいる。Atomic Energy Committeeから3分の2もらうとか。 Blockは経常費DM75000/year、設備費などについてはその倍くらい他からが入る。 皆日本に較べるとずっと楽である。

9月6日: 今日は朝Eischensらがやった後でMicro波の新しい利用について発表をする。 EDAを強調して話したら、真っ先にSchriefferが飛び上がって(のように見えた)Phthalocyanineのような系でそのような綺麗な関係があるとは極めて面白い。早速理論家の取り扱える系ではないかと発言。Eischensや Jaffeeらも発言。 まずまずの出来。 午後Grimleyの司会でTheoryのdisc. 簡単な計算に乗る系として、GeH4の分解について発言した。 夜RhodinとBondに挟まれて食事。 Farewell BanquetでRhodinは24歳を頭に3人の男の子と女子。 一番上はMedical Dr.、次の二人はCornell Univ.一番下は高校生、この春に日本に行った時に、学生(日本人)の故郷の九州新宮にまで行って数日泊まった。(inland seaも二等でざこ寝)、tea ceremonyもその祖母がserveし、日本人が伝統を大切にし、(旅行中の経験から)清潔、綺麗できちんとしていて、礼儀正しく、親切で・・・と言葉を極めて誉めていた。 次に日本に行ったら、 Zenのことを学びたいとも言っていた。 自分が行きたいのは勿論だが、息子たちにも観光だけでなく、日本文化に接するようにさせたいと言っていた。 よい学生を是非欲しいし、単結晶ならいつでも送ると言ってくれた。Bondも英国に来る機会があったら是非自分のところで出来ることがあったら何でもして上げるから、industry空も金を貰っているし、、と親切な発言。 皆親切なので、嬉しい夜だった。 大働きで片付け。

9月7日: 今朝Geneve行きのバスで出発。 途中気持ち悪くなったが、どうにか居眠りをして助かる。 Schwab教授と隣り合わせ、彼はHaber, Nernst, Planck,など皆会ったことがあるという。 東西ドイツはとても統一の兆しはなく、殊に向こう側にこちらから招待状など出すと却って上から睨まれるとのこと。 Rienaeckerも余りに知り過ぎているためか失脚しているとのこと。 今 p-o-H2や、光により色がつく硝子を研究しているとのこと。 ジュネーブの空港でMichel, Marinaと別れを告げ、Philip, Smith夫妻(Sandiegoで Dr. Kohnの指導を受けたとのこと)とGeneveの街をぶらぶらする。 先ずレマン湖の水の綺麗なのに驚く。 底まで見えて、魚が一杯。 水量が豊富なのも一因だろう。 しかし街も綺麗だし、大学も公園みたいな感じ、飛行場にも10分くらいだし、生活程度も高く、今までで一番いい街かなと思う。 PhilipはBeaunに行くと言って1時半の汽車で先に出発。 駅のInformationでAustinからParis行きの汽車の便を尋ねたら、朝6時40分発でParisに12時過ぎ、12時過ぎのでは7時過ぎでないと着かないという。 とても不便なので、中止して飛行場に行き、パリ行き5時半の飛行機に乗る。 偶然 Colloquiumのsecretary(Palo Alto付近に住んでいて、Ohioで育ち、Battelle勤務でJaffeeのofficeにいる)と話す。 もう一人のsecretaryが Villa des Fleurs (11 la rue de liege)に行っていて、部屋をどうにかしてくれている筈。 25フラン(1500円)でとまれるので、ジュネーブの50何フランの部屋をキャンセルして急に行くことにしたとのこと。 僕はInvalidの近くにしようと思っていると言ってair terminalで別れる。 コロキウムで聞いた話ではパリは9月になれば宿は心配しなくてもあるよ、と言うことであった。 Hotelの世話をする所に行ったら、深刻な顔をしている。ままよと、この前(14年前)に泊まったホテルがその近くにあるので、荷物を持ったままでかけたが、見つからない。 仕方なしに戻って来て、大きな荷物をロッカーに預け(これは正解)再び探しに出たが、駄目。 仕方なく再び戻って来ても前の人たちは全然片ついていない。 要するにパリ2000のホテルは全部一杯なのだと言う。 そんなものかと、電話帳で、Villa des Fleurs, Michel何とか、幾つかっかけてみたが、皆揃いも揃ってcomplet!! 空いている宿を知らないかと言ってもとてもとても。 Maison du Japonも電話なし。 10何人もの人たちが、二人の事務員の女の子が外から電話を受けるのを待っている。 一時間に二人も片つくだろうか。you are luckyと言われて、いそいそと立ち去る人、時間は10時を廻る。 いよいよなら道で寝るしかないという。 スイスで聞いた、9月になればパリ-のホテルは問題ないなんて.とんでもない事.こんな経験は初めて。 ついにパリの郊外25kmの所にあるホテルならと言うことになり、その前からタクシーに乗るか、汽車ならAustritzまでメトロで行って(一回乗り換え)そこからさらtaxiとのこと、Austritzまで苦労して着いて、いざtrainになると、大変なことを言う。乗換えがあるそうだ。 とても申し込みの11時半までに着きそうにもない。 仕方なくそこからタクシーの長い行列につく。 折からの列車の到着で長い長い行列。 しかし割りに早く回転している。 こちらの番になり、行く場所を見せたら、とても駄目と言う。 乗車拒否である。その近くにいるポリコウにどうしたらいいか、を尋ねたら、ちょび髭を着けたその巡査は、その次のをトライしろという。 矢張り駄目。 もう一つをトライしろという。 次のをトライしたら、やっと行くと言う。 (結果的にはAustritzに行っただけ近くになったわけではなかった) 暗闇の中をOrly空港を横に走りに走る。 横にそれて、走りに走り、Paris方向の道に沿ってまた走り、うんと遠回りをして、一時間ハイウェイを走る。 やっと着いて12時一寸前。 100フラン(6千円)  Hotel Kois XIというD'Orleay Monhonery(?)、で待っていてくれた。 早速疲れ果てて部屋に入る。シャワー、洗面所つき、double bed 70 Fr  窓の外は車が沢山走りとてもうるさい。 12時半ころようやく寝る。 実に大変な一日だった。

9月8日: 朝8時朝食(朝食は別払い)をすませ、パリに如何したら行けるかを尋ねる。 汽車はあるが駅までタクシーで不便だし、バスがいいという。 バスでどのくらいかかるかと言うと、1時間足らずだという。 昨夜タクシーで1時間かかったと言うと、とんでもない、せいぜい30分、50フランだと言う。明かに昨夜は遠回りをされたのだ。 バスで5フランでおつりが来た。 仕方なかったとは言え、まんまとやられたのだ。 案外早くパリに10時頃に着く。 Invalidに行って宿を見たが相変わらず一杯とのこと。 荷物を置いてOperaにメトロで行き、その裏のホテル3ヶ所聞いたが皆completの札を下げている所も少なくない。 Invalidにもう一度戻ると、矢張り深刻な顔で10何人も待っている。 日曜日なので、officeも一人だけ、とてもらちが明かない。

もうこんなけちなパリなんて少しも魅力もないし、Londonに行こうと、Air France6時半のが空いているが、Orlyに行けばその前があるかもと言う。 その積りになってVilla des Fleursに電話をしたら、ありそうなことを言う。 早速荷物を出し、メトロでMadleineに行き、大分尋ねたが、歩いてやっと11 rue de liegeを探し当てる。 英語は駄目だが、案外感じがよい娘と若者が受けてくれる。 早速出かけて遅い昼食をとり、明日のために再びInvalid にとって帰り、Air France12:45を予約する。 11時までにInvalidに来ればいいとのこと。 帰って2時間ほどとろとろする。  1泊15フラン、朝食6,75フラン気持ち悪いほど安い。 石鹸、バスなしだが、敷布も新しい。

9月9日: 15フランの宿は5階で、火事になったら如何逃げるか心配な建物、床はきしむし、絨毯もひどい。 タオル二つ。 ぐっすり眠った。 家に手紙。

朝9時半Lafayette(オペラの裏)でベレー帽15フラン(千円)二つと、紳士用の香水3個(8千円位)を買い空港へ。 12時半にロンドン行き、機中で大和銀行の若い研修生(井沢、イデサワ、と福田氏)と一緒になる。 Haywardも Philipも不在。 一緒に大和銀行に行き、二人の挨拶を横で聞き、夜屋内さんと西田さんの招きで、アキコと言う日本料理に行き、刺身や照り焼き、ビール2杯。Hamsteadの高級住宅地の中の協和銀行のホストを入れるペンションに入る。 安い筈。 中身もマアマア。 支店次長の話だと、ロンドンは一番情報が集まる所で、未だにN.Y.よりも中心的な役割がなされている面があると言う。 自由だし、仕事をしても、面白く、仕事がドンドン増えていくと言う。

