教育を考える
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目次(INDEX)
Independent Thinker
日本は本当にダメになるのか?
教育改革は如何になさるべきか
創造力の育て方
日本の将来を決めるのは「現在の教育」である
高校の化学の教科書を読んでの一つの意見
時代が求めるこれからの教育
これからの理科教育
太陽エネルギーを用いる水からの水素製造



Independent Thinker
Independent thinkerを育てるエデュケイションを
現在の教育が日本の将来を決める
田丸謙二

最初に一言。 Education という言葉を辞書で引くと「教育」と書いてある。しかし本当は日本式の「教育」の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも Erziehung まさに「引き出す」のである。日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違って、逆なのであり、日本の「教育」には大変に乏しい要素である。

一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かで携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。そのような来るべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。

この時代には国際化、情報化がさらに加速度的に進み、ダイナミックな、変化の早い時代になる。新しい時代は新しい人材を求める。この時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来る知恵を持った人材である。「知識偏重」の教育はもう終わりで、ダイナミックな時代には知恵を持ったダイナミックな人材が求められるのである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへのエデュケイションなのである。

日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。自分で学問を創り、築いた歴史が乏しいので、おのずから「学力」とは外国から学び受けた知識の量を現すものとなり、支配的に「知識偏重」の風土になっている。高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考え、判断し、新しい問題を考えたり、基本を応用したり、発展させる頭の働きを磨く訓練は殆どない。自分の言葉で話し、debateすることもないし、議論を通して学ぶ機会も殆どない。個性を磨くどころか、エデュケイションとは正反対のベクトルである。

 こうして育った生徒は大学に来ても私語はあっても、質問は少ない。 考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。アメリカのように講義のあとで教授の部屋の前に行列して質問、討論をするなど夢にようである。さらに大学院に進むと、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、それまで受け取ることばかりであっただけに、出来るわけがない。.野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科にも基本的な考え方として拡げていったのである。

この大きな教育改革はアメリカでは1889年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となり始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年5月から18ヶ月の間に150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。これだけの「新しい教育の根付け作業」を経て初めて本当に根付くのである。理科の知識を覚えさせるのはむしろ簡単である。しかしその知識が如何にして求められたか、探究的に学び、頭を働かせる訓練は別種の働きである。考えさせるだけに、時間をかけないといけないので、知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。それが新しい時代の到来に備えての求められることである。

わが国ではそれを参考にして、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」と言うことで始まった「ゆとり教育」である。それも文部科学省の密室で作られて,上意下達で改定して行った。しかし、それも余り評判がよくないということもあって、程なく、文部科学相が変ると、未だ「ゆとり教育」が高校の最高学年まで行くか行かないかのうちに、「学力の低下」が起こっているから考え直すと言って、今年の末頃までに結論を出そうと言う。現場は混乱するだけである。

、アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会に溶け込み、そして independent thinker つまり自分なりに何時も個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をし、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。基本は、すべての子供はそれぞれ生まれつき違うということから始まる。生徒各自のよい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

わが国では independent thinker を育てるなど言う教育がどこにあるのだろうか。もちろん、日本のように皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやり社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その中にあって兎角全体の中に埋没して、「個」と言うものが育たない恨みは免れない。皆一緒に同じように考えようとする風土が支配的だからである。

時代が変ったから、それに適応するよう「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、一体どうしたらいいのか、分からない。二、三十年先のための教育と言っても、教える教師たちは二、三十年前に、先進国に追いつこうと言う時代に知識偏重の教育を受けた人たちが多い。自分の受けた教育を基にして考えたのではその間には正に半世紀のギャップがあるのである。元々日本に「考える」風土がないし、欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないからである。

いや、子供たちだけでない大人にも、先生の方にも大変に乏しいのである.。子供たちは先生の背を見て育つ。学校は知識を教えるところとして、知識だけを教えることをしている先生に、考え方を教え、訓練しろと言われても、どだい無理なのである。「考えることの大切さ」を言うと殆ど必ず「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。「考える」と言ってもただ考えるのではない。選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えるのである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本に基づいて考えると、広く浅い知識を覚えるよりも格段に実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を知り、百まで考える可能性をもつことである。

ではこれからどうしたらいいのだろうか。 時代の変化が早いだけにマゴマゴしてはおられない。コンピュータの時代の到来と共に、知識偏重の時代は終わってしまった。基本は矢張り「自分で考える力」を育て、個性を伸ばすことである、本当のエデュケイションの基本を根付かせることである。生徒の個性を伸ばすためには、例えば、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。近頃では、たとえ数人を組にしてもコンピュータを通して一緒に会話、討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。 

また、新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある。この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。 

Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を尋ねた問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生ほとんど絶対にお目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。ただ差をつけるための出題でしかない。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の連中の罪は深く大きいが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。日本を駄目にするのは誰か、きびしく問わないといけない。

高校の化学の教科書を見てみる。まず日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的にチヤチで貧弱であることである。内容もページ数も三分の一以下と言う。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。これで化学が好きになれとか、探究的になど言う方が無理である。そのような文部科学省検定の教科書から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。

一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話し、大陸は移動している話、いろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。立派な教科書を手にして初めて学問の真髄に触れることが出来る。欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。大学でも新品でなくてもused として大学の生協でも安く回し売りしている。

欧米で広くやっていることを日本で出来ない話ではない。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。数年前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその人の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。

最後に一言: 

『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。 日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。 自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる。』 〔森嶋通夫〈ロンドン大学名誉教授〉こうとうけん、No.16 (1998) p.17]

日本人は元々創造能力が欠如しているとは思わない。 しかし、ノーベル賞が欧米が500を越える数であることを考えれば、如何にも数が少ない。 ある人の話だと、化学分析方法に千種を越える数があるが、その中で原理的にわが国で始まったものは一つもないという。 外国で開発されたものを改良して儲けるという、よく外国から「ただ乗り」と言われるのも仕方ない面もあるが、逆に言えば、ものを改良する才能は大変に長けているということである。 自動車でもデイジカメでも少なくとも貿易黒字からすれば、大変な富裕国である。 それだけ知恵があることが分かる。 自分で考えることは苦手でも裕福になれるならそれでいいではないか、ということなのか。
 



●日本は本当にダメになるのか?
林様;

  これは貴方にとって余計な話ですが、今日を含めてこの5日
学会がありました。 一般の傾向として「大学法人化」といって
夫々の大学は出来るだけ自立しろということになります。 「産学
協同」というきれいごとの言葉がはやりだしました。 大学は実際
に役に立つことをする傾向が強くなりました。 ひどいのは会社か
らテーマと金を貰って、大学院生を人手に使って「研究らしいこと」
をします。 大学院生はそれが「研究」であると思って一生損をしま
す。被害者です。私は大学が学問をしなくなったら、駄目であると思
います。これも気のせいか、independent thinker の訓練がなくなっ
て安易に生きて行こうとする傾向に思えます。 本当は「研究」とい
うものは必死に頭で考え、考えてするものです。 それがなくて創造
性は生まれません。 個性的な研究も駄目です。 皆が似たことを実
験する研究は研究でも「試験研究」或いは「試験実験」でしかありま
せん。 愚痴になりそうですが。 研究は矢張り誰も考えなかったこ
とを考える苦しいけれども、楽しいものなのですが。

  田丸謙二

++++++++++++++++++

●日本は本当にダメになるのか?

もっと考えるエデュケイションを

現在の中高校の理科教育について何か書けという思いがけないご依頼があった。以下に普段思っていることを書いてみる。

はじめに: Education という言葉は辞書には「教育」と訳してある。しかし本当は日本式の「教え込む教育」ではなくて、生徒の(才能や知恵を)educe 引き出す作業のことである。ドイツ語でも教育は Erziehung 、「引き出す」のである。

これまでの日本式の「知識を詰め込む」教育とはベクトルが180度違っている。正に逆なのである。わが国の教育関係者でこの辺りを本当に理解している人は決して多くはない。むしろ極めて少ないと言えるのではないだろうか。

新しい時代の始まり; 一昔前には電車の中で見回すと何処かで誰かが漫画の本を見ていたものである。近頃ではどうだろう? 何処かに携帯電話をいじくっている人がいる。これからニ、三十年先にはどうなっているだろうか。多分車内の何処かでポケットから出したパソコンを開いてみているのではなかろうか。

そのような来たるべきパソコン持参のコンピュータの時代を支えるのが今の子供たちである。この時代には国際化、情報化がさらに格段に進み、ますます変化の早い時代になる。この激動の時代に適応し、その時代をリードするにはコンピュータのできないことが出来るダイナミックな知恵を持った人材である。「知識偏重」の「詰め込み教育」は到底役立たない。「知恵」は自分で引き出し、育てるものである。我々は今の子供たちのために何をすればいいのか、日本の将来を決めるのは現在の子供たちへの真の education なのである。

これまでの教育; 日本は元来「文化の輸入国」であった。「マナブ」ということは「マネブ」、真似をする、から来ている言葉である。学問を自分で築いた経験が乏しいので、学問はおのずから出来上がったものを取り入れるものとなり、「学力」は知識量をあらわし、その知識を偏重する風土になっている。

高校の理科の時間を参観すると、殆ど会話がない、「わかったか、覚えておけ」の一方的な教え込みである。それが限られた時間内に最も効率よく沢山のことを教えることが出来、「知識偏重の入試」に対する最適の教え方なのである。そこには自分の個性的な知恵を育てたり、自分の頭できびしく考えて教科書にない新しい問題を考えたり、基本を発展させる頭の働きを磨く訓練はない。自分の言葉で話し、debateすることも殆どない。個性を伸ばすどころか、education とは正反対のベクトルである。

こうして育った生徒は大学に来ても質問は少ない。受け取るだけで、考えながら学ぶ習慣が乏しいからである。さらに大学院に進み、ここは独創的なことをするんだ、自分で考えろ、と言われても、出来るわけがない。教授の方も問題だが、練習問題的な論文が少なくない。野依良治教授がアメリカと日本の新しい学位授与者を比べると、相撲で言えば三役と十両の違いである、と言われたのも分かる気がする。 

