Kenzi Tamaru
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(ビデオは、2007年5月12日、浜松市北区
浜北・森の家レストラン(マツボックリ)にて収録。)


なぜ化学を選んだか


 
高校時代

暗記の化学から探究の化学へ

嫌いな化学から好きな化学へ; 私が旧制の中学で初めて学んだ化学は、文字通り全くの暗記物であった。なぜ暗記しなければいけないのかも解からずに次々に化合物の名前や性質などをただただ覚えさせられる嫌いな科目であった。それはてき面に成績に現れて、全ての学科の中で化学が最低であった。普段成績については何も言わない化学者だった父が、私の通信簿を見て「化学は何が解からないの?」と尋ねられ、何と答えてよいか、困ったことを覚えている。如何にも頼りない息子であった。

旧制高校の化学は、それまでの化学とは全然違っていた。化学結合やイオン化傾向による電池やメッキの話し、溶液の蒸気圧降下と凝固点の関係、浸透圧で電解質の電離度が測定できたり、「なるほど、なるほど}と納得し、分析もまた面白かった。(大学入試に2時間で未知試料を分析する実験があった) こうして目から鱗が落ち、論理的な思考を土台として「もの」を学ぶ面白さに惹かれて化学を選ぶことにした。

時代と共に変わる理科: アメリカでは15年ほど前から時代を先取りして理科教育を大きく変えた。それまでのように鯨の種類を覚えさせるようなことは止めて、知識を削減し、探究的に考える理科へと改革した(1)。欧州でも同じことが始まった。これからますます変化の速い時代に適応して、時代をリードして行くには知識よりも自立した柔軟な個性と智慧が求められる。

そこでわが国でもそれを取り入れようとして「ゆとり教育」が始まった。知識を3割削減し、自立して探究的に考えようというのである。しかし、現実にはどうもうまく行っていない。なぜだろうか。欧米ではeducation は各人の優れた点をeduce引き出す作業であり、個性を伸ばすように、小学生も「自立して考え」、debateが出来るように訓練されている(2)。しかし、わが国にはこの種の教育はない。子供だけでなく先生にもない。「学ぶ」は「マネブ」(真似をする)から来た言葉で、伝統的に知識を偏重して受け入れて来た、つまり、ベクトルが逆なのである。日本では、「皆一緒、差別なし」の美風(?)で、自立して探究的に考えて、個性を育成することまで「マネバなかった」のである。暗記することと考えることとは別なものである。「ゆとり教育」がうまく行かないわけである。

これからの化学: 私が化学に魅せられた基本は、「なるほど、なるほど」と納得しながら「もの」の本質が明らかになることであった。反応の基本や平衡などを基に考えれば考えるほど新しい理解が拡がり、面白くなる。しかし、現在の高校の化学の教科書を眺めてみると、私の旧制中学時代の化学を髣髴させる内容で(3)、こんな化学を学ぶ生徒が可愛そうになる。現在は携帯用のパソコンも出てくる時代である。情報が溢れる時代には暗記よりも情報や知識をツールとして考える力が問われる時代が来ている。この時代の激しい変化に適応するよう、教育を改革する一つの方法は教科書や入試内容を改善し、しっかりとした基本を基に探究的に考える智慧を育てることである。入試の出題も当然この線に沿うことになる。探究的に考え、個性を育てることが、コンピュータ時代の教育であり、「ゆとり教育」を育てることにもなり、化学を面白くさせる。アメリカ化学会から出されたChemistryという本がこの方向をはっきりと示している(4)。私が旧制高校に入って「なるほど、なるほど」と納得して好きになった化学になって来る。

1 National Science Education Standards, National Research Council(1996), National Academy Press. 2. 「アメリカの孫と日本の孫」,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999) 1149  3 近年私が化教誌にしばしば指摘している 4 本誌、4月号、515(2005) 





私が化学者になった理由

   空気中の窒素固定に成功し、「空気からパンをつくった」ということで1918年にノーベル賞を受賞したドイツのF.Haberが1924年に来日し、亡父が彼のもとで研究をしていた縁で、鎌倉にある田丸家を訪れた。上にそのときの写真を示す。母の腕の中にいる赤ん坊が私である。(家は関東大震災の余震を防ぐために丸太棒で支えてある)

  私が旧制中学のときに学んだ「化学」は私の最も嫌いな科目であり、全科目のなかでも最低の成績だった。普段成績のことについて何もいわない父が私の通信簿を見て「化学のどこがわからないの?」と尋ねてきて、返事に困った記憶がある。実際のところ、「わからない」のではなくて、化学がまったくつまらない暗記物だったため、勉強する気になれなかったのであった。しかし、旧制高校に進んで学んだ「化学」はそれまでのものとはまったく異なり、電気化学など物理化学的なたいへん面白い「考える化学」であった。まさに、目からうろこが落ちる思いであった。

  私が大学を卒業したのは終戦の翌年で、東京も空襲で広く焼け野原になり、産業らしいものもなく、まともな就職先もなかった。そのころ戦時中に出来た「特別研究生」という制度(理工系の一部の卒業生を兵役から免除して研究をさせる制度)が残っており、さいわいそれに選ばれて、助手並みの給料をいただきながら研究室に残ることができた。その後、運よく敗戦後のきわめて惨めな状態から脱け出して、アメリカのPrinceton大学にある触媒分野の世界的な権威、Sir Hugh Taylor先生の研究室にポスドクとして3年間留学することが出来た。Taylor先生は若い頃にHaberの研究室で亡父と会われたこともあり、Haberが数多くの一流学者(Nernst, Ostwald, Ramsay, Le Chatelierなど)を差し置いて窒素固定に成功したのはLe Rossignol や田丸などの優れた実験者が下にいたからだということで、私の学位論文を参考にして、「充実した環境で研究ができるからいらっしゃい」と親切にも私をお誘いくださったのである。Taylor先生は素晴らしい方で、研究は頭でするものであることを問わず語りに教えてくださり、先生からはたくさんのことを学んだ。

  当時、触媒作用の研究は、触媒は常にblack-boxの中にあって、反応機構はその外側から反応速度式などをもとに推論されていた。しかし、留学中、私は触媒反応が進んでいる最中に触媒表面の吸着質の動的挙動を直接測る方法を初めて見いだし、Taylor先生もたいへん高く評価してくださった。帰国してその成果を発表をしたところ、北海道大学の触媒研究所の所長であった堀内寿郎先生(のちに学長へ就任)が「これは学士院賞に値する」といわれて、堀内先生に連れられて文部省(現文部科学省)の研究助成課長にお会いし、特別に15万円を助成していただいた。当時私は30を越して程ない横浜国立大学の助教授であり、真空ポンプ一つ買うにも苦労していた状態であったので、この助成はどれだけ助かったか計り知れない。その後私のin situの方法は赤外や電子分光が使えるようになり、この分野は飛躍的な進歩を遂げた。こんな具合で、医者の子供が医者になりたがるように、たいした主体性もなかったが、さいわいにも大好きになった化学の分野で、父をはじめ優れた先生方のたいへんなご恩を受けながら「化学者」になれた。おかげでとても楽しいことばかりであった。ありがたいことである。
                (2007年4月21日)
(月刊「化学」誌8月号掲載予定)




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