9月10日: Hamsteadの下宿Inn、32 Willow Rd. Hamsteadを8時半に出て、地下鉄の駅へ。 Cambridgeへの電車、King's Crossから乗る。 (Liverpool Stからも交互に出ている) 1時間20分。 田園の中をはしり着く。 早速それらしいバスに乗りCity centerへ。 そこから徒歩でMarketでりんごを買ったりしてSt.John's Collegeへ。 素晴らしい環境 寮は日本だったら新婚用のサイズ。 寝室と居間とが仕切れるようになっている。 芝生の見事なこと(Fellow以外は入れないとのこと) 今回のFaraday Discussionの印刷物中に寮の件があったが、、その中の最後に、芝生に入らぬこととあった。 まるで絨毯の様。 概観は古くても中はすっかりペンキその他新しくなっている。  Dinnerの食堂の堂々たること、14世紀からNewtonその他、世界のleaderを育てたと言う実感がひしひしとする。 後でFranck Stoneに聞くと、此処は特別で、他の大学はこんな風ではないと言う、それだけ入学するのは大変らしい。 Faraday Discussionは5分発表、合計12時間だから、10時間の間に総合講演二つ(30分ずつ)、と22の発表論文を片つけることになる。Discussionはあとから10月14日までにおくること。Plummerの話はGstardと2度目なので、解かり易い。

9月11日: Faraday Discussionの集まりでで先ず感じたことは英国人が主であると、割に冷たい付き合いで、新人をドンドン紹介して仲間に入れる米国式とは感じが随分と違う。 デンマークから来たドクターも孤立していた。 胸に張る名札が普通のタイプなので小さく、よく読めない。 何となく付き合い難い。 ドイツでもそうみたい。 ロンドンにパリから着くと、街が綺麗できちんとしている。 流石に山高帽の品のよいじいさんもおり、大学の営繕のペンキ塗りのおじさんも白いひげを蓄え、立派な顔の人も少なくない。 英国人の女の人で、目がくりっとして、澄んで理知的なよい顔の人もちょくちょく見かける。 一日Faraday Discussion。そろそろ疲れた。

9月12日: Faraday Discussion午前で終る。午餐にProf. Norrishとポーランドのパルチェフスカヤ(母はロシア人)教授と一緒。 Norrishは彼女に、無理することはない、共産党に入って政府と協力したらいい。殺し合いほどバカなことはない。 Realisticになりなさい。 レンガに向かって蹴っても無駄だよと言っていたことが興味深かった。 Cambridgeからの帰途Plummerと一緒になり、SchriefferがGstardでこれを計算すると面白いなど。でもやる気はないくせにずけずけ言ったことについて、、それはPolicyとして全然駄目と言ったら、 financialに損をするだけではないかと言っていた、といろいろと面白い話をしていた。 アメリカ的だよね。 

9月13日: イギリスでの給料:教授;7000/y(約500万円), reader;6000/y: lecturer;5000/y (それぞれトップの額)

9月14日: Sir Eric Ridealに入院先に菊の花を贈る。 地下鉄Marylebone
から電車で45分 ロンドン郊外にMrs. Machieの家を訪ねる。 

9月15日: ロンドンからワルシャワ経由クラコウに行く。 ジョウジ・ハーバーさんの家でご馳走になる。 

9月16日: 昨夜は疲れてそのままベッドへ。 朝風呂に入り、さっぱりするも寝不足。 10時にジョウジ迎えに来て、早速研究室へ。 Floatation、吸着、反応、NMR、など道具立てはESCAまで揃えているが、一体何をやろうとしているのか。Dr, Gijyboioska(グジイボスカヤ)と言う女の人に案内してもらう。 女の人が半分以上の感じ。 1時半からmicrowaveの話しをする、EDAのことも混ぜて。とても疲れる。 街でMoscow行きのreservationをconfirmして4時半に Hotelに帰り、早速午睡。とても気持ちよくなる。 7時半Haber夫妻一緒に街一番のレストランへ。 六,七百年を経たもの。 何が食べたいかと聞かれたから、当地の特徴的なもの、といったら、生肉を食べさせられた. 街の中心街を真中に,昔城壁だった所がgreen beltになり,三つのringになっている。 ジンギスカンが責めて来て、その時の見張りをしていた兵が敵が来たよ,とラッパを吹いて知らせている最中に射抜かれて倒れた。 今でも24時間定刻にはそのラッパをその倒れる所まで吹いていると言う。 世襲制度で,エレベータもない階段を上がって毎時間吹いていると言う。 街では古い建物を意識的に残している。 特に夜の照明が美しい。

9月17日: 朝Dr.Brickmanの案内でお城を見る。 彼女は双子で,その片割れは,英国人と結婚してCanadaにいる。 彼女によると,家賃は月800zl,食費3000zl男の子二人と旦那で,月6000zlはかかると言う。 彼女が4000zl,だから,車を持つのがやっとの所。 車は禁止的な値段だが,アメリカにいたので,ドルを持っていたので買えたと言う。【1zlが10円位】 ソ連はホリブルな国だと言う。 ジョウジは子供もいないし,アカデミー,工業から月2万zlも稼いでいるし,犬だけで,奥さんも働いているし,と言っていた。 街は工業地帯からのpollutionで,洗濯物も干せないと言う。 石油がなく,石炭を焚いているからでもある。 ホテルでの泊まりが400zlくらい。

9月18日: 昨晩よく眠れず。 6字にジョウジに送られて空港へ。 双発プロペラ機で50分,ヴァルシャヴァ着。 早速物理化学研究室のパルチェフスカ教授に会う。 IR,AES,表面電位などなかなか着実にやっていた。 14:00のLU モスコウ行きへ。 モスコーではカザンスキー教授が迎えに来てくれていて,ものすごく助かる。 アエロフロートホテル【次の間つき】に泊まる。 相変わらずの安普請。 街ではもう皆は外套を着ている。 

9月19日: 今日は今回の旅行の最後の日。 11時頃Kazanskyの研究室へ。
研究室の入り口では摂氏10度を示していた。 戦後10年の日本の研究室に近い感じ。 しかし街では車が多くなり,ホテルロシア,ホテルメトロポールなど近代的なホテルが出来てきた。 カザンスキーさん熱心にH2-D2交換反応、光触媒反応の話をしてくれる。Krylovの所でマルゴリス,ザハロフス,トリチャコフらと会う。 驚いたのはKazansky(vice director)の研究所が千人、Krylovのが数千人,科学者だけでも1500人いて,その大部分が反応をやっている。    Semenov所長が1930年代に作って以来の伝統。 化学物理研究所と言うのだそうだが,Voevodskyが育った所でもある。 固体触媒は50人のメンバーと言う。 来年の日ソ触媒セミナーはAlmataだそうだ。 8,9月頃か。   

9月20日: 東京時間11時半に羽田着。関税もただパス。 矢張り日本はよいところ。 先ず食事の美味いこと。 奥さんのやさしいこと! 本当に幸せ。

1875年
6月8日:朝10時20分(day light time)サンフランシスコ着。約8時間の飛行。MichelとPhilipが迎えにきてくれる。大きいい弁当を持参してFaculty Clubへ。疲れてヘトヘト。時差は矢張り堪える。8時過ぎに眠る。

8月9日:朝2時半に目覚める。講演の用意をする。6時ごろ再び眠る。8時にと頼んであった朝食,黒人のでかいおばさんがノックして起こされる。よく眠っていた。 9時にミシェルのオフィスへ。午前中彼の仕事,こちらの仕事を討論Philipを加えてFaculty Clubでランチ、Philipと共にBerkeleyへ。 Gabor Somorjai【ハンガリー語でショモリヨイと発音する】の研究室を見せてもらう。LEED,AES,総勢15人位。高圧もやっていた, hydrocracking, isomerization、などやselectivityも。EDA上でNO,CH3-NH2, CH3CNなどをやってみたらとsuggestされる。5時にPhilipと会い,6時半くらいにStanfordのFaculty Clubに。 程なくMichelの家へ。 Catalyticaの顧問弁護士(Peter), van Tamelen, Stanford Newsの編集者,大学の学部長【心理学選考】など10人位。12時に帰る。クタクタ。洗濯をして1時頃バタン。

6月10日: 朝Spicer教授の研究室、synchrotron radiation labを見せてもらう。キムというHong Kongからの学生が案内する。11時よりMichelのlabの連中に講演。【150ドル貰う】。昼食をJim Cusumano(Catalytica)と共にする。カタリテイカは昨年Michel, JimそれにRicardo Levy【共にExxonから】 と始めたCunsultingの会社で,よい officeを持つ。JimがPresident。2時過ぎにSRIのSancierのところへ。4時より1時間余り講演。Henry Wiseがベタ誉め。Single wordも探さずに,流暢にやったあの見事さ,英語を如何に保っていたかと。この誉めすぎで減点。夜Ken Sancierも所で (Roy Morison, Henry Wiseと)。シシリー食のレストランで Abaloneを食べる。 11時頃モテルに帰る。洗濯して12時頃就寝。