アメリカで教育改革: アメリカではこの時代の早い動きを先取りして、教育を大きく改革した。理科教育について言えば、それまでは鯨の種類など理科的知識を重視して覚えさせていたのを止めて、science inquiry つまり、探究的にものを考えるように切り替えたのである。

そうしてその探究的な考え方が、理科だけでなく歴史や社会など他の学科でも基本的な考え方として拡げていった。この大きな教育改革は1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となって始まった。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年から150回以上にわたりその内容を公開討論して、数多くの人達,学会などの意見を聞き、最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational Science Education Standards[1]を作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしているアメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。知識量を減らしても考え方に重点を移したのである。

わが国ではそれを、真似て、従来の「詰め込み教育」はいけないと称して,知識の量は3割削減、「自ら探究的に考え、生きる力をつける」ということで、「ゆとり教育」が始まった。文部科学省の密室で原案が作られ、上意下達で始まったのである。

しかし、文部科学相が変ると、「学力(この内容が本当の問題)の低下」が起こっているから再検討をすると言って、今年の末頃までに結論を出すと言う。現場は混乱するだけである。

アメリカでの学校教育は私の孫が学んだ経験からすると、小学校の校長先生にどのような子供を育てようとしていますか、と言う娘の質問に答えて、「productive, team player, independent thinker」と言ったという(2)。

つまりproductive 社会に役立つ人間で、team player社会になじみ、そして independent thinker つまり自分なりに個性的に考える小学生、というのである。幼稚園の時から、show and tell, 自分の言葉でしゃべる練習をして、小学校でも繰り返し、繰り返し、How do YOU think ? と自分で考える訓練をさせられる。その基本的考えは、すべての子供はそれぞれ生まれつき異なるということから始まる。

生徒各自が自分で考え、自分なりによい点を引き出し(educe)育てるのが教育 education なのである。自分で独立に考えることにより、初めて個性が育つのである。Independent thinker が よいteam playerになるところに本当の「民主主義の基本」があるのである、 

考えさせる教育;わが国では independent thinker を育てるなど言う教育があっただろうか。学校では知識を教え、後は勝手に考えるのである。日本では、人は皆同じ、差別はいけない、お互いに「思いやる社会」として、「よろしく」と挨拶する社会はそれなりに素晴らしいが、その全体の中にあって兎角「個」と言うものが埋没してしまう。

これからは、激動する時代に適応するように「探究的に考え、自分で生きる力をつけろ」と言われても、教師たちは考える教育を受けたこともないし、どうしたらよいのか分からない。欧米のように「自分で考える」基本が子供たちにもないし、大人にも、第一、先生の方にも乏しいのである。

先生は余り考えたこともないし、自分の持っている「知識」を生徒に授ける方が楽である。子供たちは先生の背を見て育つ。「自分で考えない先生」からは「考える子」は育たない。知識を得ることと「考えること」とは基本的に別物である。これからの時代は「学びて思わざる教育」はダメである。「考えることの大切さ」を言うと「でも、物を知らなければ」と言う答えが返ってくる。

しかし化学の考え方を学びながら物を知ることになる。「考える」というのは、その科目の選び抜かれた基本をしっかりと身につけて考えることである。アメリカで言う「Less is more」、つまり数少ない大事な基本を本当に身につけて考えると、浅く広い知識をただ覚えるよりも格段にダイナミックな実りがあるのである。基本を基にして一を聞いて十を知り、さらに十分に考えて必要な知識を自分で獲得し、百まで考える可能性をもつものである。

これからのエデュケイション: それではこれから我々はどうしたらいいのだろうか。コンピュータの時代には、それに備えた教育が求められる。基本は矢張り本当のエデュケイションの基本を根付かせ、個性を伸ばすことである。

例えば、宿題もありうるが、授業は常に生徒と先生との communication の連続にして、教室できびしく考えさせることである。生徒たちが何を知らなくて、如何に考えさせたらいいのか、が分かる。近頃では、たとえ数人を組にしてでもコンピュータを通して一緒に討論をしながら授業をするのである。ヒストグラムを示すことも出来る。そのやり取りの記録がそのまま成績にも繋がる。

まず先生自身が考えながら生徒と会話をするのである。その会話を通して生徒は考え方を学ぶのである。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。

同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは自分で新しいことを考え出す上では大変な違いになる。本当に深く身について初めて本物の「知恵」になるのである。またそのように本当の知恵を生むように「引き出さなければ」いけないのである。
    
教育成果の評価: 新しい教育には新しい教育評価システム、試験制度、が求められる。まず入試も知識量を重視する「知識偏重」から大きく変えないといけない。私はある新設大学での入試に高校の教科書持参で、答えは記述式にしてやってみたことがある(3)。

この方式では、これを覚えているか式の出題はなくなる。教科書をどれだけ本当に理解しているか、これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、どれだけの知恵を身につけているかを問うのである。少し手はかかるが、この方式では受験生一人一人の「考える力」が実に手に取るようによく分かる。○×式などの比ではない。

ただ、慣れていないこともあり、教授たちの中には問題作成が困難なこともあって、出題者の方の「考える力」が試されることになる。しかし近頃では中学校の入試にも前よりも「考えさせる問題」が出されるようにもなったというし、これからは変って行くのではないだろうか。

同じ「考える」のでも、ナゾナゾのようなものでなく、基本に基づいた知恵を調べるのである。Stanford 大学の入試では creativity と leadership を重視すると言っていたが、矢張り自分で考える力があって、人の上に立てる人材を求めるのである。福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言われていた。

今年のセンター試験でも、ある金属のアンミン錯体の色を問う問題が出ていた。センター試験に出ると言うことはそれを覚えさせろと言う命令に近い。しかしそんな色を尋ねられても多くの受験生は見たこともなく、教科書で知るだけであり、もう一生お目にかかることのない化合物の色を覚えても何の役にも立たないことである。こんなことをして、若い人の芽を摘んでいる出題者の罪は重いが、残念ながら彼らには罪の意識は微塵もない。

教科書の問題: 今ある高校の化学の教科書を見てみる。まず文部科学省検定の日本の教科書が欧米の教科書に比べて圧倒的に貧弱である。内容も三分の一以下という。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が届かない。

先生はその教科書さえ教えればいいということで、その情報を生徒に丸暗記させるのである。そのような教科書の中から大学入試問題を出せといわれてもいい問題ができるはずがない。それはそのまま高校以下の悪い教育へとつながって行く。これで理科が好きになれとか、探究的に考えろと言う方が無理である(4)。

一般に欧米の教科書は写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、各種の考えさせる例題(問題)も備えている。教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話しなどいろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。

欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を変えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。欧米で広くやっていることを日本で出来ないことがあるのだろうか。日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制がなぜ必要なのだろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもちろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学が生き返る。

「折角いい頭を・・」; 私は院生にはいつも口癖のように「折角いい頭をお持ちなのですから、もっとよく考えなさい」と言っている。

何年か前私がある賞を頂いたお祝いの会で卒業生の一人が、先生がああ言われるのは先生にいいアイディアがないからではないか、と冗談半分に本当のことを言っていた。頭は使うほどよくなるものである。優れた考えが出たときはうんと褒めることである。しかしお互い様自分の考えの足りないことは自分では解らない。考えに考え、考え抜いて、新しい発想を生んだ体験はその学生の一生の宝になるものである。creativeな才能は自分の頭で考えることによって育つものである。

おわりに; 先ごろ亡くなられたロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生のお言葉を紹介する。

『現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している 自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる』(5)

1. National Science Education Standards, National Resarch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .

2.「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149

3 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146

4  「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003)
  「高校化学の教科書を読んでの一つの意見」、田丸謙二、化学と教育、52、764 )2004)
5 森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) p.17
参考文献;http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/    (2005年3月)



教育改革は如何になさるべきか


 朝日新聞の4月6日の朝刊に「転機の教育」、「見えぬ責任」と見出しながら、「協議前から3割削減」という記事が載っていた。 今度の「ゆとり教育」への改革が如何に「見えぬ責任」の隠れみのの中で実質的には官僚指導のもとで3割削減が行なわれて来たか、について書かれている。 文部科学省の役人が自分で設けた審議会が決定したと言う形を取りながら、自分では責任を被らないようにしながら、3割削減の教育改革を進めて来た無責任な経緯が述べてある。 3割削減が世論の悪評をかって、はじめてそれ以上の事を教えてもいいと言ったりして、文部科学省自体がガタガタしてきているのを批判しての記事でもあるが、日本の新聞の常として、批判はするけれども、では如何したらよいのか、これから如何なる教育が求められるのか、教育改革の具体的、建設的な提案がない。 無責任だと言いながら、同じように無責任な批判なのである。 私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)の教育政策の中に「教育の無責任体制を改めるには?」と題して朝日新聞が批判していることと同じことが既に2001年の10月に述べてある。 (その直ぐ後の「私達の教育改革通信」にも出ている) 正に同じ趣旨ではあるが、私の文の中には、一つのモデルとして、アメリカで大きく教育改革を成し遂げて来た実績も紹介しながら、我が国における教育改革の仕方についても前向きに言及をしている。

 私の文中にもあるが、大事なことであるから繰り返して書くと、確かに教育改革に関する意見は「十人十色」のことが多い。 一般的に言えば、教育関係者は保守的である。 これまで自分でやって来たことを変えるには相当の努力が要求されるし、改革の仕方自身も暗中模索のことが少なくない。 しかし、近年世の中は情報化、国際化と共に加速度的に大変な速さで変わって行く。 「回転の早い智慧の時代」の到来である。 現在の教育は今の若い人たちが将来活躍する時代が求める人材に向けてなさるべきものである。 つまり、教育は常に時代を先取りしなければいけないのである。 二、三十年前に「先進国に追いつけ」の時代の教育の仕方を学校で身につけた教師たちが、ニ、三十年先の時代が求める人材を現在創ろうとする、正に半世紀のギャップがある。   