6月11日: 朝SRIのチェックを現金にして【100ドル】ラケットを買いたかったが,よいものなし。10時にHenryが迎えに来てSRIでWood等とdiscussion。Kenがairportまで送ってくれる。 13:50の便でHoustonへ。Joe Hightowerが迎えに来てくれ,ホテルへ。Sallyと言うDr.をとろうとしている感じのいい奥さんに会う。街を案内してもらい,彼の研究室【失望的】。昨晩は Mermaid Inn,今晩はWarwich Hotel【特別に安くしてくれ23ドル】 この旅行中に聞いた話:Californiaでは結婚した4分の3は離婚するとのこと。黒人の事を Negroというといけないで、coloredにしていたら、coloredはいけない、blackと言うのが正式となって来た。Stanfordではblack houseがあり,彼等の家がある。黒いのは美しいのだそうだ。 10年前には基礎の連中にはusefulと言うのは見下す感覚だったが,しかし今はどうだろう。役に立つことをしないと,金は来ないし,学問にならない。触媒はartだから化学の中に入らない,化学工学に行くべきといっていた連中が合目的的になって来つつある。夢を追う scientistsの道楽がそのまま認められなく「民主化」して,人民のため,社会のため,のものになりつつある。人によっては嘆くだろうが,それが本当なのではなかろうか。 同棲はアメリカでも盛で、男でも女でもよいアパートをシェア-したいという広告が多いそうだ。でもinsurance、taxなどは不便とのこと。時代は移るものだ!Hightower研で講演。その前にProf. Lelamd【リーランド】と酸化亜鉛の上でのH2-D2交換反応について懇談。筒井教授が来てShaufferと共にCollege stationまでたっぷり2時間係り,緑の腹の中をdrive。Australiaを思い出す。夜Texanと言うレストランで奥さん(Biochemistryのassoc,Prof.)と会食。

6月12日: 昨晩は一晩中air-conのfanがガタガタして一睡も出来ず。8時過ぎにDr.Flemingホテルに来て朝食を共にし、Deer ParkのShellの研究所へ。

 Deer Parkなど何処からつけたのか,と思えるほど,工業地区,所長のDr. Brussに会う。来年には新しい所に移るという。講演。Otvas,Wagner,Flemingと会食。 午後数人とdiscuss。疲れてJoe HighTowerの研究室へ。4時に帰る。

6月13日: 朝筒井教授がノック3回で目覚める。途端にyesと言ったので,吾ながら苦笑する。この旅で初めての熟睡。8時まで。数坂君と筒井さんと朝食。午前Martell主任に会い,11時からlecture 合格点。午後Rozynick、 Lunsford筒井さんらの歴訪を受ける。19:00出発・

6月14日: Dallasの巨大空港をmanageし、Holyday Innに昨晩泊まるも。数時間しか眠れず3時起床。Pittsburgで2時間、Ithacaに12時過ぎに着く。Prof. Thor Rhodinのお迎え。彼の家へ。昼食後研究室見学とラケット【ヘッドのマスター】買い。夜ボーイスカウトの集まり,,昨晩ほとんど寝ていなかったので,眠くて辛かった。夜木下さんに電話で挨拶をする。眠る,よく眠った。

6月15日【日】: 朝ゆっくり朝食を取り,9時半頃ThorとNew Hampshireに向け drive。途中湖あり,山あり,川あり,森の中,牧場を幸,なかなかよい風景。 Thorといろいろと話しながら楽しいdriveだった。彼は一寸神経質ではあるが,好人物。Colby-Sawyer大学に4時ごろ到着。Gordon Research Conference. Officeで手続きをし,Best寮319号室、Robert SquireなるPurdueの化学工学の先生と同室。夜receptionがあり,久し振りにいろいろな人たちと会えて楽しい。一杯の130人位参加し、倍の希望者を絞るのにGary Haller君大変な苦労をしたらしい。新しいtoolの問題点,dynamicな取り扱いから,不斉合成,自動車の問題まで,各種取り混ぜての企画だけに人気も出て来たらしいし,触媒人口が増えて来たらしい。殊に energyに関連して,大変な切迫感予算配分にも現れている。

6月16日:SomorjaiとHaller重い実のある講演から始まる。Somorjaiが現実の触媒にまで及ぶextrapolationをスケール大きく纏めた。ジョージも酸化反応を一般的に分類して大講演だった。午後Thorとテニス。彼の娘さん【23歳で Cornell大学生】のラケットを借りて6-3で勝つ。Annと言うその娘さんは17〜18歳の頃問題児になり、これは栄養から来ると言うことをElspethが結論し,砂糖を断ち、Vitamin Cを沢山食べさせて,直したと言う。夜はBennett教授のTransient approachの話。何の事はない15年前にProfessor Tamaruのやった話ではないか。しかし、それでもone of themとして紹介されることになる。  

 Kokes and Dentより前に出てはいたが。化学工学の人と化学の人との
 Discussionが印象的。

6月17日:今朝はMadixとVanniceの話。ボブのは相変わらずHCOOH分解の話しで、分子線の問題,定常的なCarbonでコンタミした表面での分解は選択性が異なると言う。Vannice(Albert)のはCO/H2の話。午後4時ごろまで緊張して夜の講演の準備をするが、それからThorとテニス。今日はHeadのMastersという新しいracketのstringを張って初めて使う。【本体38ドル,stringが15ドル計53ドル,アルミ枠】6-2で勝つ。夜7時半から講演。まあまあの出来。質問三つ位あったが,大したこともなかった。しかし、沢山の人たちから,素晴らしかった,よかった,とお世辞を言われる。気が抜けるように安心し,夜は飲んで付き合う。

6月18日: 今日はEastmanとBartley(Texas),夜はKaganの話。Eastmanのは流石の内容だが,機関銃のように喋り捲る。午後Thorとテニス。6-0で勝つ。 Steadyだと言われるが,暑くて余り続けずに止める。好天が続く。Kaganの話はThor,あの英語解かったか,貴方の方が余程よい英語だと言う。夜Bobと米国におけるChem. Eng.とChem.の区別を話し合う。Prof. Fennによると Chem.Dept.でやっていることがChem.で、Chem. Eng.でやっていることがCgem. Emg.であると言う。 米国大陸でpilを飲用していない人はいないであろうと。そのゆえか,女の方が積極的にくっついて来る。離婚もいずれ半分【今は三分の一位】になるだろうと、カルフォルニアでは4分の3。大学教授の給料は助教授で月,700/9ヶ月位から始まり,純教授で2,000ドル。教授で月4,000ドル位までとのこと。今度の集まりで感じたことは英語の話す速度の違いはともかくとしても,言葉の内容が違うことである。助詞の使い方がずばり言えること。Tennis courtはdown below,とか,あの山はfogged inとか,何とかupとか、

彼はout goingとか、concise字引にない言葉が出て来る。

6月19日【木】:今日は朝JohnsonとJenkins(Shell)の話。Johnsonは流石に堂々と話す。JenkinsはTemperature programed Reduction簡便な方法。午後 Leo Rheaumが家に帰るとついでにわざわざ寄ってくれる。一緒に楽しく昼食、 driveして4時過ぎに別れる。夜はBanquet。Lobsterのでかいのを2個食べたが、もっと食べた人が多い。300cookしたとのこと。夜はドンちゃん騒ぎ。

6月20日【金】:今日は最後の日で,フォルクスワーゲンの人とYatesが話す。 Yatesのは面白かった。日本に印刷物を送り,bankで40ドルを現金化した。午後1時Gary Hallerと CO Bemmett、カルロス、とJohn Butt(Northwestern)と5人でdrive。C.O.の所で食事,Connecticut大学も見せてもらう。夜11時過ぎにGaryの家に一寸寄ってからYale Univ.のGuest roomへ。

6月21日(土): 朝8時からGlyzianovと一緒になり,Garyに連れられて見物,大学の中をぐるぐる廻る。昼食はGaryの家で。Garyの奥さんはSandra。夜は大学の食堂,それに学生寮を見る。偶然桂井先生に会う。

6月22日:朝9時のバスでニュウヨークへ。更にPrinceton【12時半着】 Sir Hughのお墓見つからず,Charles Rosenblumに尋ねたら知らず,娘さんのCylvia Heakeyに聞いてくれる。早速Charles夫妻【初対面】と行き,解かる。CharlesとRogerとCarolinaの所に行き会う。Ptof. SpencerもわざわざCharlesの所に来てくれ楽しく話す。Cornforth夫妻の家も。素晴らしい家。下村さんに会う。

6月23日【月】: Allied ChemicalのTang Po(Princetonで学位)が迎えに来てくれ,朝食を共にして出社(Morristown)Rey Andersonなる中ボスに会う。午前は誰か他の講演者とかち合い直接discussion、CO+H2についていろいろと質問される。10人近くの前で。Anderson君ズーズーしい典型的な米国的やり手のタイプ、デリカシーやintelligenceのない話し方。Pez君は奥さんはビルマ人,ずっとintelliでよい点を突いていた。触媒のlifeが問題。午後講演。出たとこ勝負だったが、慣れたせいか,原稿も見ずに【原稿はないのだから】すらすらできる。英語を誉められる。4時に開放され,Marada Inn(?)に行く。7時半にボブGarton,Vannice夫妻計5人で豪勢な料理を食べる。美味くない。

6月24日: 今日はExxon,8時にVannice夫妻迎えに来てJohn Sinfeltに会い,合金Ru-Cuが全然混ざらないのに,selectivityがC6H6+H2で極端に落ちる話,楽しく話す。10時から講演。うまくできる。Vannice君の部屋に韓国からのKim君がおり,よくしてくれた。午後討論。TerryTownのHilton Innにリムジンでドライブ。1時間半くらいかかる。Tapen Zeeb ridgeの近く。くたくた疲れる。ようやく一人で夕食。何時も英語で喋りながらでは大変。夜内藤君に電話,悌二さんとも15分くらい喋る。

6月25日【水】: Hilton Inn【一泊33ドル】に9時頃Dr. Castellion迎えに来る。ようやく最後の講演が済むところ。ほっとする。しかし右横腹が少し痛む。 10時からEDAによるCatalysisの講演をする。マイクなかったが無事に済む。午後2時間discussしたが。極めてmild。DR. Castellionは一見英国紳士風で丁度2Mの背丈。松永北大教授とよく知っていた。America Cyanamideに行って1年5ヶ月前にStanfferに移った人。4時にtaxiでLaguardiaへ。空港からWolfgang, Jaeger,荒木君に葉書を出す。7時30分American Airlineで Torontoへ。9時少し前にToronntoへ。早速内藤家へ。横関君を加え3時ごろまでご馳走と歓談。

6月26日: 朝9時頃ゆっくり食事。ぶらぶら大学に行く。Dignan,Metzinger それにOzinの所へ。昼食後買い物。Maple syrup一ダース送る。昼寝1時間余り。夜Prof. Allen夫妻と話す。楽しく,愛想のよい人たちだった。英語も解かり易いし,気を遣ってくれるし, Canadaについていろいろと尋ねる。クリヶットよりも野球の方が盛んだと。カナダは安全だし,適当に豊かだし,夜内藤君たちと2時ごろまで話す。

6月27日: American AirlineでSan Francisco行き8時の飛行機。1時間でChicago着。4時間更に飛んでSan Franciscoへ。1時間半してJAL13:00発で直行便で10時間15扮して東京へ。退屈するが努めて眠るように努力。トロント時間と東京とでは11時間ずれているので,1時間進めれば東京時間になる。12時間昼間が余計あった事になる。日付け変更線を過ぎるので,一日丸まる損をしたことになる。やれやれやっと帰国である。
第1回中国訪問

【1975年8月4日から19日】(2003年9月に18回目の中国訪問をしたが、これは初めての中国訪問の記録である。その頃は毛沢東さんも元気だったし、四人組の文化革命の時代だった。この時代は後で訪中すると,皆口を揃えて,「われわれは皆四人組を憎んでいました」と言う。「そんな時代が何故十年以上も続いたのですか」とわざと尋ねると,「田丸先生は難しい質問をなさる」と言われたものである。それまでは私の親しい友人の家でも,高校生であった息子が「西洋音楽がいけない」と言うことで,父親が大切にしていた西洋音楽のレコードを全部割ってしまったり,大事に育てていたランの鉢をこれはブルジョアのすることと言って全部捨ててしまったりして、お母さんはとても悲しかったと話していた。四人組の時代が終って,それまで中国共産党の名で言っていたことが180度変わってしまった頃は,それまで心から毛さんを信じてやって来た殊に若い人達は全く何を信じたらよいのか途方にくれたそうである。我が国の終戦の時代を思い出させるものがあったようであった。四人組の時代が終って中国科学院の総裁のリュウジャーシー先生に秀子と招かれて北京で北京ダックをご馳走になったことがある。その時リュ−先生が繰り返し力をこめて言っておられたことは「これからは人作りです」と言うことであった。四人組の時代には貧農の出だからと言って大学に優先的に入学が出来たり,インテリの子は拒否されたり,で、学問的に十年以上全くのブランクになってしまった時代である。中国にとっては結果的には大きな損失を蒙った時代であった。(北京ダックをつつきながら,太った劉先生に、「我々にまでこんなご馳走をお招き頂いて,先生は痩せることが出来ないのではないでしょうが」と申し上げたら,「それそれそれが問題なんだ」と笑って言っておられた)しかし第1回以後中国を訪問するごとに中国は変わった。物凄い勢いで変わって行った。最近の訪中ではこれが共産主義の国など、全く意識されない国になっていた。それだけにこの最初の中国訪問は後々まで大変に強い印象を残したものである)

8月4日【月】: 午前10時半羽田空港国際線エールフランスの受付の前に集合。程なくVIP控え室F号【2階】に集まる。森川,尾崎,山本,慶伊,小林,田部,辻,田丸,それに日中経済協会から坂本秘書と中村通訳。訪中触媒技術交流団と称する。辻夫人,一番下のお嬢さん、尾崎夫人と下の娘さん,高木さん,小野さん、服部【北大】さん等,マミと秀子も見送りに。エールフランス179号,12:05に乗り込む。その前に一般的注意あり,お土産は不要とのことで、自分たちの飲みしろとしてサントリXOを一瓶2160円で買う。中国では¥3,000以上の貰い物【外国品】をすると,月給からそれだけ引かれるとのこと。勿論全部申告するとのこと。従ってもしも是非あげたければ中国内の外人用の店で中国品を買ってプレゼントするとのこと。

少し遅れて出発、2時少し前に福岡着。途中サンドイッチが出る。2時半過ぎに出発し,北京に日本時間5時半頃着く。一時間の時差。こんなに近い隣国に初めて来るとは。空からの中国は特に変わったことはないが,ただ人家の疎なこと偉大な拡がり。飛行場で早速入国手続。化工学会からの人5,6人迎えに来る。飛行場の中での初印象,日本人的で,丁重 。空港では今日の便9便,その内外国便は3便。到着してもmain buildingまで,タラップを降りてから大分歩かされるし,設備らしいものも何もない。原っぱをコンクリートで固めて2階建てのビルを一つ建てた感じ。勿論例によって毛主席のでかい写真がデンと建物の外側で歓迎してくれていた。空港ロビーで化工学会の人と紹介し合い,礼を言い,極めて和やか,好感が持てる。「上海」なる自動車6台を連ねて出発。未だ新しそうながっちりした中型車。直ぐ並木道に入り,50kmの時速で半時間ほど,緑の並木道を走り,街に入って来るが,その間すれ違ったバス(ぎっしり混んでいるのが多い)数台,バギー数台,外車2,3台、家はほとんどない。ぶどう園など畑の中を走る。並木道,所々で道路に尻を下ろしている人,ぼんやり見てる人,それに自転車百台も見ただろうか。男女ほとんどの人が半そでシャツにズボン(灰色か黒が多い),稀にスカート,それも色模様のあるものも。履物はサンダルかズック靴,皮靴はない。Yシャツはすそをズボンの外に出している人が97%位。この並木道なかなか美しいが交通量が少ないので,しばしば道の真中を走って行く。ブーブーホーンを鳴らして「オトウリダ!」。北京の街に入って来ると,流石に自動車の数が10台,20台くらいと混んで来る。自転車の多いこと。土の塀、壁家が見える。所々に近代的な西欧式のアパートも見える。まっ直ぐに広い道が走る。交通信号は全然と言っていいほどない。市場も炉端で人がたむろしている。人を掻き分けるように自動車が走る。忽然と,正に忽然と、立派な17階のビルに入る。これが北京飯店の新館。スケイルのでかい「帝国ホテル」。部屋は5034号。ツインの一級、電動式カーテン,勿論お湯も出る。全てアメリカ式。正に忽然と別世界がある。8時から打ち合わせと言うので,7時まで約30分小休止してから,一緒に下の食堂へ。そこで定食(5皿位)を食べる。中国料理!8時より4階の部屋で向うの4,5人と会い,日程打ち合わせ。ボーイもすべて本当に丁重で,礼儀正しく、真面目。食事の時にビールを飲むが,流石チンタオのドイツ式のはソ連のより美味い。会議中はお茶か,シトロンかオレンジの冷えたジュース。ドンドンついでくれる。そう言えば,建物は全館冷房。外は,飛行機では気温31度と言っていたが,もう少し高いみたい。講演は全部北京でするだけ。終って森川団長の部屋(テレビと冷蔵庫あり)で相談。11時少し過ぎ就寝。靴下だけ洗濯して。[部屋代8,000円,ほとんど一月分の給料]北京ホテル[北京飯店]は141,000m2,900余りの各種の部屋,1,800余りのベッド,中でも新館は素晴らしい。旧館はエヤコンなしらしい。一日50元。ホテルの電話番号は558331.日中経済教会の北京事務員の椿博行さんに会う。今回の旅行は中国側の言い方によると,「座談」するのが目的であるが、日本では「交流」と言わないと通産省が許さないと言う。