 教育改革は、誰がどのような形で指導的に判断し、それをどのようにして実行に移すかが基本的な問題である。 アメリカの場合科学アカデミーの National Research Councilが中心になって、全国から選ばれた人たちが理科教育の原案を作り、1992年5月から18ヶ月の間に150回以上にわたる公開討論会を全国各地で開き、数多くの人たち、学会などの意見を聞きながら、最後には4万部を印刷して全国1万8千人や250のグループの意見を集約して作り上げている。 従来は理科でも、「理科的な知識を覚えさせる理科」であったものを、大きく変えて、理科的な探究的な考え方に重点をおき、その探究的な考え方が、社会や歴史など全ての科目の基本になるというのである。 コンピュ−ターがますます日常化し、時代の動きが激しくなる現実に基づいて、時代をリードできる人材教育への移行である。 これまでアメリカでは教育は地域の責任でして来たのを、このように正に全国的な規模で、大きく変革したことは、時代の大きな変化の中で、如何に教育改革が切実に求められているかという高い見識と判断に基づいている。

 一方我が国ではどうであろうか。 教育の現場も、ただ文部科学省の言うことを受け取って初めて、これでは学力低下だとか、元の方がよかったなど、文句を言うのである。 文部科学省も現場の教育関係者たちも、そこには教育に関する基本的な考え方、現在早急に求められている時代を先取りする見識の片鱗も見えて来ない。 現在の「学びて思わざる」「横並びの物知り創り」の教育への反省もなければ、如何に改革すべきかという理念もないのである。 これからはもっと智慧を育て、個性的、且つ創造性豊かな人材を創る教育が求められている。 文化輸入国の歴史が未だに支配的に残っている我が国で如何に教育を近代化する改革を成し遂げるか、猛烈な努力が必要とされる。 

 ではどうすればいいのか。 それには、先ず時代を先取りする教育とは如何なるものかについて高いレベルの理念を掲げることである。 密室での審議会ではなく、例えば、国立教育政策研究所辺りを大幅に拡大強化して、時代の動きを的確に捉えて、調査を重ね、専門学会代表や識者を集めた各種の委員会のオープンな活発な検討を通して、これからの教育のあり方についての知的ポテンシャルを高めることである。 その種の積み重ねがあって初めてこれからの教育のあり方に関する教育改革の優れた原案が出来上がるのである。 その原案にしても、これまでのように単に天下り式に押し付けるのではなく、例えば、各県の教育委員会などと密接な連携を取りながら、或いは教育関係の学会の活動を通して、広く公開討論会を開き、原案の紹介、磨き上げだけでなく、これからあるべき教育の理解を広く掘り下げることである。 このような活発な運動を通して初めて健全な新しい時代を先取りした教育が根付くのである。 このような作業を文部科学省ができなければ、当然どこか、例えば拡大強化された国立教育政策研究所または民間に託してでもよい。 勿論教育関係の学会などはその組織と智慧を使って積極的に協力させることである。 正に国を挙げての取り組み方をするのである。 我が国の将来は現在の若い人たちの教育によって決まる。 こんな大事なことは当然国の総力を挙げて時代の変遷と共に常に取り組むべきことであり、単なる密室での審議会や官僚に任すことではない。

〈私達の教育改革通信に投稿〉    〈2004年4月10日〉



創造力の育て方


 我が国が一昔前まで「追いつけ追い越せ」と言って先進国の後を必死に追いつこうとしていた時代から、その後トップレベルの仲間入りをするようになって来たが、その間に世界も大きく変わってしまい、情報化、国際化の進んだコンピュータの時代になって来た。 それまでは先進国と言う学ぶモデルがあったが,今度は知識よりも自分で考える個性的な創造力をもたないといけないと、言われ始めた。 確かに現在ほど激しく変化している時代はこれまでもなかったし、これからますます加速度的に変化の速度も早くなる。

 技術の寿命も短くなり、常に新しいものへと移り変わって行く。 このような激しい変化に適応し、時代をリードするには、単なる「横並びの物知り」では到底駄目で、各人が個性的に自分で自立して考え、他の人が考えない独創性豊かな発想と判断ができる智慧を育てなくてはいけない、といわれるようになって、教育全体が大きく変化せざるを得ない状態になって来た。 所謂「ゆとり教育」がアメリカに見習って始まったのもその一つである。 しかし、世界の情勢はそのように変わっていっても、我が国は古来文化の輸入国で、外国から殆ど全てをマネビ、学んで来た歴史を背負い、それに適応した風土が支配的に出来上がっている。 教育現場の教師たちも、これまで学んだこともない「創造力を養わせよう」としても、言うは易く実行は決して容易ではない。 先生自身が学校時代に知識は与えられたことはあっても、自分自身で創造的になど殆ど考えてこともなかったからである。 先生が自立して考えれないとき、生徒たちに創造性を与えろといっても、できる道理がない。

 今度そのような創造性を養う教育を新たに始めたいから、それに加わってくれと言うご親切な誘いを受けて、さて何をすればいいのか、改めて、昔読んだ江崎玲於奈さんの書かれた「創造力の育て方・鍛え方」と言う本(講談社)を取り出して再び眺めて見た。 もう七、八年前に書かれたものである。 この私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/)の中には「これからの理科教育」など、その種のことについては盛り沢山に繰り返し取り上げて来た。 教科書批判を初め、教え方や入試の改善など具体的な事柄については、意識的に繰り返して述べてある。 しかし一方で江崎さんが述べておられる事柄も大変に参考になるし、有益なだけに、ここに取り上げてみることにする。 『 』が江崎さんの本にあるものである。

 『キャッチアップの日本が追随する欧米諸国の中でも、フロントランナーのアメリカは特に「個性」や「独創」が評価され、be different (他人と違うこと)が特に強調される国です。 特徴的な例を一つあげると、教育の面での優劣の基準です。一般にアメリカの大学の成績は、excellent(最優秀)、 very good(かなり優秀)、good(優秀)、fair(良)と言う四段階にで評価されます。 そして最高のexcellentを得るには、単に学力が高いだけはダメで、「独創性」がいかに高いかが問われます。 そしてこの excellent を目指して学生たちは、自主的に、自律的に猛烈に勉強します。 ちなみに日本の学校の評価方法はこれにたいして、very good、あるいは good の学生を大量に育てることに重点を置いたものだといえましょう。 ともあれノーベル賞(自然科学、経済分野)の受賞者がアメリカで200人近く、イギリス、ドイツも60人以上を輩出しているが、我が国はわずか5人です。 日本の教育課程、社会環境では持って生まれたタレントが充分に開花しないということを示唆するものではないでしょうか?』

 『私はこれまでに何度か、「独創的な研究開発を進めるための鍵は何か」という質問を受けたことがあります。 そんなときに私が強調するのは次の二点です。 まず一点は、自由闊達にやることです。 「創造」は当然個人としての活動ですから、個人の「自由」が重要だと私は考えます。・・企業においては、社員は組織の一員としての協調性や従順さが求められ、個性的な「出るクギ」は打たれがちです。 教育の目的にしても、いかにして子供を大人社会の一員に組み込むかに重きを置かれ、個人の潜在力を最大限に発揮させようとはしません』、『第二点はテイストを磨くことです。 テイストは審美眼とか鑑識眼という意味で、本物を見抜く感性のことです。 そしてこれは、人間が個性や創造性を発揮する上で最も重要な要素になります。 つまり、何が重要なことで、何に着目したらよいかを正しく見極める力、言い換えれば本物(質)は何かを捉える感性がなくては、独創的な仕事は行ない得ないからです。・・その意味からも他人の真似をするのは趣味が悪い(bad taste)ということになります。・・テイストの善し悪しはウイズダムに関わる問題でもあります。・・つまりこれは、洞察力、評価力、創造力、想像力の源泉であり、真理や真実、物事の本質を見透かす力とでも言った能力です』

 『アメリカのSAT(大学入学適性試験)のI種は天分にウエイトを置きます。 これに対して日本の大学試験では受験生の知識の量を測ります。 ですから、一流大学を目指す高校生は猛烈な受験勉強を強いられるのです。・・日本が「他人と同じように」知識を得ることを目指すのに対し、アメリカでは「他の人と自分はどれほど変わっているか」を知るように徹底して教えます。 それから「個性的に生きる」道を自主的に選ぶことが始まるのです』、『一般的に日本の若者は、「これをやれ」と言われるとよくできます。 しかし、自分から何かを発見することは苦手です。 それに挑戦する精神も乏しい。 日本の学問は、ものを習う「習得型」で何か新しいことに挑戦する「模索型」が不足している。 というより、「探究心」の教育を受けていないといっていいと思います』 

 『財界の人たちと話しても、21世紀の日本に求められるのは、柔軟に変化に対応する創造力を備えた個性的な人材だという考え方で、一致しています。

 ただそう言うのはやさしいけれど、実行はなかなか難しいところがあります。現在受験校といわれるような高校は、大学の入試にフォーカスを合わせて子供を教育しています。・・・生徒たちは自発的というよりやや強制的に、大学入試のための知識の詰め込み教育を受けています。・・個性を育む大切な時期に、こうした現代の日本の教育のあり方はたいへん疑問です。・・日本の学校教育は、個性を自由に伸ばすよりも、協調性や忍耐力を教えこみ、集団になじみやすい画一的人間を作ることに主眼をおいてきました。 各人の才能に応じて教育するというより、あらゆる人に平等に教育を施し、学習指導要領の忠実な実施なども、この画一化の傾向を助長したのではないでしょうか。 欧米諸国ではどこでもやられている英才教育なども、エリート主義を好ましく思わない日本では、あまり取り上げられないようです』、『アメリカの教育は自発性、自立心の大切さを教え、自分の考えや意見を伝える表現力をつけることを小さい時から教えます。 それによって自分を発見し、自分にどのような能力があるか、ということを自覚させます(show and tell)』、『そもそも英語のエデュケーションという言葉は、才能を「引き出す」という意味のラテン語に由来します。 日本語の教え育てるが教育とは趣が違うのです。 特に個人的な知的財産を築くという立場から言えば、エデュケーションの目的は、まず個人の特性に焦点ををあわせ、各人の持つユニークさを最大限に引き出すことにあります』