8月5日(火):午前紫禁城を見て、昼食までの間に街をぶらついて見た値段は次の通り:人民帽、1、Yシャツ,16〜12元,靴はサンダル¥600〜800、皮靴,5,000。 街で印鑑を二つ注文する;ケースをつけ全部で5千円くらい。街の雑踏振り,しかし石鹸,化粧品などソ連より出回っている感じ。 朝8時50分ホテルから自動車「上海」に乗って,近くの紫禁城[故宮]へ。兎に角デカイ城。500年余りの歴史を持ち,敷地72万平方メートル,部屋数9千余り,しかし大分荒れているところが多い。見物人一杯。自動車で走る時、ホーンを鳴らし,鳴らし掻き分けるように走ると,一方どんな人たちなのだろうか、と皆々好奇心に満ちた眼差し,8ミリなどを撮っているとじっと見ている。カメラにも好奇の目。しかし中国人でも一人,二人カメラで写していた。故宮の中の博物館,これは中国人には見せないらしいが,なかなか優れたコレクション。もっと素晴らしいものが台湾にあるのだそうだが,紀元前のものがズラリズラリ,中には素晴らしい陶器もあるし瑪瑙杯もある。玉によって飾るもの大変に近代的な感じのものもある。昔宮中で用いた飾り物も素晴らしい。しかしよく見ていると,ヘンな中国人は要所,要所で排除している。気がつくと,ホテルの入り口でもそうだし、重要な建物には全部兵隊さんが居る。人民日報の建物には剣を着けた銃を持って立っている。軍の管理下ということらしい。昨晩の夕食はビールを含めて,一人500円,今朝の朝食は5皿ついて250円。
午後北京西方約70kmにある石油コンビナート見学、北京郊外の畑を抜けて山の麓に忽然とコンビナートが現れる。早速挨拶。工場は製油,ゴム,プラスチックス,アンモニア,洗剤,クラッキング、修理,動力の8つの部分から成る。日に450万トンの原油加工能力あり,今年末までには900万トンになるだろう。ベンゼン,キシレン,プロピレン,フェノール,アセトン,アルキルベンゼン、間もなくブタノール,オクタノ-ルも生産される。硝安,高圧ポリエチ,ポリエステル等も遠からず生産されるであろう。33km2の敷地の中に4.5km2有効に使っている。職員,労働者は24,000人[建設,商業,医療関係も含め]。1968年に建設開始,self-made factoryである。外国からもこの2年間plantを輸入した。日本の東洋エンジニヤリングなどからポリプロ,住友化学から高圧ポリエチ、日本ゼオンからブタヂエン装置を輸入し,建設に入っている。全発電力は7万キロワット/hr,これが全必要量の三分の1に当たり,残りは他から入って来る。水の使用量はかなり緊迫しているので、冷却用水の節約をしている。汚水はrecycle waterとして使うが,大部分はダムに流し,農地用に用いている。我々の経験不足で,生産性は必ずしも高くない故,問題点があったら教えてくれと言う。原料の一部は大慶よりパイプで送られる[大慶からの距離は1,500km]。工業用水は地下水。硬度高い。platforming,cracking等に広く触媒を用いている。Acetoneはcumene法を用いている。汚水は油は沈降、floatationで、3mg/lに油を切り下げ, sulfurは酸化してsulfateにして除く。何故このような山間,凸凹の所に工場を作るのかと尋ねると,第一に大都会に遠からず,近からず第2に農地をつぶさない,第3に国防上の理由と言う。本音は逆の順かも。しかし工場の技師長さんはテキパキして何でもよく知っているし,非常に有能な人のように見受けられる。第一顔つきが違う。1968年から始めて,昨年初めて新聞記者に公開した。全く自力でやり遂げたと言うから大変なもの。外国技術を買う金がなかったこともあろうが,工場の各所にスローガンがベタベタ,その意味も解かる。9割以上は追いついてきた感じ。途中の農村地帯に土塀の家々,パールバックの「大地」を思い出させるが,所々に近代的なビルも建ち始めている。北京の街中もそうだ。従来の土塀の平屋の中に近代的なアパートを建設している。地下鉄もあるらしいが,外人には時折しか見せない。米国は大使館はなく,連絡事務所のみ,但し連絡事務所長は元英国などの大使を勤めた人とか。

疲れて30分くらい横になってうとうと,7時より化工学会,理事長等と北京ダックのもてなし。ホテルから歩いて5分余りだが,自動車で行く。北京大,北京化工研究院院長,中国科学院、など20人ほどの人たちが迎えてくれる。大歓迎,大歓迎。例により建前の挨拶の交換。それに建前の座持ち,勿論終始和やかで,完璧。隣に北京大学の唐有チ(棋、但し木へんでなくしめすへん)[タン,ヨーチ]教授(カルテックでPaulingの所で1949年学位をとり,1951年帰国以来在中国)。北京大学は現在約6千人の学生、その中3分の1は女性,従来6年の教育を3年半にした。文化大革命で,3年半の間休校したので,現在大学院生は居ない。大学に入って来るのは20歳[または以上]で2年間社会で働き,社会を知ってから来るのが大変な変化。この国での触媒の基礎研究は北京と東北部、上海の3ヶ所でなされており,ESCAは製作中。中国科学院や各大学からの印刷で研究発表があるが,皆がより集まる学会はほとんどないみたい。第一広いから。結婚は男28歳,女25歳以上で,離婚は稀とのこと。段々建前のもてなしと建前の付き合いが偽善に満ちてきたのが気になる。しかしそれが全然気にならない人もいるようだ。

今朝中国の金に換える。ソロバンでただ普通の事務室。金庫もなく,4万5千円を290元余りになる。(\155/元)早速絵葉書2セット90毛と切手10枚,4,30,印鑑が30元一寸かかる。夜数えてみたら,251元位。何処に行っても親切で,丁寧で,行き届いている。米国とは余りに違う。矢張り日本と何か共通点があるようだ。[北京ダックの作り方,毛をむしり,羽の下から内臓を出し,尻に栓をし,外側から麦芽糖の溶液を塗り,腹の中に湯を入れ,250度で35分腹の中が丁度dry upする]  

8月6日: 朝、田部さんと買い物。レコード屋に行き京劇など7枚,17,40元、人民帽4つで6元位,さらに昼食後山本さん,小林さん,田部さんとで北京友諠商店へ。タンケイの硯,130,拓本幾つか、4.41,ホタル焼き茶碗5つ,1,15,石の彫り置物,4,50、ラクダの骨の彫り物、9,40、花瓶,1,56,切り紙細工,2,85;1,50,老酒,8,00、タクシー2,00などの買い物。比較的安いだけに,重くなければ是非買って帰りたいと言うものが沢山ある。中国人は全く入れないで土産物専門。その途中土塀に囲まれた家々があり,如何にも中国的で,写真を撮りたい魅力充分だが,明日椿さんと一緒に来るまで待つことにする。
夕方4時通訳のコーさんと胡さん(科学院)の二人が部屋に来る。8日からの話について打ち合わせをする。なかなか有能そうなご婦人。夕食の時に聞いた話。昨夕の北京ダックは料理が20,25,30元がある。1テーブル2羽も使ったからその上かも。但し酒含まず。北京飯店でふかのヒレ8人で食べると,一切れで,485元もすると言う。大平首相が招待宴を開いたら,8人とかで,600元(?),兎に角一人100元(1万5500円)の食事もあるという。夕食後横の通りを散歩。何百人もの人たちが道端で夕涼みをしている。道上に尻を下ろし,また木の小椅子を持って。土塀の家が暑いのだろう。道でスイカを売っている。大勢の人が買って食べている。鼻をかむ(シュンとやって放つやつ)、痰を吐く。そう言えば,昨晩化工学会理事長も痰を直接床にやっていた。北京飯店新館は開店して10ヶ月していないとのこと。

8月7日: バスは6ストップまで5毛,地下鉄は10毛、椿さんに案内されて山本,,小林,田部,諸氏と行く。北京街を暫く行き,瑠璃チャンに行き,唐三彩の馬の小さいの,10元、書3枚,9元,印鑑用石一対,8元,刷り絵,約10元を買う。ホテルで革の財布3つ,9元。慶伊,尾崎氏ら座談が終わり,帰って来る。皆大工のデッチを相手に建築学を説くようなものと言う。午後ホテルを出て3時10分清華大学へ。その途中大雨。しかし大学に着いた頃止む。早速応接室に通され,型のごとき挨拶。リ教授,リュ-教授,周参〔物理〕,マーさんなど。森川先生の挨拶「清華大学は理工系では中国の代表的な大学で,革命に際しても貢献したことを聞いている」,次に馬さんより大学の紹介「清華大学は多学科より成る総合的理工科大学で、電気工学,機械,オートメイション,電力工学、無線、精密機械,建築,水利,,工程物理,工程化学,力学,11学科54専業。教員は3千人,学生数8千人,今年の夏休み中にさらに3800人を募集するので、その時は11,800人に成る。1911年に創立教育革命を遂行中で,その内容について少し紹介したい。文化革命以前には古い教育をしていた。このような教育は新しい社会には適合しない。つまり、単に書物にあるものだけでは駄目で,労働者や農民を軽視する特権的思想が身に着くからです。書物だけの知識だけでは卒業しても,実際の生産に適合できない状態であった。そのような教育は改めるべきである。この中にソ連に行った人が居るだろうが,ソ連ではそのような特権階級が出来てしまった。我々の教育革命は一言で言えば,文化知識を持ち,社会主義意識に目覚めた人を作るためである。このためにこそ大学を改革します。学生の募集について農村,解放軍,工場などから優先的に入学を許す。人民に奉仕する人間を作る。仕事経験を2年以上,学力程度は中学以上,各地区の推薦に基づいて選択する。全て大衆の討論を経て入学許可をする。3年間在学,しかもその間一定期間現場でも教育する。百以上の企業と連絡し,指導もしている。人民公社と協同して,問題の解決に努めている。労働者,農民の思想も学び取っている。大学には25の小型の工場が有り,50種余りのものを生産している。(作りながら勉強) self-supportingにして,国から経費を貰わないように将来したい。理論も実際の現場から遊離しないようにしている。例えば電気工学などでは,一年生がまず工場に行き,小型の電子計算機を作りながら,いろいろと勉強をする。2年生でその原理,回路等の教育を受ける。3年生になると、新しい電子計算機を考え始める。テストの方式は昔は本の中から取り出したが,生産と科学研究の中から取り上げてやるようにする。ノートの書き下ろしはやめて,討論方式にする。農村の中にも連絡をとり,夜学もやっている。夜学生の労働時間は短くなっている。工場などで,短期に教育,研究,通信教育をやっている。それら全部で5万人を予定している。「知識分子を労働者化し、労働者が知識分子化し、最終的には両者の差別は無くして行く」。生産が如何に必要とされるかが問題。「教育と労働とは相矛盾するものである」 応接間には扇風機が有り,首を振っている。馬先生も靴下にサンダル。大学として募集人員を決め,教育部に持って行き、国家計画委員会がその上で全体的立場から必要人員を決め,その分を募集する。各省にその人員を分担させ,各省か各工場に割り当て,応募者を各職場から出させ,職場で討議してから,それぞれの規定人数を提出して来る。大学としても一度チェックしてそれに従うが,審査には実際の業務実績,政治的自覚,などを基にするが,面接することもある。昨年200名位から140名くらいが大学に残る。今年はより少ないはず。140名のほとんどは教員になるという。化学系統では女性が約半分。米国と似て,同じくらいのときは女性を優先する。分革以前のようなレベルは置かないが,昔のレベルよりも高いレベルを目標にしている。昨年の卒業生は幾つもの責任のある地位についている。直ちに生産指導が可能である。昔は2年間位は学ばねば,指導が出来なかったものである。カリキュラムは有機化学なら基本的なものを身につける。第1年目で必須で,工学生産に労働させる。基本知識の学習を結び合わせる。物理数学外国語の教育もする。第2年目にはその上に立って設計をする。第3年目には研究の仕事(比較的高い研究テーマ)に参加させる。各学年の学習する目標を決めてやって行く。電子工学なども入れて行く。実戦学習と理論的学習が3分の2。判断力,分析力をもって学力を評価し,物知りかどうかということではない。将来の実戦の基礎を築くことを主眼としている。しかし文革の前より書物を通す勉強が少なくなりました。昔より合併した科目が多くなった。もっと質問があったら,どうぞ。以上カリキュラムは見ることができるか,教科書などあるのか,を尋ねた質問に対する政治的な返事である。会見中革命委員会の人が・・余り利口そうではないが実行力がありそうな人・・何か戦争中の配属将校と言うよりも在郷軍人を思い出す。

馬先生は自分自身も古い教育を受け,古い考え方が残っているが,自信を持って困難を乗り越えよう。それは毛主席の言ったことが正しいことがはっきりして来ているし,その道を行くことが我々の義務でもある。タテマエの演説。兎に角遂に化学関係の施設も「修繕中」と言って見せて貰えず,この次にどうぞ・・。今日は初めて一日中雨。清華大学はアメリカの寄付で建てられたキリスト教系の大学で,建物も瀟洒でキャンパスもなかなかよい所。北京の郊外に聳える建物はなかなか魅力的。戦前から最善の大学の一つであったが,その大学が日本で言えば高等工業のレベルにまで下がり,しかもその1割しか上に進まないとは。教育の程度からして昭和の初め位あるかどうか。そう言えば,ラジオがやっと普及してきたと言う所で,とてもテレビなどは。(テレビは7〜10時までニュースがある)テレビは森川先生の部屋に置いてあるが、ホテルの広場にもないし,健全至極。昔日本で工業学校,高等工業学校,が社会の要請としてあって,「直ぐに役立つ」教育をしていたが,社会のレベルが上がるに従い,消えて行った。矢張り社会の要請というものは社会の程度を表しているのかも。森川先生は全く新しい発想の基にとよく言われるが、新しい発想が必ずしもよいと言うわけでもないし,現実の科学,自然の法則はキビシイものであるので,それを乗り越え,テストをしてフィルターがかかってよいものが残って行く仕組みなのである。

もう一つ気がついたこと,交通は外人優先,外人は「上海」に乗っているから,自転車も全部止められる。ホーンが全部を追い散らす仕組みになっている。追い越しも大丈夫。反対側のトラックの方で譲ってくれる。ホーンの音が特別の意味を持っているらしい。副首相の給料は三百何元、200元以上が200人,最低24元、平均50〜60元の収入。

8月8日(金):今日第1回の講演,8:30より。プロジェクターもどうやら動き,まずまずの出来。終わりの方をハショッタが、New tools in catalysisやIRによるdynamic treatmentsについて12時半近くまで話す。皆非常に熱心に、暖かくもてなされた。通訳もまずまずの出来。AES,XPS言葉としては知ってはいたが,勿論使ったこともない,見たことも,XPSをAEIから買う予定もあるとのこと。しかしその内容については極めて強い関心があることが解かる。しかし数人を除いては何処まで解かっているのか,先ず大学生並みの実力と思われる。難しい話はほとんど受け付けないレベルである。失望と共にその熱意に打たれる。皆30以下20代も少なくない。全部で18人くらいだったろうか。グループリーダーが案外なほどの暖かい挨拶,尊敬の念をこめての眼差し。10年後が楽しみである。昼過ぎはギンブラ。午後化工学研へ。約2,7万坪の敷地。北京化学工業研究院は1958年に建設され,元は総合的な研究院であった。その後変わって石油化学を主にしている。石油化学工業の一部分で,研究は現場と石油化学総庁からテーマを貰って800人くらいで研究している。女性は半分。大学卒が360人,実験室とpilot plantがある。研究室は8つ有り,crackingもやる。触媒活性,C2H2+H2、C2H2の部分水素添加、エチレンからエンビ、ベンゼンから無水マレイン酸,ポリエチ、合成ゴム,排水,排ガスの研究,などなど。一部は工場に行って研究,中には工場の技術者と一緒に研究したり,研究と現場が一緒になってやっている。日本の友人はどうか我々の足りない所を教えて下さい、と言う。森川先生曰く「自力更生、。大変に結構」と。6時25分頃ホテルに帰る。途中初めて車の中から8ミリを撮りまくる。夜は日中経済教会のご招待で,街の中華料理店で山西料理。北京ダックのようなものから水餃子,うどんまで,食べたこと食べたこと。ホテルに9時過ぎに帰る。

今日昼休みに田部さんとデパートを見て発見したことは,靴下からスカート,Yシャツに至るまで,色物が出始めていること。何でもあること。人民服は4種類のサイズ。当地の中国人(日中経済協会の通訳)からの話だと,お米だけ配給,(衣料切符は最近なくなったらしい)普通の人はベッド,板の間,プロパンガス,水道の水は飲まない(下痢をするからでなく,習慣的に飲まない),子供は飲む。冬は石炭が燃料。満州ではオンドルの上に寝る人もいる。中国料理は大別して4種類くらいある。山東省の人はネギが好き,奥さんが逃げ帰ってしまったので,ネギを持って迎えに行ったら帰ってくれたと言う話もあるそうだ。