以上江崎さんの本から適宜抜書きしても、そのまま本意は伝わり難いかも知れないが、極く大体の趣旨は読み取っていただけるのではないだろうか。

 各個人の個性に従って創造力を伸ばし育てるということは全くその通りであり、私も繰り返し述べて来た。 私に言わせれば,個性を育てる上で,最も大切なことは他人と同じ事をしようとするのではなく、自分の頭でまず考える習慣をつけることである。 人皆顔が違うように,考え方の中に人それぞれの個性が潜んでいる。 それを引き出すのである。 頭は使うほどよく働くようになることは近頃の脳の科学でもはっきりと示されている。 自分で考えると他人と違うことも考える。 基本的な考え方を身につけ、自分なりに考える能力を育てることにより創造力が生まれ育つのである。 日本人が古来「考える事」が苦手であるというのは,長年にわたって外国から文化を取り入れ,マネブことを専らして来た風土ができ上がっているからである。 日本の教育の中に「学ぶ」と言うことが知識を得ると言うことと同意語になっていることが少なくない。 「学力」が知識の量で測られるのである。 同じ事を教えて覚えさせ,同じ答えを期待する,日本の教育は正に「横並びの物知りつくり」の作業なのである。 しかし,情報化した現在では,その作業はそのままコンピュータの仕事であり、コンピュータの方が数段勝る働きをする。 

 アメリカでは十年以上前から理科教育を大幅に変えて,理科的な知識よりも探求的に考えることに重点を置くようにしたが,それが激動の時代の要求する変革でもある。 その基本は「広く浅く」知識を教えることではなく、基本になることをしっかりと理解させ身につけさせ,考える基本にすることである。 そしてその探究的な考え方が,歴史や社会など他の学科の基本になるという。 Less is more というように、浅く広い知識よりも少ない基本をしっかりと身につけさせることである。 「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。 ここにいう定量的な数字は別としても、同じ基本を教わるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。 「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのとでは探求的に新しいことを考え出す上では大変な違いになる。 そしてその基本を基にみっちりと考えさせることである。 何かもっといい考えがないかと、考えに考え、考え抜く時、パスツールが言うように、「運はprepared mind にfavorする」のである。 誰でも自分は充分に考えていると思っている。 自分の考えの足りなさは自分では解からないものである。

 理科の授業では,現在日本でやっているような一方的に教え込むことではなく、もっと時間をかけて、先生との会話を通して、生徒達各自が自分の頭で考え、個性的な考え方を育て,自分の頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練をすることである。 今の高校では自分の言葉で話し、debateすることも乏しいし、議論を通して学ぶ機会もない。 専ら一方的に教え込むことがなされている。 それが知識偏重の大学入試にもっとも適した教育でもあるからである。 このような教育の中で育って来ると、大学に来ても、講義を受けても質問は少ないし,殊に大学院に進学して独創的なことをしろといわれても、それまでは専ら与えられるものを受け取ってきただけであるだけに、自分で判断し、新しい発想など生まれる道理がない。 自立していないからである。

 大学の入試についての江崎さんの意見を見ると,ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫先生の言葉を思い出す。 次の言葉である。「現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる」  江崎さんが、アメリカの大学入学適性試験で日本の試験のように知識の量を見るのではなく、受験生の適性を見ると言われるのも,私がある新設大学の入試に高校の教科書持参で,記述式で答えを書かせた試験をしたことが正にそのためであり、基本的な考え方が相通じるものがある。 

 私のしたこの種の試験では,知識の量ではなく,教科書を正しく理解しているか,こういうことは何故なのか,こういう場合はどうしたらいいのか,考える問題になる。 ノーベル化学賞の福井謙一先生はこの試験方式を聞かれ,大変に誉めて下さった。 先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言っておられたものである。 江崎さんも,森嶋先生も,また福井先生も、皆口を揃えて日本の大学入試が若者の個性の芽を摘んでいることを警告なさっておられるのである。 アメリカのSATでも、探求的教育を反映させて,知識は極く基本的なものに限り,探求する思考力のテストになっている。 やはり大学入試は高校以下の教育に甚大な影響を与えるだけに,教育を改善する一つの手段は大学入試を改革することである。  試験の問題を作る人たちの創造的、探究的に考える能力が出題内容に反映するが,学力とは何であるか,これからの学力はどれだけ創造的に考えることができるかと言うことが主体であるだけに,その出題者の能力が逆に問われていることになる。 自分のもたない能力について他人のそれを調べることは難しいからである。

 では次にこの入試改革や授業の他に,我が国の教育を改善し,創造性豊かな人材を創るのには,実際にどうしたらいいのか考えてみる。 江崎さんの言われるように、個性に合わせて教育をしろと言っても、アメリカ式にgifted (才能に恵まれた)といって他の人と分けて特別扱いするのもありうるが、私の書いた「これからの理科教育」のなかにもあるように、まず教師が一方的に生徒に教え込むのではなく、授業中は生徒との会話を通して頭を使って,議論しながら教えるのである。 それも基本を基にして考えさせ、自分で発想して答えを導き出させるのである。 知識だけでなく、探求的に自分で考えさせるのである。 一つの例を示してみる。 高校の化学時間である。 不揮発性の物質を溶かした希薄溶液は純溶媒に比べて,モル濃度に比例して、蒸気圧が下がるラウールの法則を教えたとする。 教科書を見せずに、それではこの溶液の沸点はどうなるか、考えさせるのである。

 その次にその凝固点(溶媒の固体と液の蒸気圧が等しい温度)はどうなるか、そしてさらに名前を挙げずに、浸透圧の装置を見せて、初めに半透膜を境にして同じ高さにあった溶液と純溶媒の液面はどうなるか、どちらがどれだけ上昇するかを考えさせるのである。 浸透圧などの言葉は要らない。 蒸気圧の異なる液面がどういう挙動をするかを考えさせるのである。 自分で考えることの好きな生徒は、余りヒントがなくても、ドンドンと自分でそれらの結論を引き出すであろう。 それ程でない生徒たちは時間をかけてヒントを与えながら考えさせるのである。 凝固点降下とか、浸透圧など、蒸気圧降下とは全く関係なく暗記する事柄として書かれてある今の高校の化学の教科書が如何に読者に考えないように書かれているか、また考えることを阻害しているか、特に探求的に考えることをさせないように書かれているかが生徒達にもはっきりと解かってくる。

 考えるという各人にとって大きく差があり,幅を持った才能の中で、考えさせることを通して、自分の特性を知るだけでなく、基本を基にすればいろいろと大きく発展的に理解が拡まることが体験として解かってくるのではないだろうか。 教科書にあるように、訳も解からずに、個別な事項として暗記させて「物知り」を作るよりも、自立して基本に基づき、蒸気圧を通して平衡の概念を使って探究的に考えることが如何に大切か、考える楽しさも身について来て化学が好きになる。 文字通り wisdom が身につくのである。 

 教科書にある「暗記事項」が全て自分で独立に考え出すことができるからである。 悪い教科書を基にして出される大学入試の問題がよくなるはずがない。 それがそのまま高校以下の教育に反映して来るのである、 もっと特別に好きな生徒には浸透圧の装置で、どれだけ二つの液面の高さが異なったところで静止するかファントホッフの式まで考えさせることも不可能ではない。 (溶液の蒸気圧は純溶媒のそれより低いので、溶液の液面は上昇し、純溶媒の液面との高さの差の間にある蒸気の重さが蒸気圧の差に等しくなった所で静止する。その時の高さの差の間にある液の重さが浸透圧に相当する) そこまでやらせてできることになると、その生徒は楽しい経験を一生忘れずにいるのではないだろうか。 要するに個性を生かさせながら自分を理解し、基本を基にしながら考えを発展させることを身につけるのである。 ただ項目を暗記させられるよりも大変な違いであることが容易に解かる。 このように話の理屈が解かった時点で、その次は、では実際に沸点の上昇、凝固点降下、浸透圧などを正確に測るにはどうすればいいのか、実験書を読む前にまず自分で考えさせることである。 それを通して溶質の分子量が測れること、それから電解質が電離することが確認されることなど、実験をやることが望ましい。 その前に、自分で考えた実験装置と、実験書とを見比べて実験の仕方を確認する必要があろう。

 前にも幾つも書いてきたように、有史以来の文化輸入国であった我が国が、終戦のどん底から這い上がって,先進国に追いつく必死の努力をした結果,トップグループの仲間入りをすることができた。 これは正に世界の奇跡の一つであったわけで,その基礎には我が国の教育のレベルの高さが大いに与って助けになったものである。 しかしその教育の質については,やはり飽くまでも文化輸入型であって,自分の頭で創造的にチャレンジするものではなかったのである。 現在動きのますます速くなる情報化した世界の中で生きるのにはどうしても各人が個性的に考え,他国よりも優れた智慧をもつことが生きる道であることはいうまでもない。 江崎さんが我が国の教育にはないと言われる「探求的考え方」を育てる教育がこれから是非必要なので,最近始まった「ゆとり教育」は本当はそのような改革の一つでもあったはずなのである。 しかし学力を知識の量と考える人たちにとってはそのまま「学力低下」なのである。

 ついでに付け加えると、江崎さんが言われるように、日本の若者が「知識習得型」に育ち、チャレンジして模索する習慣のない風土の中で、そのような教育を受けていると、生まれてくるものは、本当のcreativityというよりもむしろcontrivance (工夫、機知)に当たるものでしかなくなってくる。 もちろん、ものの改良など、むしろ日本人の得意とするところではあるが,小器用にする特技も結構だが、とかくすると、基本的に他国で生まれたものを使って儲ける「ただ乗り」だと言われるのである。 もちろん「ただ乗り」ができる能力も貴重ではあるが、創造性のある智慧を持って時代をリードできるにはそれなりの探究的な教育が求められるのである。

(NPO「科学技術振興のための教育改革支援計画」発足に当たって)

(2004年5月20日)



日本の将来を決めるのは「現在の教育」である 


 現在時代はこれまでになかった猛烈な速度で変わりつつある。情報化、国際化が飛躍的に進み、コンピュータの時代になって来た。科学技術も寿命は短く、常に新しいものへととり変わって行く。この変化はさらに加速度的に早くなり、これから二、三十年先は想像以上に変わるであろう。その頃の日本を支える今の若い人たちの「現在の教育」は将来の時代に適応した人創りでなくてはならない。時代の変化が早いだけにこのことは極めて重要である。今の日本のように「これまでの知識を記憶させる横並びの人間創りの教育」をしていてはダメで、コンピュータの方がより優れた役割を果たす。この激動の時代をリードできるのは自分の頭で柔軟かつ創造的に自分で新しいことを考えることが出来る智慧を持った人材である。