8月9日(土):午前EDA(マイクロの話も)の講演、午後座談会。13:30より17:40まで,よくも続いたと思われるくらい熱心にあれこれ聞かれる。一人を除いて大したものではなかったが、案外に話さなかったことまで質問を受ける。猛烈に疲れた。しかしいろいろと心からのもてなしを受けた。仲良くしましょうよ、と挨拶して終わり。(日本人の赤軍派がクワラルンプール米大使,スウェーデン大使館を占拠し,日本の赤軍派で獄中に居る連中の釈放を要求したとのこと)

夜7時半から中国北京芸術団の歌舞晩会に出る。なかなか綺麗で面白かった。ただマイクが大き過ぎて,ガンガン,ビンビン。三波春男のような人が上等な国民服を着て歌ったり,女の人は綺麗にお化粧して趣味のよい洋服を着ている。劇場は約1,500人入り,驚いたことに冷房が少し効いている一番よい席に座る。0.60元とのこと。0.30,0.45元のあるらしい。当日売りの切符はない。多分工場などに割り当てられているのであろう。相変わらず外人は特別扱い,休息の時にはジュースまでサービス。勿論往復は自動車は例の「お通りだ!」式に,ブーブー鳴らしながら行く。劇の内容は豊作を祝うもの,オジイサンの眼くらを目明きにする思想改革,兵隊が頑張っている劇,開放を感謝するもの,中には「台湾同朋吾的骨肉兄弟」というソプラノもある。北京芸術団は近く訪日すると言う。

一つの疑問。デパートであれだけ色物を売っているのに,何故街ではスカートなど色物はほんの少しだけなのだろうか。色物を売り出したばかり(直後)なのだ。高くて買えないのか、多分その両方でしょうが,坂本さんの話だと色物は大分高いので,買えないのでしょうという。
8月10日: 朝8時半出発して八達嶺に万里の長城を見に行く。流石に雄大そのもの。昼食は持参のサンドウィッチにジュースまたはビール。鶏肉,豚肉,ハム,ゆで卵,りんご、お菓子など大変なご馳走。万里の長城の一番高いところまで歩き昇ったので,汗だくだく。万里の長城はBC401年頃から作り,秦の始皇帝の頃繋げたが、八達嶺の辺りは明の時代(1368-1644)に出来たもの。観光用の部分が手入れして残してある。高さ7〜8メートル、幅6.5m、長さ6,000km,200mおきにのろし台がある。帰途の途中に明の十三陵に寄る。これも膨大な地下陵.「死は生よりも大きい」と言う言い伝えが中国にはあると言う.皇帝になると早速作り始めるとのこと。夜森川先生の部屋で総括。中国が日本より何年遅れているかという討論.昭和30〜35年ともいい,40年とも言う.山本さんはこんな教育では独創的な技術は永久に出て来ないと言う.清華大学6年制を3年制にしたようだと。基礎はどうなっているか,無駄のあるところに独創性が生まれるとも言うが,辻さんも期待は薄いみたい.

8月11日:朝610元換える。中国科学院研究所見学.科学院は内閣と同列の権威がある組織とのこと.1956年に科学院が設立.研究所の発足当時は200人(その内研究者100人)現在600人余りの人数.研究者はその内400人,女性は3分の1.6研究室,一つの加工工場がある.1)高分子化学(ナイロンの応用研究)2)高分子物理(分子量分布,物性),3)有機化学、4)基礎研究と探索(有機半導体,光伝導体,感光剤)、以上4つの方向の研究が行なわれている.生産労働や工場,農業と結びついていながら,無駄なくやっている.研究者は生産にも関連して研究と生産とが密接に繋がっていると言う.応用研究が多いのが特徴.「ご覧になっていろいろとご批判ご意見を聞かせて頂ければ幸いである」と言う.見学後の座談会.「研究テーマは何処から来るのか」.答「国家から出されるもの,工場からのもの,自発的に出すもの」その比率は?「時によって違います」、「勿論そうだが,大体の比率は?」「現在は第一のが主になっている」。「基礎研究は重要だと思うが,生産奉仕型と見受けたが,如何?」と言う森川先生の質問に対し,「現実はこうなっているのです.将来は基礎研究も増やしたいと思います」の返答.慶伊さんの意見「10年前と全く同じ!」,辻さん「日本の各社のノーハウまで全部聞いて,その中のベストを取って・・猛烈な量の情報を容易に集められる」。坂本さん「肥料を輸入しているなど,トップレベルの連中しか知らない。下々の百姓は自力更生と言うことで,エッサエッサと「人造」人肥の製造に励んでいる」。一人当たりの耕地面積は日中同じくらい. 街での買い物.周期律表,日中辞典,など3円くらい.友諠商店で,白生地,切り抜き細工,文天祥の書,漆の灰皿と花瓶,ヒスイなど買う.合計約500元。午後国際貿易促進委員会に表敬訪問。主任が,ソ連はけしからんと長々演説..夜はこちら側のレセプション。流石に国民服に身を固め,立派にして来た.皮靴も多い.一生懸命のおもてなしをする.掛け軸を貰う.疲れた.坂本さんの話だと,紅衛兵が守っているこのようなホテルに一般の人は紛れ込まれないはずなのに,「私はひどい目にあっているが公安委員会は何処だろうか」など近寄ってくることがある.「今晩いい所に案内しましょう」など言い寄って来ることもあり,悪くすると外交問題になって,スパイとか何とか,言われる羽目になるとのこと.

8月12日:朝7時朝食.7時50分出発.空港へ.9時予定の飛行機で10時20分こと出発.,12時丁度に沈陽(元の奉天)着.双発のターボジェット,中国人民と一緒,ほぼ満席.沈陽飛行場のレストランで中国料理.再び飛び,40分で長春,さらに40分でハルビン着.(沈陽では23度,爽やかであったが、ハルビンでは少し寒い)ハルビンの街を突き抜け,駅に行き,貴賓室で一休みしてから,15時57分の列車で,北方から北西方向に走る.我々のは軟臥車(一般のは硬臥車)3時間半で譲湖路の駅に着く.もう暗い.途中赤い夕陽が地平線のかなたに沈む.「此処はお国の何百里,赤い夕陽に照らされて」の昔々の軍歌が思い出される.ヒロイ,ヒローイ。土の家がところどころにポッンポッンとある.隣の家が地平線の向うということもある.あの人たちは交通機関はどうなっているのだろうか。馬でトボトボか.大慶とは地区の名で,四国ほども大きいという.マイクロバス(森川団長は「上海」)で宿舎まで,行く途中(駅でも)の人々の好奇の眼,眼,眼,トロンと見ているし,子供は拍手をして通って行くのを見送る.この自動車で運ぶ人たちは高官か外人に決まっているのだから。宿舎は大学の寮みたいな二人部屋でシャワーなし.夜食にこの地区革命委員会のレセプション.大慶は石油が出始めてから(1959)の名前.「大慶に学べ」と言うことで,技術者の養成も兼ねているらしい.案外なほど石油化学は少ない.学問を知っている人たちもいないみたいな顔ぶれ。気温夜27度.(戦時中日本が満州を占領している時も,石油が出ないか,随分と探したはずなのに,見つからなかった.此処の石油はパイプで運ぶには固体化しがちでやさしくない)

8月13日:朝4時半頃から音楽が鳴ったり,人声がガヤガヤ,交代の時間なのかも.夜暑かった.7時朝食.7時半にはマイクロバスに揺られて(舗装してあってもガタガタ道,舗装してない所はさらにひどい)石油を集めている所,掘っているところ,コンビナートを午前,午後には農場地域、工場,幼稚園など.4時過ぎの汽車で5時間かかってハルビンへ.(汽車賃は軟臥車で5元,硬臥車で3元,大体静岡-東京間くらいの距離)。大慶はハルビン,チチハル間にあり,従来石油はないとされていた野を毛主席の指導のもとに「上は空ばかり,下は一面の草原だった」のを1959年に最初に噴出し,今では人口40万の地区になる.15年間に34万5千トン,現在日産70トン,コンビナートは1962年ころから始まり,アクリル繊維も作っている.一方農業も,倍増し,働けるものの98%が働いている(カーチャン農業)ガスでレンガを焼き,土の家を段々にレンガに置き換えている.(指導者は土の家,工人たちはレンガの家に)午後農場見学。1963年に設立した管理所を見る.24家族で始まり,きびしい条件下ではあるが,毛主席の,矛盾論の実戦をして来た.条件がなければ,条件を作って進もう,と現在1341家族.750万キロの食料を作り,950kgの野菜を生産する.農村兼都市でもある.女が働くことは最初は抵抗があったが,毛主席が「時代は変わった,男ができることは女でもできる」と言う言葉を信じた。「言う事を聞いて働きなさい.毛主席の偉大さを信じて前進しなさい.生産は向上します.革命の勝利は明らかです.一つ一つ勝ち取りましょう.余計なことは考えなさんな。幸せは目の前にあります.自力で全部出来ますぞ.万里の長城を築いた民族ですぞ」(ようやく疲れが出て,われわれ隊員の半分くらいは半コワレ状態.団長は午後下痢のため休養)