 アメリカでは15年前から理科教育を大幅に改革し、これまで、鯨の種類など理科的な知識を覚えさせていたのを止めて、これからの時代を先取りして、"science inquiry" 「探究的に考える教育」に切り替えてその基本的な考え方が、歴史や社会など全ての科目の基本になるという。この教育改革には、 全国で150回以上の公開討論会を開き、関係団体とも密接に連携し、最後には4万冊の原案を配布して広く意見を求めて正に国を挙げて改革を根付かせている。日本のように文部科学省の密室で委員たちが原案を作り、それを上意下達で下すのとは何たる違いであろうか。アメリカの真似をして「ゆとり教育」を始めて見ると、大変な不評で、現場の先生たちも、「探究的に考える教育」など自分たちも受けたこともないだけに、戸惑っているのが現状である。現在の急務は、この速い時代の変化に対応して時代を先取りする教育は日本ではどうあるべきか、基本的な検討をすることではないだろうか。 

 一方で、先生たちの再教育も大事だが、なかなか大変なことである。ロンドン大学名誉教授の森嶋通夫先生の言葉を引いてみる。「現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる」入試を改革することも確かに一つの方法である。亡くなられた福井謙一先生はよく言っておられた、「現在の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんですよ」と。私がある新設大学で、高校の教科書持参にして記述式に答えを書かせた入試を初めて行なったところ、先生は大変に誉めて下さった。高校の教科書持参だとこれを覚えているか、という種類の問題はなくなり、これは何故なのか、こういう場合はどうすればいいのか、などの考える問題になり、記述式に答えるので、受験生の考える能力が手に取るようにわかる。○×式などの比ではない。アメリカのある有名私立大学では creativity とleadership で選ぶと言っていたが,少なくとも自分で考える能力を知る一つの具体的な方法である。(ただその入試方式では問題を作る大学教員の考える能力が問われることになる)。知識の量を主に調べて、一点の差で線を引くことが最も公平な入試であると決め込む今の日本の大学入試方式は五十年送れているといわれる所以である。今度新しく始まった「ゆとり教育用の大学入試」の検討時期に入った現在,が一つの大事な変え時でもある。

 教育を改革するためには、その教育成果,「学力」を評価する手段を改革することが第一である。高校の理科の教育を見ると、「解かったか,覚えて置け」の一方的な教えこみ教育である。生徒たちは先生の言うことを受け取り理解し覚えるのである。この教育の仕方は、限られた時間に沢山の事を教えこみ、今の知識偏重の入試対策には最適の教え方である。しかしそこには、自分で疑問を持ち、新しい問題を考えたり、先生や仲間同士との議論をすることもなく、debate する機会もない。ただ受け取るだけであるので、そのまま大学に来ても講義を聞いて質問も少ないし、まして大学院に来て、ここでは独創的なことをするんだと言われても、出来るはずがない。要するに自立していないのである。エデユケイションは各人が生来持っている才能をeduce (引き出す)ことである。

 自分の頭で考えない所に個性や創造性が生まれるはずはない。時代の変化に応じて柔軟に新しいことを考え、適応し、時代をリードすることは到底出来ない。これからの理科教育はもっと自分で考える教育をすることである。今の日本のような教育をしていては日本は本当にダメになってしまう。その危機感を今教育関係者たちがどれだけの切実感をもっているのだろうか。彼等自身、知識の切り売りはしても、自分で考える教育を受けたこともないし、「探究的に」などいわれてもどうしたらよいのか解からない。一を聞いて十を知り,百を考える頭の働きが求められるのである。特に我が国は、歴史的にも専ら文化を輸入して来た国であり、「学ぶ」ことは「マネブ」(真似をする)ことに他ならなかった国である。知識偏重は伝統的に支配的にならざるを得なかった。しかしその伝統的な風土の「カセ」から抜け出さない限り、時代の早い変化はドンドンと先に行って。日本は取り残されるだけである。森嶋先生の言われる「本当にダメになる」のである。今の若い人たちの今の教育を改革しない限り、日本の将来は暗い。
(2004年6月9日)

追記:

 私は今年出された高校の化学の教科書を読みながら、どうしてこんなに考えることを避けて暗記物として書かれたいるのか、大変に気になった。こういうところはこのように教えるべきであると言う具体的な例を幾つか挙げて書いてみた。教科書が基本的な考え方を書かずに差し置いて、暗記物になっているのでは、それを忘れたら何も残らないし、それを基に出される大学入試によい問題が出るはずがない。大事なことは自分の頭で考える基本的な訓練が大きく欠如していることである。教育全体が時代の変化に逆向きになっているのである。自分で基本に則って考えて、なるほど、納得すると、一生の間頭にその基本的な考え方が残るものである。アメリカでは最近 "Less is more"と言って、浅く広いことを教えるのではなく、基本的な事柄を深くじっくりと教えて、それを基にして自分で考える教育に切り替えている。日本のような知識の量を調べる入試とは逆の傾向である。このような時代の激しい動きの中で日本でこれからどのような教育をしたらよろしいのか、差し当たりアメリカのように理科教育に焦点を絞って日本なりの風土の中で如何に対応すべきか検討することが望ましいし、日本の将来のために緊急の問題である。





高校の化学の教科書を読んでの一つの意見


この4月に発行された高校の化学IIの教科書何冊かをざっと読んでの感想を述べてみる。今回読んでみたものは6種類の教科書である。どの教科書がいいとか悪いとか言う立場ではないので、名前を挙げずに、このような書き方がされている、ということで、比較的較べ易い限られた項目のみを選び出して書いてみる。以下.アンダーラインをした項目について、(1)、(2)・・で述べてあるものは教科書にある内容であり、【 】で囲んだのは著者の意見である。 

溶液の蒸気圧降下について:

(1) 不揮発性物質が溶けている溶液では、同じ温度の純粋な溶媒に比べて蒸発する溶媒分子の数が減る。そのため、同じ温度の純粋な溶媒の蒸気圧に比べて、溶液の蒸気圧が低くなる。この現象を蒸気圧降下という。 

(2) 海水でぬれた水着は、真水でぬれた場合よりも乾きにくい。これは、不揮発性の物質を溶かした溶液では、溶液全体に対する溶媒分子の割合が減少し、同じ温度の純粋な溶媒に比べて、蒸気圧が小さくなるためである。このような現象を蒸気圧降下という。 

【ここに二つの例を挙げたが、蒸気圧は気液平衡の現象であり、平衡の概念を教えるよい例であり、蒸発速度の減少だけで蒸気圧降下を説明しているのは間違っている。溶液の場合溶媒分子の数が溶質の存在のために減るといっても、ちょうど表面の一部をカバーしたことと同じならば、蒸発速度は遅くなっても、蒸気圧は変わらないはずである。その他何故とも言わずに、蒸気圧降下という現象として天下りに述べている教科書も少なくないが、後述するようにこの蒸気圧降下は一つの基本的な現象であるだけに、工業高校で教えているラウールの法則を、一般高校でもきちんと教える方がよいのではないだろうか】

その次に溶液の沸点の上昇があるがほとんどの教科書には蒸気圧降下の結果として沸点が上昇すると言うことが同じように記述されている。溶液の蒸気圧が下がると、それが大気圧と等しくなる温度(沸点)が上がるというのである。蒸気圧の温度依存性を示してよく説明してある。

溶液の凝固点降下について:

(1) 自動車のラジエーターの不凍液に使用されるエチレングリコールを水に溶かすと、その水溶液は、OOCになっても凝固しない。このように、溶液の凝固点が純粋な溶媒よりも低くなる現象を凝固点降下という。 

(2) 水はOOCで凝固するが、海水はOOCのなっても凝固しない。一般に、溶液を冷却していくと、純溶媒の凝固点よりも低い温度で、溶液中の溶媒が凝固し始める。 

【この凝固点降下については、その直前に学んだ蒸気圧の降下とは全く無関係に、大半の教科書は天下り式に暗記する現象として述べてある。訳も解からずに.上昇するのか、降下するのか覚えるのである。折角溶液の蒸気圧降下を学んだ直後であるから、凝固点では純溶媒の固体も液体も平衡で蒸気圧は等 いが、溶媒に溶質を溶かすと、溶液の蒸気圧は下がるので、純溶媒の固体の蒸気圧よりも溶液の蒸気圧の方が低くなり、全体の温度を下げて初めて溶液と溶媒の固体との蒸気圧が等しく、凝固点になれる。これが「溶液の凝固点降下」であると蒸気圧を使って説明してはいけないのだろうか。アメリカの教科書1にもあるが、沸点上昇の場合と同様に、純溶媒と溶液の蒸気圧が温度に依存する図を凝固点まで示せば、もっと解かり易い。

浸透圧について:

(1) 濃度が異なる二つの溶液に、溶媒分子を通すが、溶質分子は通さない性質を持つ膜(半透膜)をおくと、全体の濃度が均一になる方向に、溶媒がこの膜を通って濃度の大きい方から小さい方へと移動する。このように、溶媒が膜を通って移動する現象を浸透という。その結果、初め溶液と溶媒の両液面を等しくしておいても浸透により溶液の液面の方が上昇する。それを止めるために加える圧力を浸透圧という。 

【殆どの教科書はこれと同様に半透膜からの記述になっている。しかし、浸透がどれだけ進めば溶液面の上昇がどこで、何故とまるのか、考えてもわからない。しかし本当は、初め純溶媒と溶液の液面の高さが等しくしても、両者の蒸気圧は異なるから、蒸気圧の高い溶媒から蒸気圧の低い溶液へと分子が移動し、(勿論半透膜を通して移動してもよい)蒸気圧の低い溶液の液面の方が高い位置に移動し、両液面の高さの違いの間に存在する蒸気の重さがその蒸気圧の違いに相当したところで止まり、平衡になり、そこまで昇った液の重さが浸透圧に相当する。(文献2参照のこと)それを少し取り扱うと(もちろんそこまで取り扱う必要もないが)、ファントホッフの式も比較的簡単に求めることができる。このようにこれまでの半透膜を使った説明だけでなくそれに加えて、「溶液の蒸気圧降下」から始まって、沸点の上昇、凝固点降下、浸透圧、と一連の現象が「蒸気圧」と言う一つの言葉を通して、なるほど、なるほどと、全て平衡と言う基本的な概念を理解しながら探求的に納得し理解する方が望ましいのではないだろうか。それをお互いに関連しない事柄として、理由もなしに、別々に暗記するように書かれているために、探究的に自分で考えさせる化学となれる題材をそうでなくしている嫌いがある。】