8月14日: 昨晩は窓の向うの防空壕か地下鉄の工事のためかうるさくて窓も開けられず.閉めると暑くて眠れず,辛い思いをする.朝、辻さん、小林さん、慶伊さんと団長さん休養を要すということで,午前のボイラーの工場見学は残りだけで行く.揃って下痢なのは食あたりに違いない.ボイラー工場は日本鋼管のようなもので,アンモニアの合成搭も見える.7,000人の工作員のうち24%が女.1957年に建設された。革命委員会の主任が事実上の工場長、党委員会の書記を兼ねる.勤務評定は半年ごとに感謝状が出される(物質的刺激はない)労働英雄の作る.これは仕事がよく行くだけでなく,思想的にもよくないといけない.午後松下江を船に乗る.素晴らしい.子供たちが拍手で迎えてくれる.所々に「覇権を唱えず,深く地下を掘り,食糧を蓄え,災害に備えよう」とスローガンがある.ハルビン工芸美術院を見る.麦わら細工(あまりいただけない)美術家は不要という.400人くらうの女工さん労働者,美術者が共同すれば何でもできるそうだ.彫刻の部が面白かった.馬やいろいろなものを彫っている.個性があるものだけに石に応じて各人の技量が出て来る.平均24歳,才能がある人が集まって3年養成される,貝殻細工,象牙細工、など。ハルビンの街は白系ロシア人多かったゆえか,立派な,しかし今では如何にも古びた西洋館が多い.我々の泊まったハルビン国際旅行部のホテルも昔の豪華なホテル.今は臭くて,暑くて,おまけに工事でうるさくて,といった所.北京飯店が懐かしい.我々のグループで故障者続出.坂本さんまで微熱とか.森川,慶伊,小林,辻,枕を並べて下痢でダウン。夜黒龍江地区化工学会の主催でレセプション.同じテーブルで乾杯を続け,田部さんは大分酔う.今日の午後森川,慶伊氏等4人病院で診てもらったが,皆大したことはないとのこと,その折に日本人に違いない看護婦さんが世話をしてくれたとのこと。非常に感じのよい顔の40過ぎの人.日本人患者の来訪で,特に待っていた公算が強い.終戦の頃従軍看護婦その他,帰れずに現地人と結婚した人も少なくないとのこと。現にその一部は日本に帰り,そのまま中国には帰りたがらないものが大半で国際問題になっている.彼女はどんな気持ちでいたろうか,皆で暫く話し合う.終戦時の事を思い出す.今夜も地下貯蔵庫,防空壕の工事がうるさくて,窓を閉めると暑くなかなか眠れない.

8月15日:中国の医療費は本人は10割引,家族は5割引.慶伊さんハルビンで打って貰ったペニシリン一本24元,但し日本製.ハルビンは人口220万人,黒龍江省は3千万人.朝ハルビンの製菓工場を見に行く.抗生物質の薬を作っていた.革命委員会の主任はインテリ的で内容説明.1,400人女65%。例によってマルクス,エンゲルス,スターリン,レーニンの写真.1965年の5倍,昨年の20%増し,例によって毛主席のご利益を聞かされる.午後2時に出て長春,沈陽(此処で夕食)を経て北京8時過ぎ着.9時にホテルに入る.ハルビン飛行場は草原の上を離着陸。草で車が滑ってしまわないかと田部さんが心配していた.

8月16日:朝7時50分ホテルを出て,9時10分で上海へ,飛行場でも一般の人を座席からどかして席を作ってくれる.何処に行っても,タテマエの説明.(毛さん万歳)95%は満足というが,残りの5%は如何しているのだろうか.今度の我々の訪問する場所は指定され,特別の(警備つき)ホテルに泊まり,オンドルとかまどのみの家の中も見ず,食事も我々の食費3日分が一般の人の1ヶ月の給料分,交通も特別扱いで,「お通りだ!」,これで中国を見たことになるのだろうか.午後2時初めて上海での日程の打ち合わせ,小学校,工業展覧会,人民公社、製油工場、発電所,を予定してくれるとのこと.一同落胆. 座談なし. 近くの小学校を見に行く.驚いたことに,自動車を降り掛けてときに女の子(5年11歳)が手を取って握り放し.案内してくれる.黒板には「訪中催化剤技術交流団歓迎」の大文字,課外活動沢山それに劇(勿論開放劇)お話も.紙芝居も,全部,全部。学校は思想を変えることを目的とするのである.生徒は全部一張羅のスカート,皮靴,何処へ行っても拍手.学校の説明もテイプレコードのような仕組まれた芝居.偽りが多すぎる.日中友好万歳と子供がうわごとのように言う.毛さん,毛さん。貴方が死んだらどうなるのでしょうか.夜化工学会の招待.森川先生技術交流が我々の目的であると強調.見学先の変更、要求,その前に小学校見学が終ってら,大学か,研究所を見れないか,と尋ねたが,大学は夏休み,基礎研究は大学のみ.との返事。

8月17日: 午前工業展示会見学.ビルの上から上海見物.友諠商店見物.11.5元出し絹の白地買う.午後人民公社見物、例によって黒板に日本朋友歓迎の文字.此処の人民公社は1958年設立2万6千人(その半分が労働力)野菜,養豚,養鶏,穀物,修理工場,加工工場,塗装,建築,政治の末端で民兵まで持つ.トラック,トラクター,11台、田植え機48機、開放時の275%の生産.野菜4毛昨、麦と米2回,中学2ヶ所,小学校4ヶ所.社員の収入,一家で年993元,一人あたり,年に241元,実際に家を見せてくれる.6人家族で年に収入2400元,生活は月138元で充分とのこと.家は自分のものだし,野菜はただだし,水は井戸から担いでくる.台所のかめには腐ったような水.暖房なし,練炭,土間にベッド.風呂なし.台所はかまどと水かめのみ!これがone of the bestとは。座談に移る.一人月12元で生活するという,同じ仕事なら男女同じ給料.これまでリュウショウキが「慢行」させ、リンピョウがブレイキをかけたが,毛さんと一緒に農民は修正主義を批判した.「文化革命前と後でこの公社から大学に進んだ人の数は?」との質問に対し、答「文革後増す」(後で通訳から聞くと,横から「そんなことは答えるな、増したと言えばいいんだ」と言っていたとのこと.多分この公社から一人くらいが大学に進むのでしょう、と)夜友諠商店に行き、メノウの首飾り100元、マオタイ一つと墨3つ買う。

8月18日: 朝7時半にホテルを出て、石油精製工場まで1時間(帰りは45分)、元外国資本工場を接収したもので、年に400万トンを精製.事務室には相変わらず、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどの写真が毛さんと一緒に。4000人の従業員、研究、技術は200人.改質作業うまく行かないらしく実際の質問を受けるが、山本さん例によってずばり、ずばり答える.午後2時出発。再び午前の所の近くの上海化工庁に14:50着、女性の革命委員会副主任の挨拶.例によって例のごとく、1958年設立以後、ヒーリン、ヒークンで、労働者、技術者、幹部が協力して,毛さんの指導のもと、大増産に励むという.森川先生、例によって、貴方方自力でできるだろうが、急ぐなら技術導入を、と宣伝.夜8時上海化工学会理事長と会見.お土産を貰う.解放軍の映画、スポーツを見る.例によって人ごみの中を「ドイタ、ドイタ」と「上海」車が割り込み、、座席も特別席を取ってある.10時半ホテルに帰る.シャワーを浴び、11時頃寝る.どうやら荷物入りそう.昼に刺繍入りハンカチ7枚、テーブルクロース19.20元買う。中国人は道端にいる時間が長く、人も多い.上海で夕方道を行くと、小さい木の椅子を出して、道端に・・仮令埃が舞っていても、・・家族で、友人同士で、夕涼みをし、また食事をしている.一つのどんぶりだけで何かを食べている.窓が小さく、土で作った家の中が暑いせいもあって、4時半頃から10時過ぎまで起きている.太極拳も流行っている.ゆっくりと動くラジオ体操みたい. 中国の将来はどうなるのだろうか。 そして日本の将来は. 中国は大国である.それだけに、別に「覇を唱え」なくても自ずから唱えることに成る. 今に着実に上がって来るであろう. その時に日本は如何すればいいのか.これからの大きな問題に違いない。8月19日: 帰国











  
 
     





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