触媒について:

(1)反応の前後でそれ自身は変化せず、反応速度のみを変える物質を触媒と言う。

(2)反応速度は、活性化エネルギーの大きさによって異なるので、触媒があるときと、ないときとで違う値になる。

(3)触媒を加えると、なぜ反応速度が大きくなるのだろうか。その作用には、
次の2つが考えられる。@触媒の表面に反応物が吸着して活性化状態になり、反応しやすくなる。これは固体の触媒が作用するときに多い。A触媒と反応物が結合して中間状態に当たる物質を作り、この中間状態の物質が変化して生成物ともとの触媒になるときや、溶液中の分子・イオンが触媒作用を示す時に多い。 

【(1)にあるように「触媒が反応速度を変化させる」ということで、
正触媒だけでなく、負触媒まで含めることは望ましくない。被毒作用や連鎖反応で連鎖担体を除去するようなものなどは「負触媒」と呼ぶことが過去にはあったが、「触媒は反応を促進する物質」と、IUPACで大分前にそう決めてある。反応物が触媒表面に吸着すると「活性化状態」をつくるというのが幾つもの教科書にあったが、吸着は吸着熱だけ安定化する現象である。エネルギーの高い状態を作るものではない。「活性化状態」と言うのは「反応しやすい道筋を提供する」という意味ならば、そう表現すべきである。

 また触媒と反応物との相互作用で反応が促進されるとするだけで済ますと、「触媒は正方向の反応を促進して平衡を変えるのではないでしょうか」、と生徒に質問されることはないだろうか。「触媒は反応の活性化エネルギーを下げる」と言うが、生徒に「何故触媒は活性化エネルギーを下げるのですか」、と尋ねられたら、先生は何と答えるのだろうか。「反応を速くするからさ」と答えるのだろうか。一般に反応の速さと活性化エネルギーとがあまりに直結している感じは否めない。反応速度は活性化自由エネルギーで決まるし、酵素などの生体反応ではエントロピーが効いていることもある。触媒は「自身は変わらず」反応を促進するなどと言う言葉をただ覚えさせるだけでなしに、その仕組みを、高校生がなるほどと納得し、且つ自分で探究的に考えるように説明すべきではないだろうか3 (例えば文献3にあるように、酸素と水素の混合気体の中に銅金属が共存したらどうなるか、ヒントを与えながら考えさせると、ナルホドと本当の話が解るのではないだろうか。銅の上で酸素による酸化と水素による還元とが繰り返されて、銅がなければ進まない反応が銅の存在によって進むようになることが解る。この簡単な原理がわかれば、酸化はするけれど還元が難しいアルミニウムでは触媒にはならないことも解る。自動車の排気ガスの浄化も同じような仕組みで進んでいる)

不可逆反応について:

(1) メタンの燃焼や過酸化水素の分解などでは、正反応の起こる割合が著しく大きく、逆反応は起こらない。このように、一方向だけに進む反応を不可逆反応という。一般に、反応熱が特に大きい反応などでは、不可逆反応となることが多い。 

(2) すべての化学反応は厳密には可逆反応である。しかし、逆反応を無視することができる反応は実質的に不可逆反応になる。 

【反応の平衡定数の大きさの違いで「不可逆反応」が生まれるのだろうか。そして、すべての反応は厳密には可逆反応なのだろうか。例えば、セルローズが熱分解して炭になる変化も、である】

 以上「平衡」とダイナミックスの例を挙げてみたが、その基本的な立場として次のものがある。現在は情報化が加速度的に進み、変化の早いコンピュータの時代が到来しつつある。このような時代の求める人材はこれまでとは大きく変化をする。アメリカでもこれまでの「広く浅い知識」を取り扱っていた理科から、「探究的に考える」理科に変貌させ、その考え方が歴史や社会など他の分野の基本にもしつつある。これからの激動する時代をリードできるのは自立して自分の頭で探究的に考え、判断の出来る人材である。今の日本の教科書で自分で探究的に考える人材が育つと思うのだろうか。少し考えれば解ることまでもただ暗記をさせる旧態依然たる教科書では到底駄目で、それを基に出される大学の入試問題もよくなるはずがないし、高校以下の教育がよくならない。

 本稿ではその一部分を例にとって説明をしただけだが、要するに何も事柄を特別難しくさせることではなく、事柄の本質を理解させて、化学の基本的な考え方をしっかりと身につけ、一を聞いて十を知る知恵が求められるのである。福井謙一先生が言われていた、『今の大学入試問題は数学や英語はどうにかなりますが、化学が一番難しい。あれでは若い人の芽を摘んでいるんですよ』と。将来の日本の運命は「現在の若い人たちの教育」によって決まる。現在緊急に求められることは教科書や大学入試の根本的な改善をして、自分の頭で考えると新しいことが解るものだと言う実感を身につけさせ、個性的な知恵を育てることではないだろうか。 

1)Chemistry: The Easy Way, (2003) Barron's, N.Y. p.151
2)田丸謙二、化学と教育、51、(2003) 434
3)田丸謙二,化学と教育、 51 (2003) 35 
(「化学と教育」誌に投稿 2004年5月) 


追記: 

 教科書の批判をしているうちにはっきりすることは、まず日本の教科書が欧米のに比べて圧倒的にちゃちで貧弱であることである。内容もページ数も三分の一以下と言う。必要最低限の情報をかき集めて書くだけで精一杯に近く、考え方など到底手が廻らない。これで化学が好きになれとか探究的になど言う方が無理である。欧米のは写真も綺麗だし、化学独自の考え方を手を尽くしてきちんと解りやすく説明されているし、楽しみながら読めるように工夫してある。各種の考えさせる例題も備えている。

 教科書によっては、化学の立場からの地球のできる火成岩の話し、大陸は移動している話、いろいろな興味ある身近な話も入っていたりしている。素人でも化学に興味を抱くよう、化学の好きな子はますます好きになるし、個性を伸ばせるようになっている。欧米では教科書は学校の備品であることが多いし、5年に一度教科書を取り替えるとするとその実質的な費用は五分の一になる。(大学でも新品でなくてもused として大学の生協でも安く回し売りしている)欧米で広くやっていることを日本で出来ない話ではない。教科書は廉価でなくては、など経済大国の日本で工夫もしないで決め込んで教育の質を下げて省みないでよいのだろうか。立派な教科書なら、今の日本のようにこれ以上は教えてはいけないなど文部科学省の余計な規制は必要ない。

 これからはもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることは勿論ない。場合によってはここを読んでおけでもよいし、必要ならば教科書の中にこれだけは最低教えるよう下限を示してもよい。その上で生徒のレベルに応じて先生が好きなように教えればよいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっと元気が出るし、化石化してしまった現在の化学を生き返らせる。




時代が求めるこれからの教育


 現在時代はこれまでになかった猛烈な速度で変わりつつあります。情報化、国際化が飛躍的に進み、コンピュータの時代になって来ました。科学技術も寿命は短く、常に新しいものへととり変わって行きます。この変化はさらに加速度的に早くなり、これから二、三十年先は想像以上に変わるであろうと思われます。

 その頃の日本を支える今の若い人たちの「現在の教育」は将来の時代に適応した人創りでなくてはなりません。「国の将来は現在の教育が決める」と言われるように、時代の変化が早いだけにこのことは極めて重要であります。今の日本のように「これまでの知識を記憶させる横並びの人間創りの教育」をしていてはダメで、この激動の時代をリードできるのは自分の頭で個性的に柔軟かつ創造性を持って新しいことを考えることが出来る智慧を持った人材です。

 欧米、特にアメリカでは15年余り前から国を挙げて新しい理科教育の改革を始めました。従来は例えば鯨の種類を覚えさせたりして、理科的な知識を重視してきましたが、それを止めてscience inquiry, つまり理科的な探究的な考え方に重点を移し、その考え方が,社会や歴史など他の科目の基本にもなるように変えて行きました。"Less is more"と称して、広く浅い教育から、基本を重点的に身につけさせ、それに基づいて自立して考えるような教育への改革でもあります。「ただ聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」 考える基本的なことをただ聞いただけというのと、本当に理解したのとでは自分で考える上では大変な違いです。これからは浅く広い知識よりも、考える基本を時間をかけてもしっかりと身につけることです。

 わが国でもそれを真似て、いわゆる「ゆとり教育」が始まり、「探究的に考えるのだ」と言うのですが、これまでになかった教育形式だけに保守的な現場では戸惑っている状態でもあります。高校の理科の時間を見学すると、「解ったか、覚えておけ」の一方的な教え込みが支配的になっています。それは限られた時間内に沢山のことを教えるにはよい方法で、知識偏重の大学入試に備える最適な教育でもあるからで、変わるに変えられない仕組みになっています。

 そこには自分の個性的な考え方を育てたり,自分の頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練はほとんどない。自分の言葉で話し、debateすることも乏しいし、議論を通して学ぶ機会もない。いつも教えられることを受身に学ぶ習慣では大学に行っても質問も少ないし、ましてや大学院に進んで、創造的な研究をするのだと言われても、それまで自分の頭できびしく考えたこともないだけに、「創造」の意味もわからない、せいぜいcontrivance (工夫、機知)の範囲にとどまります。 要するに自立してないのです。特にわが国では歴史的に文化の輸入国で、「学ぶ」ことは「マネブ」つまり外国の文化を真似して取り入れる風土が抜けきれないでいるだけに、どうしても知識偏重が支配的に残っているからでもあります。

 アメリカのように子供の頃から自分の考えを育て、debateできる風土とは違います。新しく「ゆとり教育」によって「探究的に考える教育」を、と言っても,そのような教育を受けて来なかった先生たちが戸惑うのも致し方ない面があります。一を聞いて一を知るだけの教育から、一を聞いて基本に基づいて十を知り百を考える教育にすることです。そのためには教員の再教育、旧態依然の教科書の見直し、入試制度の改革など、きめ細かくこれからあるべき教育を拡め、根付かせる努力が求められます。ノーベル化学賞の福井謙一先生はよく言っておられました、「大学入試の問題を見ますと、英語や数学はどうにかなりますが、化学は一番難しい」、「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるのです」と。高校の教科書が考え方よりもむしろ昔ながらの知識偏重である限り、それを基にして出される大学入試問題もおのずから知識偏重にならざるを得ないことにもなります。

 それでは具体的に教育改革を進める方法は如何にすればいいかを考えてみます。教育に関する考え方は十人十色、人によっていろいろあり得ます。

 教育改革を取り扱う分野が広ければ広いほど、焦点がぼやける傾向があります。
理科に絞ることも一案ですが、できれば、一つの比較的狭い分野に限り、焦点を絞ってはっきりした成果が上がるようにして、それを改革のモデルにして他の分野に拡張するのが具体的にやりよい方法ではないでしょうか。

 その具体的な例として化学を考えてみます。その理由は次の通りです。 

1)「化学は暗記物」という俗説がまかり通っている分野です。現在の教科書は考え方を避けて、正に暗記もの的に書かれている部分が少なくない。

2)日本化学会は、物理や数学などの物理教育学会、数学教育学会など教育学会を作っているのと違って、教育関係者が第一線の研究者と同じ学会の中で、研究者と共に直接教育に関与する体制を持っています。学会の中に化学教育協議会という組織を持って全国的な支部を通して「化学への招待」など、化学の普及などに努力していて、比較的に教育改革がし易い体制になっています。 先生たちの再教育にしてもその線に載せることも考えられます。.    
 
3)高校の化学の教科書を見ても、当然考えれば簡単にわかることでさえも、暗記物に仕立てられていて、その種の教科書を基にして出される大学入試の問題がよくなるはずもない。つまり、化学は教科書の検討から始めて基本的に改善される可能性が高い分野です。ついては教科書検定制度自体も先進国では珍しいもので、検討の余地があります。このような現在の教育体制の基本に触れて検討するためには文部科学省の科学研究費でするよりも民間の財団の協力による方が効果的でもあります。

したがって具体的には、化学教育の実情に詳しい、しかもこれまでにもはっきりした実績のある人を責任者に選び、その人たちを中心にして新しいこれからあるべき教育とその普及について考えるプロジェクトを発足して問題点を検討しながら素案を作ることです。一方では日本化学会の化学教育協議会各地方支部での公開討論会を通してその新しい教育のあり方を広く根付かせる努力をすることが望ましいのではないかと考えていますが如何でしょうか。
 
参考までに

『現在の教育制度は単線教育〔平等教育〕で,子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを高校入試,大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。 日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。 自分で考え自分で判断するという訓練がもっとも欠如している。 自分で考え,横並びでない自己判断のできる人間を育てる教育をしなければ,2050年の日本は本当にだめになる。』 (ロンドン大学の名誉教授:森嶋通夫、こうとうけん、No.16 (1998) 17)

『一般的に日本の若者は、「これをやれ」と言われるとよくできます。 しかし、自分から何かを発見することは苦手です。 それに挑戦する精神も乏しい。 日本の学問は、ものを習う「習得型」で何か新しいことに挑戦する「模索型」が不足している。 というより、「探究心」の教育を受けていないといっていいと思います』 (江崎玲於奈、「創造力の育て方、鍛え方」より) 

アメリカでの理科教育の基本的な改革は、次のように実行されてきました。 アメリカでは、これまでは教育はとかく地域的に取り扱われていたのですが、科学アカデミーを中心にして全国的規模で識者を集めで新しい教育の原案を作り、それを150回以上の公開討論を行うとともに、関係学会とも連絡し、最後は4万冊の原案を刷って関係者に配って検討を重ねることを通して、新しい教育を根付かせています。 (日本のようにう文部科学省の密室で原案が出来、それがそのまま天下りするのとは余りに異なっています)

参考文献: 「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149; 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712: 「高校化学での「触媒」の教え方について」,田丸謙二、化学と教育、51、35 (2003): 「高校化学での浸透圧の教え方について」、田丸謙二、化学と教育、51、434(2003): 「新しい大学入試方式の模索」,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456:「理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実,同誌、45 (1997) 146  「これからの理科教育」 田丸謙二、東京理科大学科学フォーラム、2004年1月号8頁





これからの理科教育

   
          
はじめに: 

わが国の歴史をふり返って見るとわかるが,わが国は大昔からいろいろの知恵を海外から取り入れて学んできている。水田稲作をはじめ、漢字、漢文、儒教、仏教などが外国から伝わって来て、さらに明治の時代になってからは、殊にヨーロッパの近代科学や技術のみならず、法律、学芸等が怒涛のごとく輸入されて来ている。自分で創った原体験が極めて乏しい歴史である。その挙句,たとえば,日本語で「学問をする」ことをマナブと言うし,マネブとも言う,真似をすることが学問の本質とされて来たわけである。したがってわが国での教育はおのずから知識を取り入れることが最重視され、その傾向は現在も強く支配的に残っている。学問は創るものではなくてマネブものなのである。高校以下の学校での授業もおのずから「解ったか、覚えておけ」の一方的な「教え込み方式」になっていることが多い。これは限られた時間内にたくさんの事を教えるにはよい方法であるし、記憶偏重の入学試験に備えるためにも、それが最も効率のよい教え方でもある。入試に備える教え方として、変えるに変えられない仕組みにもなっている。

しかし、そこには自分の個性的な考え方を育てたり,自分の頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練はほとんどない。自分の言葉で話し、debateすることもないし、議論を通して学ぶ機会もない。このような「外からマネブだけの教育」の中で育って来ると、大学に来ても、講義を受けて質問は少ないし,社会に出たり,殊に大学院に進学しても、それまで自分で判断したこともないだけに、自分で考え出し、独創性を生むことは容易でない。要するに自立できてないのである。ロンドン大学の名誉教授の森嶋先生の言葉を引いてみる。{現在の教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄目になる}(1) 

これからの急激に変革する時代と教育:現在の若い人たちは二、三十年先に社会を中心的に背負って立つ人たちである。その人たちのための現在の教育は、将来どのような人材が求められるか、によって決められるべきものである。これからは情報化,国際化が加速度的に進み,企業の技術の回転も迅速に新しいものに置き換わる激動の時代になる。その時代に適応し、さらにそれをリードできるのは単なる「物知り」ではなく,自分で考える基本をしっかりと身につけて、変化に適応でき,優れた判断が出来る人材である。コンピュータが出来ることしかできない横並びの人材は必要がなくなってしまう。その反面,コンピュータが出来ないことが出来る知恵のある人材が求められることになる。これからはますます「回転の速い知恵の時代」がやって来る。
 
このような時代の激しい流れに応じて、アメリカなどでも、これまでの知識重視の教育を止めて、自分の頭で考える訓練を始めている(2)。理科の教育も、これまでの鯨の種類を覚えさせたりしていたのを止めて、"science inquiry"と称し,知識よりも物事を探求的、論理的に考える「考え方」を教育の基本と考えるようになって来た。つまり「理科的知識を教える理科」から「歴史や社会など、全ての科目の基本になる科学的,論理的な考え方を学ぶ理科」への転換である。わが国でも遅まきながらアメリカ方式を真似て「ゆとり教育」が始められたが、「自ら探求的に考えさせる教育を」と言っても、これまで歴史的にもそのような原体験や教育が極端に乏しかった風土に育って来ただけに、教師たちにしても戸惑いしている状態である。しかし、将来の国の盛衰を決めるのは正に「現在の教育」なのである。 逃げることは許されない。 

「探求を通しての理科教育」:アメリカでは5歳の子供から高校生まで全ての人にこの新しい理科を教えようとしている。子供は生まれつきすぐに「どうして?」とか,「何故?」と聞きたがる。子供たちが持つ好奇心、自然への不可思議さや畏敬の念を大切に育てることから始まる。出来上がった理科を教え込むと言うよりも,それに加えてそれを作り上げる過程を重視するのである。歴史的にもわが国に最も欠如して来た一面である。
  
「探究を通した理科教育」の例を次に挙げる。小学校5年生の実験である。クラスを4人ずつのグループに分け,紐やテープと座金から勝手な大きさの振り子を組み立てさせることから始まる。それぞれのグループがその振り子の振る回数を15秒の間隔で数える。皆勝手に作るので,グループによって皆違った結果を得ることになる。それが何によるかを「探究」させる。振り子の紐の長さの違いによる違いなのか,重りの重さの違いによるものなのか,最初に振らせる高さの違いによるものなのか,その他いろいろの可能性の中でどれが正しいのか、どうしたらそれを検証できるのかを考えるのである。結論の知識だけなら簡単に教えることが出来ることでも,生徒たちは皆での討論や実験を通して、自らの体験を通して探究することになるのである。

このような実験以外にも,好奇心に基いた簡単な身の回りの実験(または調査)を生徒たちにも企画させ、組み立てさせ,やらせてみる,どうしたらより正確にデータが求められるか,そしてそのデータに基いてどのような説明をするか、それに代わる他の説明があるかどうか,皆で議論をする。実験は手を使うだけでなく頭を使うのである。科学者のすることを子供なりにやらせることになる。科学者が個性的であるように,子供に探求をさせるときそこに個性が現れ育つのである。探求する結論を「知識」として押しつけるのではなく、時間をかけてその求め方を学ぶのである。授業もできるだけ考えるプロセスを踏んで納得するように説明をするのである。この種の理科教育は,生徒を強くひきつけることになるが(3)、これまでの理科よりも時間的に長くかかることになる。しかし、知識の量よりも、興味を深めながら基本的な科学的な考え方を身につけさせ,それを使って説明し、発展させて考えることも出来るようになるし,それが他の科目の基本にもなる。

「ゆとりある教育」と風土:日本の社会は伝統的に一つの「もたれ合い社会」である。例えば「よろしく」と言う挨拶の仕方は、英語では翻訳出来ない言葉であり、その特徴をよくあらわしている。皆で思い合い,「和をもって尊しとなし」皆が家族的に協力する美点もある。然しその半面全体の中において「自我」と言うものが育ち難い。「探求する」教育にしても、自分で新しい文明を築いた原体験のない歴史や風土にはなじまない。前にも書いたように(4),アメリカの子供達は幼稚園の頃から,常に「お前はどう考えるか?」を繰り返し問われ,自己主張(この点は問題もあるが)と共に自分の頭で考え、自分の言葉で話す訓練を受けている。debateができるのである。debateのためには「一を聞いて十を考え、かつ自分の考えを個性的に持つ」ための訓練を受けている。

風土の違いと言えばそれまでだが,わが国ではその種の訓練が余りにもなさ過ぎる。議論から学ぶ訓練が殆どない。一を聞いて一としか受け取れない人には考える重要性はわからない。よく、「思考力や創造力の重要性」を言うと、殊にマネブ人たちはそれでは「知識習得の軽視」になり、「知識なしの思考力の愚に陥る」と言うものである。もちろん物事を考えるにはそれなりの知識がなければいけないことは言うまでもない。しかし、むしろ考えれば考えるほどに、その考える過程の中に新しい知識の必要性が解り、自分で調べて身につけるものでもある。「学而不思則罔(クラク)、思而不学則殆(アヤウシ)」(論語)。知識を得ることと,自分の頭で考える事とは別の働きである。その両方が重要なので,組み合わさって本当の理解になり,自分の知恵が育つのである。「一を聞いて十を知り」、十を知って更に頭を使って疑問が湧き、自分で調べて新しい知識を求めて、更に創造的に百を知ることにもなる可能性さえある。最近アメリカでは "Less is more" という言葉が言われている。つまり広く浅い知識よりも基本的な考え方をきちんと身につけることにより、沢山の実りある考えが生まれるということである。「一匹の魚を貰うと一日の飢えをしのぐことが出来る。然し魚を捕まえることを習うと一生餓えなくてすむ」。忘れたら何も残らないことよりも,魚の捕り方を習得するのである。  

議論を通しての教え方の一例を挙げると,一部は既に始まりつつあるが、各生徒[場合によっては幾人かづつにまとめても]にコンピュータをあてがって、授業は常に先生と生徒との質疑応答、やり取りを通してする。教師は常に生徒たちに質問を出し、生徒はそれに答え、その答えは場合によってはその場でヒストグラムに示される。先生は常に生徒は何を知らなくて、どのように考えるか、の実体を把握しながら授業を進めることになる。要するに授業は先生と生徒との討論を通して進めるのである。生徒の成績,個性や能力はそのやり取りの記録によって筆記試験を通さずとも自然に答えが出て来る。「ただ読んだだけでは理解度10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。同じ事を教えるのでも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのでは創造的に新しいことを考え出す上では大変な違いになる。 

教育改善の手段としての入試: 教育を改善する際、まず言われるのは教師の再教育である。これは言うは易くして実効は容易ではない。直接的な教育改善方法の一つとして入試の改善がある。教育の内容が改善されれば、それを評価する仕方としてのテストの内容も当然変わってくるはずであるし、また変わらなければ意味がない。知識の量を〇×で尋ねれば「学力」が解ると言う迷信は捨てることである。少なくとも「学力」を判定しようとする場合は,知識の量だけでなく思考力の両面を見る必要がある。

私は新設の山口東京理科大学で,「高校の教科書持参で受験し,記述式で答えさせる」方式をやってみた(5)。ノーベル化学賞の福井謙一先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるのですよ」と言われていたが、この新しい入試方式を聞かれて大変に誉めて頂き、大学の開学式にお言葉を頂いた冒頭にそのことのお褒めの言葉に言及された。実際にやってみても、それにより受験生が減るわけでもないし,〇×方式などより較べものにならない程受験生の考える能力が正確に判定出来ることが解った。この方式だと,それは何故なのかとか,こういう場合どうしたらよいのかなど,それは正にそのまま「探究的思考力を調べる入試」様式になるのである。(この方式をセンター試験との組み合わせるのも多様性ある能力判定には一つの実際的な方法である)ただこの種の入試での一つの大きな問題点は,出題者によっては問題を作ることに不慣れで困難であったりすることがある。概して不断から知識だけを授けている種類の大学教授たちの「芽の摘まれ具合」が問われることになりかねない。アメリカのある有名私立大学の入試にはcreativityと leadership でみるといっていたが、知識の量を主として、一点の違いでも線を引く方法が最も公平であるとする日本式入試が50年遅れていると言われる所以である。試験制度の遅れは教育の内容自体の遅れに直接繋がる。横並びの公平さに捉われて人間の最も大事なものを見分ける知恵のなさの現れである。

おわりに: 

これから求められるのは知恵を育てる理科教育である。生徒に自分で考えさせようとするのにはまず教師が自分で深く考えることである。自分の頭で深く考えて初めて自分なりのやり方が育ち,独創性が生まれる。生徒は先生の背を見て育つ。一般に人は自分は充分に考えていると思い込んでいる。自分の考えの足りなさは自分ではわからないものである。特にわが国では自立して自分の頭で考えさせ,自分なりの知恵を伸ばす教育がこれまで余りにもなさ過ぎた。差別なく横並びの人間を作っていたし、過去において先生自身がそのような教育を受けて育っている。これまでのわが国の「学びて思わざる」教育が,歴史的な風土から由来するだけに、それだけ多くの努力をしないと,加速度的に変わって行く時代からますます取り残されることになることは目に見えている。この激動の時代を先取りして、変わるなら今である。  

1.森嶋通夫〈ロンドン大学名誉教授〉こうとうけん、No.16 (1998) p.17
2. National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research Council,(1998), National Academy Press:  .
3. 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、712
4 アメリカの孫と日本の孫,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149
5 新しい大学入試方式の模索,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456: 理科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試、木下実,同誌、45 (1997) 146





太陽エネルギーを用いる水からの水素製造

堂免一成  田丸謙二


  化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生などによる地球環境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題は、放っておけばいつか解決するという類のものではない。我々の生活に直結しており、我々自身で積極的に取りくんでいかねば決して解決しない問題である。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギーを消費する事によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担っている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続ける事は地球環境を破壊する危険性が高い。

  もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネルギーを何億年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれの住みやすい地球環境が形成されてきたはずである。我々はそのような地球が気の遠くなるような時間をかけてしまいこんできたエネルギーを「かってに」掘り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使い切ってしまおうとしている。したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるいは地球史上極めて特異な浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえのない資源を使い切ってしまいつつある時代に生きる我々は、それについて微塵も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっては地球環境を破壊しない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重大な義務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。なかでも太陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配のない半永久的でクリーンな理想的なエネルギー源であろう。

  太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は太陽熱を利用した温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る方法も既に実用化している。しかし、これですぐにエネルギー問題が解決するわけでない事は誰でも実感している事であろう。

  ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素からヘリウムを合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に放出している。その中の約百億分の一のエネルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 x 1024 J/年)が地上や海面に到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネルギーは約3.0 x 1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちなみにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料などの化学エネルギーに変換されている。また、地球上にこれまで蓄えられた石油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし地球上に降り注ぐ太陽エネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように考えれば太陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわかる。

  では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太陽光が地球全体に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光から文明活動を維持するための十分なエネルギーを取り出すためには数十万km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギーの変換方法を開発しなければならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほんの数%程度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。その様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水分解による水素製造である。もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば人類は太陽エネルギーを一次エネルギー源とする真にクリーンで再生可能なエネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性は、最近の燃料電池の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは間違いない。しかしながら現在用いられている水素は化石資源(石油や天然ガス)の改質によって得られるものがほとんどである。これは水素生成時に二酸化炭素を発生するのみでなく、明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題の本質的な解決にはならない。

  もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量子収率30%で、1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国の標準的な日照条件下1km2当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素が発生する。この時の太陽エネルギー全体の中で水素発生に用いられる変換効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業的にメタンから水素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標が達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が実用化に向けた開発研究の段階に移行すると考えられる。

  現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固体光触媒を用いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行われているが、以下、不均一系光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解する為に必要な熱力学的条件は、光触媒として用いる半導体あるいは絶縁体の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-の二つの酸化還元電位をはさむような状況にあればよい。個々の電子のエネルギーに換算すると、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すればよい。また、光のエネルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の領域である。つまり、全ての可視光領域(400nm 〜 800nm)の光が原理的には水分解反応に利用できる。ただしこれらの条件はあくまで熱力学的な平衡の議論から導かれるものであるから、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性化エネルギー(電気化学的な言葉でいえば過電圧)を考慮する必要があるので、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で600nm程度)が現実的には必要であろう。

  固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世界に先駆けて我が国で初めて報告され、本多―藤嶋効果と呼ばれている。この実験では二酸化チタン(ルチル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用いて水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を通して白金電極に導き水素イオンを還元し水素を発生させた。このような水の光分解の研究は、その後粒径がミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用いた研究に発展した。微粒子光触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活する前に表面あるいは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがあるため、多くの新しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分解反応は50%を超える量子収率で実現できる。

  しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域に広がる幅広い分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネルギー分布がない。つまり太陽光を用いて水を分解するためには可視光領域の光を十分に利用できる光触媒を開発することが必要である。しかしながら、これまでに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外光領域の光あるいはほんの少しの可視光領域で働くものである。

  最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d0型の遷移金属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオンをもつ材料群である。例えばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなものであり、オキシサルファイド、ナイトライド、オキシナイトライドと呼ばれる物質群である。これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャルエネルギーを持ったS3p軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤や還元剤の存在下では水素や酸素を安定に生成することが確認されており、これまで見出されていなかった、600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定な物質群であることがわかってきた。したがって、このような物質の調製法の開発および類似化合物の探索によって、太陽光を用いる水からの水素生成が、近い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で安定な光触媒を広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の水素を得るのも夢ではない。 このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可能となれば、21世紀の人類が直面する大きな課題であるエネルギー問題と環境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性がある。










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